魔法使いの妹
蝉が鳴いている。木漏れ日の落ちる並木道。そんな中をぶらぶらと手を振って歩いていると、夏をシャワーみたいにまるごと浴びた気分になる。
わたしの後ろをぴったりくっついていた足音がなくなった。振り返ると、くるりと回転した拍子にランドセルの金具がカチャカチャと音を鳴らした。ああ、閉め忘れてたっけ?
「なのはー?」
片手を背中に回して、金具をぐりぐりしながら妹の名前を呼んだ。菜ノ葉はパールグリーン色のランドセルの肩紐をぎゅっと掴んで、遠くを見上げていた。
「どーしたん?」
言いながら駆け寄ると「あれ……」と菜ノ葉は小さな指でマンションの上階を指さした。
「あーね」
駐車場を挟んで向こう側にあるマンションを見上げると、そこには猫がいた。あそこは何階だろう。たぶん五と六の間、そのくらいだ。どうやってあんなところまで登ったのか、何があってそうなったのか見当もつかないが、まっくろくろすけみたいにもじゃもじゃの黒い猫が配管と壁の間に挟まっていた。
猫は抜け出すことを諦めてしまったのか、それともいったんの小休止なのか、身じろぎひとつしなかった。宙ぶらりんになった後ろ脚と尻尾をだらりとぶら下げているだけだ。ぼけーっと見てないでさっさと助けんかい、とでも言いたげな目でわたし達を見下ろしている様子は、もはや貫禄すら感じる。
「助けてあげたら?」
「え……」
「あんたになら出来るじゃん。助けたいと思ったんでしょ?」
「でも……。ママは外で使っちゃだめだって……。あんなことができるのは、普通じゃないから」
自分はこうしたいと決まっているくせに、いつも私に背中を押させようとする。菜ノ葉はあざといやつだ。そこがまた可愛いところでもあるんだけど。
「菜ノ葉はすごい力を持っているのに、普通じゃないからって理由でやっちゃ駄目なんて馬鹿げてる。変なのはママとパパだよ」
最近、本当にそう思う。わたしはママとパパのことも大好きだけど、このことに関してだけは二人を軽蔑している。
「特別に生まれたのに、普通に合わせるなんてもったいないし。誰になんて言われようと、あんたが好きなようにすればいい」
菜ノ葉の目がきらりと光った。わたしの服の裾をぎゅっと握る。ストライプ模様のTシャツに小さな拳ふたつ分の皺が生まれた。
「やんの?」
こくんと菜ノ葉は大きく頷いた。
「よっしゃ。頑張れ」
「うん」
菜ノ葉は周りを見渡して人がいないことを確認すると、ほっと胸を撫でおろした。親の教育の弊害か、妹はあれを他人に見られることを極端に恐れている。わたしだったら、ところ構わずに自慢するのに。
「今なら……」
ぽつりとつぶやいて、菜ノ葉は両手を上に掲げた。眉間に皺を寄せて黒猫を凝視する。風が吹いて、ツインテールの髪の毛が揺れた。
これをするときの菜ノ葉はいつもすごく辛そうだ。顔は赤くなって、体はプルプルと震えていて、大粒な汗が首筋をつたう。
「がんばれ……! 菜ノ葉がんばれ!」
「がんばるぅ……!」
上擦った声で菜ノ葉は言う。それから少し経つと、配管の繋ぎ目がガコッと外れて、ぷしゃーと水が噴き出した。
「あーあー」
スプリンクラーみたいに水がまき散らされていく光景に、わたしはあんぐりと口を開けた。
黒猫はびしょびしょに濡れた姿でふわふわと地上に降り立つと、真っ直ぐにこっちに向かって駆けてきて、ぐるぐると私たちの足下を周った。
「あんたが助けてくれたって分かったのかな?」
「どうだろう」
ぜえぜえと息を切らしながら、菜ノ葉はにっこりと笑う。
「ランドセル貸しな」
「あ、ありがと」
疲れているだろうから、菜ノ葉のランドセルを持ってあげた。
うわ! あれ!
