一章 少女漫画の定番(それ)
殺人的な暑さだった。夏休みを経て、9月を終えた今日この頃。それなのに、秋の足音は一向に聞こえて来ない。太陽からの熱光線に空気が揺らめき、蝉も喧騒に興じていた。シュリーレン現象。陽炎と言う方が馴染みがあるかもしれない。夏の風物詩である蝉の合唱会も、この暑さでは断末魔でしかなかった。その熱の中で、俺は自転車を走らせる。
10月に入っても夏はまだまだ現役で、春夏秋冬という言葉がいかに幻想であることを痛感した。都市部で発生するヒートアイランド現象も、その事実に拍車をかけている。
そもそも夏休みがあるのは、暑熱により授業の進行に支障が出るからだ。その定義だったら、あと一ヶ月ぐらい休暇の延長をしてくれるのが道理だろう。一ヶ月とは言わず、二ヶ月…いや三ヶ月の延長か…。
─なんて。入り口のゲートをくぐり、足早に自転車のスタンドを立て自動ドアへ向かう。やっと暑さから解放される。
休日の真夏日、俺は市内の図書館を訪れていた。元々は学校の図書室で借りようとしたが、生憎取り揃えていなかった。だからこうして自転車を走らせてきたわけだが、この汗だ。内容は一度映画で見たものだし、こんなことなら来なくてもよかったのかもしれない。早く、シャワーで汗を流したい。
その思いから、文庫本コーナーへ向かう歩みは加速していた。階段を駆け上がり、右手の通路から奥へ奥へと進んでいく。その足取りに迷いはない。頭文字の案内を頼りに、徐々に目的の本棚を絞っていく。あの本棚か?
見立て通り本棚を見つけ出し、本の背を指先でなぞりながらタイトルを確認していく。ここまで来れば、もう見つかるはずだ。ていうか見つけた。あの本だ。こうなれば終わったも同然。Tシャツが肌に張り付く不快感を感じ始めながらも、僅かな達成感と共に、少しくたびれた装丁がなされた本へと手を伸ばした。
・・・
唐突だが、「図書館」と聞いて、何を彷彿とするだろうか。「本がある」全くもってその通りだ。「静寂に漂う、ページが駆ける音」詩的だね。「文学少女との愉快な密会」うんうん、良い線いってる。
突然なんなんだ、と思うだろう?事実、これには俺も動揺していたというか。混乱していた。こんな事が本当に起きるなんて、そう思ったんだ。そして、これは予兆でもある。
つまり、何を言いたいのかと言うと。
それは、あまりにもベタで。現実と虚構の境界線が崩れてしまったような。そんな天文学的確率。奇跡というにはしょうもない。ロマンスの神様の気まぐれ。
そう─
「え」
「は」
少女漫画の定番だったのだ
「あぁ!すみません!私は大丈夫なんでどうぞ!」
そう言って、目の前の少女は本を譲る姿勢になった。
すらっとした体躯に、サラサラの長髪が揺れる。少し眠そうな垂れ目には、淑やかさを宿しているように見えた。おまけに、顔も整っている。ルッキズムのようで気が引けてしまうけれども、おおらかで優しそういった感じ。
これでは彼女とは初対面という印象を抱かれるかもしれないが、そういう訳ではない。俺はこの子を知っている。彼女は藤宮…だ。名前は覚えていない。
・・・ていうか、なんだ今の。
「あ、あ〜…大丈夫、俺もその本以外に読みたい本があるから」
「えと、藤宮・・・さんが読みな」
「・・・」
面を食らったような表情の三段活用と共に、沈黙がこの場を支配している。それも、まあまあ長い間。忘れているのは確定とも言えるが、頑張って思い出そうとしているのは伝わってくる。頑張るのはいいことだ。それなら俺にできることは、彼女の答えを待つのみである。
「あ!」
「土橋君!同じクラスの!」
「普段眼鏡してたから分からなかったよ〜、それに私服だし、普段とイメージ違うね。」
「なんだよ〜」と笑う彼女の表情は、どこか安堵してるようだった。先入観というやつだろうか。
