二章 学校では通知音を切ろう
18時。夕紅に染まる校舎の傍らでは、蛍の光─もとい、別れのワルツが静かに流れている。昇降口からは甲高い足音が響き、部活動を終えた学生諸君は今日の健闘を清々しく讃えあう。そうして、そんなオレンジ色の喧騒も次第に弱まっていった。
今日という一日の一幕。清く尊い、青春の1ページ。俺はそんな1ページの情景を孤独の教室で見ていた。読者の如く、部外者の如く。したがって、どんなにページをめくろうと、その中に俺はいない。
ベージュの柔らかなタイルに、明るめのグレーを基調とした机群。中央列のしんがりで突っ伏しながら、秒針の音に耳を傾けていた。机の冷たさと調和する。東方より出る風は優しく髪の毛を揺らしてくれた。しかし、あれだな…。
図書室は閉まっている。お金をかけて読むほど読書家でもない。勉強なんてもってのほか。腕元に敷いてある本も、すでに読破してしまっている。こんなことなら、昼休みにでも借りに行けばよかったかもしれない。他のクラスメイトも、同様に退屈に悩まされているのだろうか。いや、それはないか。
・・・
こんな時間まで一人教室に残っている理由は、そんな大層なものじゃない。自分の家がないから。ただ、それだけだ。
椅子の二足を頼りに、全体重をかけてもたれかかる。バランスを律しながら、ゆらゆら。ゆらゆらと。薄暗い教室の天井をぼーっと見つめながら。
そういえば、「天井のシミを数えてる間には終わる」という台詞があるが、あんなの数えるのに10秒も掛からないのではないかと思う。どれだけ天井が汚いんだ、って。それとも、そういうこと…?なんて、適当なことを考えながら瞳を閉じる─。
ガタンッ!!
目を瞑って片足立ちすればわかると思うが、人間視覚情報はバランス感覚の大部分を占める。当然こうなる。結果、反射的に開かれた瞳に映ったのは、知っている天井だった。・・・でも、そうか。普通に考えたら、木造建築の場合、そうはいかないか。木目とかあるし。
教室の床で寝るというのも意外と経験がないものだが、ここは薄暗い夕暮れの一室。時は止まり、風は優しく撫で息吹く。眠気を催すのに、十分なロケーションだ。
眠気を催した人間の愚かさか、この眠気を受け入れようと思った。途中で教師に起こされることは避けられないが、どうしてだろう。何故かこの日は、それを選択したのだ。そうした方が良い気がした。床と溶け合うように心身を預け、再び瞳を閉じる。どうか安寧な時間を。
ガチャ…
…?誰か入ってきた。横にある扉を見てわかる通り、侵入経路は前の扉から。忘れ物だろうか。
さっきまで寝ようとしていた奴が言うのも変な話だが、やはりこれは人に見せるべき姿ではない。黄昏時は人の思考を曖昧にする。ましては眠気を催していたのであれば尚更だ。俺もそろそろ行くことにしよう。多少は驚かれるだろうが、上体を起こすことにした─。
ダンッ!!
おっと…。教室に響いた轟音に、思わず上体を起こすのをやめた。夕紅の穏やかな空気の教室は、一気にきな臭いものへと変わる。少なくとも安寧な時間は流れていなさそうだった。
「ちくしょう…あのアマ共…」
「人が黙って頷いてたらいい気になりやがって〜…」
響く声は女子由来のものだった。力強く芯のある声と言った感じ。もっとも、それは怒号なんだけど。
しかし、これは…。絶対に姿見せちゃいけないやつ。アマ共って…。相手も後ろの席のやつが寝そべっているかもしれないから、一応確認しておこうとは考えないだろう。俺だって考えない。当然、この教室には一人しか居ないと思ってしまう。なんと気まずい話だ。
極力音を立てないように、低く、低く上体を起こす。幸い、声の主は前列の席にいるようだし、後方側の扉も換気のおかげで開いたままだ。ここにいてはいつ見つかるかも分からない。一刻も早く、この教室を出なければと思った。気配を消してクワイエットに。さながら伝説の傭兵、スネークの如く。
すり足で自分の机を抜けると、前方の様子が見えて─。・・・あれは…。
「大体この前貸したジュース代返してもらってないんだけど!」
「お金返さないでもう一回パシリに行かせるとかどう言う神経してんの?」
「しかもジュース代くらいいいじゃんだと…?」
「だったらジュース代くらい自分のお金で買えや!」
「ざけんなーッ!」
・・・藤宮だ。俺の知っている彼女とは打って変わって、その表情は曇りに曇り、煮え立つ怒りに肩を震わせていた。
誰でも憤りを覚えることはあるだろうが、いざ目の当たりにするとやはり驚いてしまう。しかしまぁ藤宮が、なぁ…。あんな明るそうな女の子があそこまで乱れてしまうなんて。これ程までの怒りだ、きっと積もりに積もった事情でもあるのだろう。世の中、本当に嫌なことばかりだから。