遠くから声が聞こえた。いつのまにか駐車場のところに二人組の男が立っていて、スプリンクラーと化した配管を見上げていた。
「あれ元に戻せそう?」
菜ノ葉は真横に首を振った。そりゃそうだよなあ、と思う。一回使うだけでこれだけの疲れようだ。もう一度あれをやるなんて無理だろう。
「そしたら逃げろ!」
わたしは菜ノ葉の手を取って走り出した。
ミンミンと蝉が鳴く、木漏れ日の落ちる並木道、夏のシャワーの中を駆けていく。なぜか黒猫まで一緒に走る。
菜ノ葉はわたしに手を引かれながら楽しそうに笑っている。ケラケラと笑っている。わたしの気持ちなんて、知りもしないで。
その翌月、妹宛に魔法学校への招待状が届いた。
わたしの妹は、信じられないことに魔法使いだ。
わたしはとても恵まれている。おまえは特別じゃないと気づかせてくれる誰かが、最も身近にいたのだから。ほとんどの人間が人生のどこかで気づくであろうことを、わたしは人生の最序盤で知ることができた。愛すべき妹が教えてくれた。
「つぼみー!」
階下から校内放送くらいでかいママの声が飛んできて、ゆっくりと瞼を開けた。
欠伸をしながらベッドから起き上がり、タンクトップをベッドに脱ぎ捨て制服に着替えた。高校に入学した当初、あれだけ可愛いと気に入っていた真っ赤なリボンも毎日見慣れてしまえば、しょせんはただの布生地に変わりない。朝の貴重な時間を使ってまで結ぶのは苦行になってしまった。
階段を降りてダイニングに行くと、ひとり分の朝食が用意されていた。パパとママは、いつも私よりも早く朝食を済ませる。パパはとっくに仕事に出かけていて、ママは洗面台でお化粧をしていることだろう。
しめじの味噌汁を啜っていると、柔らかい毛がくるぶしに触れる。テーブルの下を覗くと、黒猫がわたしの足に巻きついていた。
黒猫を拾い上げて、膝の上に乗せた。
「クロスケ。おまえは今日も、もじゃもじゃだなあ」
クロスケと呼ばれた黒猫は嬉しそうにミャアと鳴いた。「ほめてないぞー」と顎を撫でてやると、尻尾がぴんと真上に伸びた。
あの日、クロスケを救出してから五年が経つ。わたしは高校二年生に、妹は魔法学校の五年生になった。
菜ノ葉が十歳の誕生日を迎えた日、魔法学校への招待状が届いたときは家族全員で混乱したものだ。当然、魔法学校なるものの存在を知る由もない私たちは悪戯だろうと結論付けようとしたが、突然その手紙は虹色の亀に姿を変えて、甲羅の中から黙々と煙を噴出させたものだから、これは悪戯ではないと判明した。
あとになって菜ノ葉から訊いて分かったことだが、あの亀の煙を吸い込むと、魔法学校や魔法使いのことを口外できない魔法にかかるそうだ。
かくして、菜ノ葉は魔法学校へ入学することになった。
魔法学校は太平洋のどこかの島にあるらしい。その島は魔法の霧で覆い隠されているため地図にも載っていないそうだ。基本的に菜ノ葉は向こうで暮らしていて、学校が長期休暇に入ったタイミングしか家に返って来ない。
大好きな妹と年に一回しか会えないのはとても寂しい。同時に、心のどこかでほっとしている自分がいた。毎日となりに置くには、妹は特別すぎた。
学校の授業は退屈だ。欠伸を噛み殺しながら、黒板の文字をノートに写していく。ふいに先生のネクタイの柄をぼけーっと見つめて、ナメクジみたいな柄だなあと思う。あーいかんいかん、とまた手を動かす。こんなことの繰り返し。
やっぱり退屈だ。今頃、菜ノ葉は火を操る魔法だったり、猫に変身する魔法だったりを習っているのかと想像すると余計にそう思う。そんな楽しそうな授業だったら、わたしだって目をキラキラとさせて、喜々として手を動かすのに。
黒板の上の、まん丸い掛け時計の長針を睨んだ。片目を瞑り、ペンの先を持ち上げて、時計の長針に重ねる。上がれと命じながらペンをくいくい動かす。しばらくそうしていると、ツンツンと背中を突かれた。
「なにしてんの?」