そもそも、覚えてないのも無理はないのだ。お互い話した事はないし、彼女の周りには常に誰かがいた。それに俺は転入生だから、去年までの人物を参照しても出てくることはない。これで覚えろっていう方が、無理な話だと俺は思う。まぁ、普段から眼鏡を付けている訳ではないのだが。
それよりも、彼女が図書館にいることが少し意外だった。いつも誰かと共に笑っている彼女の、孤独を楽しむ姿はあまり想像できない。流石にこれには、若干の偏見を含んでいることは否めないが。
彼女について描写しているうちに何がウケたのか、口元がニッと上がる。いつも見る笑顔よりも、気持ち悪戯っぽく見えた。
「私が図書館にいることが意外?」
「私だって本くらいは読むよ」
思わず言い当てられて虚を突かれる。冗談や鎌掛けの部類なのかもしれないが、なるほど。
人の心理に敏感、か。
「・・・ちょっと意外だった」
「ちょっとは思ってたんだ、冗談だったのに」
彼女は口元に片手を添えながらケラケラと笑う。教室で見る、いつもの笑顔。
「ふふ、土橋君って面白いね」
「・・・」
閉ざされていた瞼が開き、露出した瞳はこちらの目を捉える。目が合うも、特有の気まずさはやってこなかった。だから、目を逸らすこともなかった。視線は交差しても、彼女は僕を捉えていない。そんな気がしたからだ。
「それよりもさ」
「この本読みたいんでしょ?」
「はい、どうぞ」
「・・・」
「いいのか?」
正直に行くことにした。ここは向こうの好意を素直に受け取ることにしよう。
「私は何回か読んだことあるし、本も持ってるから気にしなくても大丈夫だよ」
「その本も、ふと目に入ったから取っただけだし」
「・・・」
「それじゃあ」
差し出された本を手に取り、感謝のひと言を述べる。「どういたしまして」と笑う彼女の手は、この猛暑日には不釣り合いなほど冷たい気がした。部屋には冷房による過剰な冷気に満ちている。そんなにも長い間、図書館に居たということだろうか。
「土橋君もこの話が好きなの?」
正直、これには反応に困った。この本を読もうとした理由は、名作は一度は読むという個人的ポリシーのもとだ。実際のところ、恋愛も経験していない自分には、登場人物の恋愛模様にいまいち共感できなかったのだ。結局、終始取り残されているような錯覚に至り、自身の未熟さを痛感したんだっけ。
しかし、戦時下の緊迫とした空気感の演出は巧みで、物語としての完成度は高いと思った。だから、この作品を好きと言ってもいいのか、いまいち分かりかねる。だから、どうも返事は曖昧になってしまった。
「・・・俺は映画しか見たことないけど、物語としてよくできていたと思う」
とある2人が惹かれ合い、共に愛を紡いでいくが、戦争が彼らの愛を引き離す。やがて終戦に至り、生き残った男性が恋人の元に帰るのだが、その人は病で命を落としてしまう。生きる意味を失い命を手放そうとするものの、周りの人間の支えにより生きていくことを決心する。そのおかげで、平和になった世界で、生まれ変わった恋人と巡り合うことができる。そして、失われた時間を取り戻すように、再び二人の生活が始まる。そんな切なさと共に、どこか救いを感じさせるストーリー。
物語の構成は綺麗にまとまっていて、手紙を通じての生への描写は非常に繊細だった。小説版であれば、そんな感情の揺れ動きをより深く感じられるだろう。
「あ、小説はまだ読んでなくて、映画は見たって感じなんだ」
「あれ 面白いよね〜」
「内気な主人公が隊長にガツンと本音をぶちまけるシーンとか、スカッとしてすごい好きなんだ」
「後はあれだよね、映画版と小説版はラストの展開がまるで違…まぁこれはネタバレだから言えないんだけど!」
「・・・」
「えぇっと…」
「これはセーフってことで…」
凄い焦ってる。綻んでいた口元もどこか引き攣っているし、目の泳ぎようと言ったらプロ顔負けなほどだ。ふと鬼の形相をした巨漢がバタフライしている映像が、存在しない記憶が脳裏によぎる。いつの話だこれ。どの辺がセーフなのかはわからないが、寛大な心を以って「ギリセーフ」と伝える。