彼女のためにも、ここでは絶対にバレてはいけない。大丈夫。こうしている間にも出口は近づいている。エデンの園は、我が眼前にある。お互い気まずくなることも、変な蟠りを感じることもない。この瞬間を乗り越えて、いつも通りの日常を過ごそうじゃないか。そうして、世の中に蔓延る陰鬱を、どうにか躱しながら生きていこう。俺は何も見てないし、何も知らないからさ─
「はーっ…」
「なんてね、冗談─」
ピロン♪
「です…よ?」
目が合った。徐に振り返った彼女の瞳には、ここから逃れんと体勢を低くしている滑稽な姿が映っていた。俺のことである。かえって彼女の方はというと、声にならない悲鳴をあげながら固まっている。動揺しまくり。
あぁ。やってしまった。ミッションは失敗した。その時間は数秒に過ぎなかったが、少なくとも俺の中では数分間に感じた。秒針のやかましい音が響く。
とりあえず立ち上がろうと思った。あくまでも平静に。そして、右ポケットを弄り、諸悪の根源である電子機器を起動する。バッテリー残量が赤を示す液晶画面は、天気予報の通知が来ていた。この後、小雨が降る可能性があるらしい。
彼女は未だ、現実を受け入れられないままだ。俺も受け入れられない。この気まずさが、たかが小雨によって引き起こされたことに。
とりあえず何か話そう。この沈黙も流石に限界がある。大丈夫だ。今まで嫌なことをのらりくらりと躱してきたじゃないか。なんとかなるさ。いつもの歩調で自分の席へ移り、腰を下ろす。そうして、未だ空いた口が塞がらない彼女に、何事もなかった様にこう呟く。
「この後小雨らしいよ」
いや…。それは無理があるでしょう。
「いや!あ、ち違うのっ!!」
「違う!今のはそんなんじゃなくて!」
「えとその…あ、ほら!冗談って言ってたじゃん!最後に!」
いや凄い目泳いでる。相変わらず水泳が上手い。まさにあわあわというオノマトペが最適な迫真さだった。少し怖いくらいに。
「別に何も言ってないだろ」
「それに俺がしゃがんで移動していたのは、メタルギアが好きだからだ」
「それなら、通知音ぐらい切っといてよ!」
「敵に気づかれちゃうよ!」
わかるんかい
「あぁいや!その…」
「ごめん土橋君…」
「ごめんなさい…」
「・・・」
そう言って彼女は両腕を組みながら、顔を俯かせた。教室の薄暗さもあって、彼女の表情はよく見えない。しかし、微弱ではあるが、わなわなと震えている様に見える。彼女は、怯えていた。
「あ、あのっ!」
「あの…さっきのこと、黙っててくれないかな…」
「見てたんでしょ?」
「・・・」
「黙っててくれたら私、私なんでも─」
「だから」
「さっきからなんの話をしてるんだ?」
「え?」
「俺は何も聞いてないし、見てない」
「何も知らない」
「ただ放課後の教室で、一人ゲームの真似事してただけだ」
「・・・」
「だからお前の言ってることの意味も、俺にはさっぱり分からない」
「俺は何を見てたんだ?」
「何を黙ってほしい?」
「理解して欲しいなら、ちゃんと俺に説明してくれよ」
やや脅迫とも見える俺の詰問に、彼女は数歩ほど後ずさる。その表情を占めるのは、若干の恐怖心と大きな疑問だった。今も尚何を言ったらいいのものかと、口をもごもごと動かしている。俺は彼女の言葉を待った。
「ご、ごめん」
「やっぱりなんでもないよ!」
「急に現れたからびっくりしちゃって、なんか変なこと言っちゃった」
「わけわかんないよね、ごめんね」
「本当に、ごめん…」
「そうか」
「・・・」
「えと…私、もう行くね」
「友達、待ってるから」
「あぁ」
何か言いたげな表情を浮かべながらも、回れ右した彼女はそそくさとドアへと向かう。あぁ、そういえば。言い忘れていたことがあった。
「この前、あの映画の小説版を読んだ」
「映画版とは結末が違ってたり、映画では語られない話も多くあって面白かった」
「だから、この前は譲ってくれてありがとな」
「え?う、うん」
「・・・」
「えぇっと、もう行くから」
そうして、彼女は教室を後にした。これで彼女との縁は完全に切れただろう。秘密を知っている他人との時間ほど、胃が痛いこともないだろうし。そもそも、元々は関わるはずのない人間なのだから、こうなるのは当然なのだ。だからこれは元に戻っただで、どうこう考える必要もない。
再び椅子にもたれかかる。今度は瞳を閉じることなく、窓に映る光景を眺めていた。
別れのワルツもとうに終わりを迎え、本格的に校内から生徒が消えてゆく。
空は夕闇に染まり、橙の月も淡い輝きを放している。そんな高すぎる彩度の中を一匹の鴉が飛んでいた。