うしろの席にいる唯がささやく。
「あの時計の針を進めてやろうと思って」
こたえると、唯は渇いた声で笑った。
「なにそれ魔法じゃん……」
ガンバレー、と機械みたいな棒読みの声が続く。
「やっぱり魔法なんて無いのかあ……」
またこれだ。魔法はあるんだよ。と言おうとしたのに。想いとは裏腹に、口元からは逆の言葉が飛び出す。魔法の存在を語ろうとすると、私の真実の口は塞がれて、私じゃない誰かが勝手に私の口を使ってペラペラと喋り出すんだ。まるで頬っぺたに他人の口がくっついているような気持ち悪さだ。
「よくお気づきで。えらい、えらい」
唯は小馬鹿にするように言う。
わたしは口をムッとさせながら、ペンの先端をくいくいと動かし続ける。こいつの前に菜ノ葉を引っ張り出して、魔法というものを見せつけてやりたい。わたしの妹の凄さを自慢して言ってやりたい。どうだ見たか、魔法はあるんだぞ。
そして思えばいいんだ。自分も魔法が使えたらよかったのにな、て。
シュッ。
風を切る音が耳元を通り抜けて、シャトルはコートの上で跳ねた。
注目の一戦だと部内で勝手に噂された私と笹倉佳奈絵の試合は、佳奈絵の痛烈なスマッシュで幕を開けた。
毎月のバトミントン部の恒例行事として、月末になるとレギュラー入れ替え戦が行われる。試合勘の強化と競争の促進を目的としているそうだ。この入れ替え戦の効果か知らないが、うちは強豪校でもないのに直近のインターハイ予選ではトーナメントの上位に食い込む選手まで現れている。つまり、無名ながらも部内のレベルはそれなりに高い。
そんな中で佳奈絵は次期エース間違いなしと目されるほどの期待の一年だ。二年生達に独占されたレギュラーの座を、一年の身でただ一人、奪おうとしている。
また、シャトルが撃ち抜かれた。まるで空間ごと切り裂いているみたいな音が鳴って。わたしのコートに落ちる。先月ですら、このスマッシュは手に追えないと思っていたのに、さらに早くなっている。
佳奈絵はシャトルを持つと、ゆっくりと腰を落としてラケットを構えた。同時にわたしも身構える。呼吸を整えながら、佳奈絵の一挙手一投足を見つめた。アニメキャラのような大きな瞳から放たれる眼力、紅潮した頬、首をつたう汗、恐ろしいほどの集中。
魔法を使っているときの妹にどこか似ていた。
今度は長くラリーが続いた。長いラリーはスタミナがじわじわと消耗されていく。じれったくなって、強打を狙って前に出ると、佳奈絵の鋭い視線に射抜かれて、ゾクッと背筋が凍った。
しまった。
思っても、もう遅い。前へと向かう足は簡単に止められない。佳奈絵が打ち返したシャトルはポーンと高く上がると、わたしの頭上を通り過ぎて、コート後ろのライン際に落下した。
はぁはぁ。
私は息を切らしながら、コートにポツリと転がるシャトルを見つめた。駆け引きでも歯が立たなくなっている。佳奈絵がバトミントンを始めたのは高校からだそうだ。わたしは中学からなのに。
はぁはぁ。
自分の息遣いが、やけに大きく聞こえる。
――あの子は天才だね
唯がそう言っていたのを思い出した。わたしもそう思う。
この瞬間、もうこの試合に意味はなくなった。わたしの負けは運命づけられたのだから。
「いやー。あの子強かったね! やっぱ唯が言っていたとおり天才だよ!」
帰り道にいつも通る並木道は夏の暑さの名残は消え失せていた。秋の夜風が部活動で熱っされた身体を少しずつ冷ましていく。
「かもね」
夜風にポニーテールを揺らしながら、唯はうわ言のように返した。並木道を抜けて、小さな公園の傍の信号で足を止めた。
「あのスマッシュ見た? 近くにいたら音やばいよ? ブシュッ、て風感じたもん」
「ふーん」
唯はずっとうわ言のままだ。いつもクールな唯だけど、今日はいつも以上に口数が少ない。
「唯。なんか怒ってる?」
「べつに」
「そしたら、なんかあった? おねーさんに言ってみ?」
「だったらさ、言うけど……」
街灯が唯の頬を照らしている。唯がわたしの顔を見ずに物を言うときは決まって怒っているときだ。
「あんたはなんで、ちっとも悔しそうじゃないの?」
「え?」
信号が青になった。唯は歩き出した。唯はいつも横に揺れながら歩く。そうすると、黒髪のポニーテールがメトロノームのように機械的に揺れる。
「悔しくないからだよ」
「は?」
唯は横断歩道の途中で振り返った。わたしは歩き出し、唯を追い抜いて信号を渡り切った。
「負けて悔しくない人なんているわけーー」
「だってさ!」
わたしは語気を強めた。わたしの気持ちはわたしにしか分からない。他の誰者にも否定されたくない。
「普通なわたしが天才な佳奈絵に負けるのは当たり前じゃん。悔しいなんて思ったら、それは傲慢だよ」
唯はまだ知らないだけだ。そしてわたしは誰よりも早く、それに気づいているだけだ。
子供の頃、ひとりで何千回と杖を振ったことがある。妹にできるなら、私にもできるかもしれないと思って。でも無駄だった。人にはそれぞれできる事と、できない事があって、そしてそれは不平等に分配されていて、だからこそ、自分の限界を見定めて生きないと、人は苦しくなる。
ふーん。言いながら、唯は信号を渡り切った。真上で青が点滅して、赤になる。
「やっぱり納得いかない」
唯はまだ、わたしを見ない。道の先の街灯を見つめながら話す。
「私が初めての公式戦で緊張していた時は背中に蹴り入れて活入れたり、授業中に時計の針に魔法かけようとしてみたり。そんな大雑把で馬鹿でポジティブなところが、つぼみのいいところじゃんか。なのに、なんでこういうときばかり目聡く諦める理由を探し出すの?」
わたしは何も言い返さずに歩いた。妹のことを語れない以上、何を言っても無駄なのだ。
きっと、わたしの特別は全部妹に吸い上げられたんだ。そしてそれを証明してくれるはずの妹はこっちの世界の理の中に存在しない。
「じゃあね」
分かれ道になって、それだけ告げた。ポツンと立つ唯を置いていき、わたしは歩道橋の階段を上っていく。
「明日の試合」
唯の声が背中を撫でる。明日の入れ替え戦は唯との試合がある。実力的に考えて、わたしはあっさりと負けるだろう。
「手を抜かないでね。今日みたいに」
おかしなことを言う。今日は手を抜いた覚えなんてないのに。
「もちろんだってー」
振り返ってぶらぶらと両手を振ると、唯も控えめに片手を上げた。
わたしはひとり歩道橋を渡る。胸の中で、もやもやが暴れている。そのもやもやは腐れ縁みたいに昔からそこにいて、普段は見て見ぬふりで凌げるのに、たまにこうやって存在を主張してくるからやっかいだ。
制服の隙間から肌をなぞる夜風がひんやりと冷たい。橋の中央にひとりの少女が立っていた。深緑色のローブに身を包んだツインテールの女の子。その格好にはとても見覚えがあった。
「やあ。来ちゃった」
月明りが菜ノ葉の顔を映し出す。
「いま、一番あんたに会いたくなかった」
「そーいうこと言う? 久しぶりの再会なのに」
菜ノ葉は笑った。わたしの気持ちなんて、知りもしないで。
「どーしたん? 戻って来るのはまだずっと先じゃなかった?」
わたしたちは近くの公園のブランコに腰を落とした。
「お姉ちゃんに会いたくなって。来ちゃったの」
「可愛いこと言うじゃんよ」
よいしょ、と菜ノ葉はブランコに飛び乗った。立ったままブランコを漕ぐ。丈の長いローブだとブランコは漕ぎづらそうだ。左胸にアマガエルのブローチを付けていた。変なの、と私がからかうと、魔法学校では流行っているのだと言い返された。向こうの世界のお洒落はよく分からない。
「なんで私に会いたくなかったの?」
「ただの冗談じゃん」
「そんな感じしなかったよ?」
菜ノ葉が前後に揺れる度に、ブランコは寂れた鉄の摩擦音を鳴らす。
「そうだね。なんであんなこと言ったんだろ」
昔からそうだ。このもやもやを言葉に変えることが出来ない。大好きと、嫉妬。これらの中間に位置する想いを伝える言葉はどうして存在しないのだろう。
「ごめん。分かんないや」
ぷっ、と菜ノ葉は笑った。
「そういういい加減なところも、お姉ちゃんらしくて好き」
よっ。掛け声と共に、菜ノ葉はブランコの勢いを利用して高く飛び跳ねた。空中を歩くように足をばたつかせて、重力なんて関係ないスピードで、静かに地上に降りていく。
「いいもの見せてあげる」
菜ノ葉は空に両手を振り上げると、ぷるぷると身体を震わせた。ほんのりと顔を紅潮させて、額にうっすらと汗をにじませる。
しばらくして、空に明るみを感じたから見上げてみると、目を疑う光景がそこにあった。
蛍の光のような淡い光がふわふわと、粉雪のように空から降って来た。光はたくさん降ってきて、瞬く間に公園を埋め尽くした。まるで、満点の星空の中心に自分がいるようだった。夜空がここにあると思った。手を伸ばして光に触れると、光は火花のように弾けて、儚く消滅する。
「なにこれ……! うわ! すごいすごい! めっちゃ綺麗! すっごい!」
わたしは立ち上がり、両腕を広げてくるりと回った。綺麗すぎて、子供みたいな語彙しか出てこない。
「どう? わたしに会えて良かった?」
息を切らしながら、菜ノ葉は微笑んだ。そんな菜ノ葉の頭上で光が弾ける。
普段どおりの妹を見て、はしゃぎ過ぎた自分が恥ずかしくなった。姉としての矜持を保たねば。
咳払いをして、おもむろに座り直す。
「こっちで魔法を使うのは禁止されてなかった?」
「人に危害を加えなければ、たいした処罰にならないよ」
それに、と続ける。
「ばれなきゃいいから」
「悪い子だね。だれに似たんだか」
「わたしの尊敬している人が言ってたよ。この力は自分が好きなように使えばいいって」
「そんないい加減なやつを尊敬したらだめじゃん」
「でも大好きな人だから」
ああ、可愛いやつめ。わたしの妹は可愛くて、あざとい。
「で、あんたはどうして私に会いに来たの? こんな何でもない時期に」
相談があるの。そう言って、菜ノ葉は深刻そうにうつむいた。その後ろでふたつの光が衝突して悲しげに散る。
「わたし、魔法使いを辞めた方がいいと思う?」
は? 時間が停止したような衝撃が私を突き抜けた。あまりのことで言葉を失った。だって、あまりにも馬鹿らしかったから。菜ノ葉の後ろでは星空よりも綺麗で幻想的な背景が広がっている。この絶景を創り出しておいて言う言葉じゃない。
「どうして?」
せいいっぱい動揺を隠した。それがなんの意味になるのか分からないけれど。
「向こうだと落ちこぼれなんだ。わたし」
「落ちこぼれ? あんたが?」
「だって、初級魔法を一回使ったくらいでこんなにくたくたになる子なんて私ぐらいなんだよ?」
菜ノ葉は肩で息をしている。昔からそうだった。魔法を一回でも使うと、ぐったりと疲れてしまう。
でも、それがどうした。
「わたしと同じ歳のみんなはもう中級魔法を覚えてるのに」
初級とか中級とかよく分からない。それがなんだ。
「まだ補助羽根付きじゃないと箒で飛べないし」
関係ない。飛べれるんならいいじゃんか。
「くっだらない!」
くだらなかった。くだらなすぎて、しょうもなかった。そんなことで悩んでいるなんて、わが妹ながら呆れちゃうほど馬鹿らしい。
「じゃあなに? あんたは魔法が嫌いになったの?」
「それは、ちがうかな」菜ノ葉は首を振った。「魔法は好き。でも、わたしに向いてないから……」
「他より劣っているからって関係ないでしょ。魔法を使えるだけで、あんたは特別なんだから」
「ちがうよ。お姉ちゃんは本当に特別な人を知らないからそう言えるんだ」
はあ? 本当に特別な人? ねえ菜ノ葉、それはあんたでしょ? それが違うのだったら、わたしのこの胸で暴れるモヤモヤはいったい何なの? 意味なんてないの? そんなことにさせてたまるか!
「知らないよ。知ってたまるか。ていうか知ったところでなんだ! たったその程度で自分をできない側において簡単に諦めるなんて馬鹿みたいだ!」
……あれ?
「ていうか特別じゃなかったらなんだ! 自分で選んでやっていることに、そんなの関係あるか!」
……あれあれ?
「ていうかさ……! 私があんたを特別だと言ったんだ! だから、あんたはその言葉に自惚れてればいいじゃんか。余計なことだらだらと考えずにさ。私の言葉を信じて、せいぜい頑張ればいいんだ!」
胸のもやもやが爆発した。妹に向かって、私に向かって、その破片が飛び散る。
「だから……簡単に諦めちゃ……だめなんだ…………」
目頭に力を込めた。ほっとくと涙がこみ上げて来そうだったから。どの口が言っているんだと、たまらなく情けなくなった。唯が怒っていた理由を、今なら分かる気がした。
「言っていること滅茶苦茶だよ」
菜ノ葉は言った。丸い瞳から一筋の涙を流して笑っていた。
「でもありがと。やっぱりお姉ちゃんの言葉を聞くと元気が出るなあ」
指で目尻の涙を拭き取りながら言う。
「どうしてだろうね。お姉ちゃんの言葉を聞くと勇気を貰えるの。なんにだって立ち向かえちゃいそうな勇気が。どんな優秀な魔法使いにだって、こんなことできないんだよ?」
星空のような美しい魔法の景色はいつのまにか消え失せていて、見慣れた夜の公園のものに戻っていた。
「まるで、お姉ちゃんだけの魔法みたいだ」
「わたしだけの魔法……」
なに言ってんだか。と軽くあしらったが、指先にぐっと力が入った。たぶん、ちょっとだけ、そう言われて嬉しかったんだと思う。
「馬鹿にしてんの?」
ちがうよ。と菜ノ葉は真面目な顔で否定する。
「わたしにとってもお姉ちゃんは特別だよって意味」
「そのあざといところ直さないと、いずれ変な男がくっつくから気を付けな」
「はい。気をつけます」
菜ノ葉は笑った。本当はわたしの気持ちに少しは気づいていたのかもしれない。
別れを告げると、菜ノ葉は地面から箒を生やし、それに跨って夜空へと飛び立っていった。パパとママに会っていかないのかと訊いたのだが、寮の門限に間に合わなくなるから無理なのだそうだ。妹が去ったあと、手土産だと渡された缶の蓋を開けた。鯉を型取ったクッキーの群れがぴちぴちと缶の底で跳ねていた。向こうの世界の嗜好はよく分からない。
「魔法使いの存在を信じている人はこの世界にどれくらいいるんだろう?」
「どうした馬鹿つぼみ。頭打ったか? 保健室行くか?」
「だまれえい!」
ストレッチをしていた唯の背中を勢いよく押してやった。痛い痛い! と唯は叫ぶ。
部活前は肌寒かった体育館も、少しウォーミングアップすれば程よく涼しい。もう間もなくすれば唯との試合になる。
「でもたしかに、こんなこと考えるのって私らしくなかったよね。特別だとか、そうじゃないとか……」
唯がポカンとして私を見つめている。
「やっぱ頭打った……?」
「ふん!」「いたっ!」
理不尽だ。と怒る唯を見て、わたしは笑った。
特別とはきっと、自分と誰かを区別する言葉ではなくて、あなたは私にとって大切な存在だと伝える言葉だと思うことにした。今、そう決めた。それ以上の意味をこねくり回すには、わたしの手に余る。
大好きなのに嫉妬して、らしくもないことで、くよくよ悩んで諦めて、そんな情けない私を少しずつ捨てていこう。
「今日の私はね。ひと味ちがうってことだよ」
「へえ。よく分かんないけど、急にらしくなったじゃん」
唯も笑った。
「だって勝てる気しかしないんだよね」
わたしはわたしに、魔法をかける。