それに、展開が違うと言うのなら、それこそ見がいのあるものだ。家に帰ってシャワー浴びたら、早速読み始めようかなとか考える。
「あはは…ごめん」
「意外と見てる人が少なくてさ、嬉しくってつい」
「若者の活字離れには困ったもんだよね」
「こんな素敵な話を読まないなんて」
「・・・そんなにこの話が好きなんだな」
素直な想いをぶつけてみる。どちらかと言えば、彼女の熱意に当てられたという方が正しいのかもしれないが。この本のどの部分を評価しているのか気になった。戦争の描写なのか、心理描写なのか。それとも恋愛の描写なのか。
案外、過剰に騒ぎたがる女子のそれであり、そこまで深く考えていないのか。そんな、少し失礼なことを考える。彼女の引き攣った笑みも、この頃には収まっていた。
「うん、かなり好き」
「だって素敵じゃない?」
「生まれ変わっても巡り合うほどの想いの強さというか、二人の唯一無二さっていうか」
「なんか、こう…ね?うまく言えないんだけど」
「そんな奇跡を起こせるほどの相手がいるなんて、素敵だなって思ったんだ」
「だから幼い頃の私は、素敵な人と出会って、生まれ変わっても再開する展開に憧れちゃってさ」
「今思うと、あの頃は希望に満ちてたなって思うよ」
「子供だったなぁとも思うけど」
・・・
彼女の言葉に返事をしようとした瞬間、暑すぎる10月の一端を一陣の風が吹き抜けた。木々がざわめき、鳥たちも一斉に飛び立つ。世界の音は次第に鳴りを潜め、静寂だけがこの場を支配している。
東京都大田区にある小さな図書館の一角。夏風に髪を靡かせ、伏し目気にこちらを見つめる女の子がいた。そこには、何かが訪れる前の静けさのような。そんな雰囲気が立ち込めていた。
「でもさ」
「こんな素敵な巡り合いは、やっぱり物語の中だけなのかな」
・・・
普通だったら「あるかもしれないよ」とか「きっとあるよ」なんて、中身のない返事をするのが正しいのだろう。元々こんな会話に価値なんてない。
しかし、場の雰囲気に流されたのか。彼女の表情に惹きつけられたのか。何故かはわからない。わからないけれど、この瞬間がとてつもなく重要な場面のように感じられた。
だから、真剣に向き合わなければいけないと思った。彼女に、向き合わなければいけない。ここに、自身だけの答えを。ありのままの答えを。
「こう言ったらあれだけど、所詮は物語上の空想だと思う」
「仮に死んだとしてだ」
「違う時代に生まれるかもしれないし、違う国に生まれるかもしれない」
「人種、思想、身分も違うかもしれない」
「そもそも、人間に生まれるかもわからない」
「犬や猫どころか、虫に生まれるかもしれない。
「ミジンコのような微生物、なんなら植物に生まれるかもしれない」
「あまつさえ、生まれ変われるかの確証もないんだ」
「『戦場で死んだとしても、必ず迎えにいくよ』っていうセリフがあったけど、あれも自分達の悲惨な運命を納得させるためのものだと思う」
「夢も希望もない話だけどな」
「・・・」
「・・・」
これは…引かれたな。事実、彼女は目を見開いて固まっていた。それもそうだ。親しい仲なら別だが、会話にはある程度テンプレートというものがある。今の発言はそれを大きく逸脱したものと言える。反応にも困るだろう。
しかし、現実で起きるのかと聞かれても困る。そりゃ。起きないだろ、そんなこと。起きるわけがない。現実は物語ではないし、綺麗でもないのだ。よって、一連の会話が綺麗に進行しないのもまた、必然なのだろう。世も末だ。
「・・・」
「ぶっ」
「ふふふふ、あはははは!」
「はー、あははは!あぁ、いやいや!違うよ?ふふ」
「凄い…ロマンがない、じゃなくて、はは」
「えぇと、真剣な回答だな?って思って!あはは、そこまで求めてなかったのに!」
「はは、ちょっと待ってねぇへへ、落ち着くから」
「はぁ〜!」
「・・・」
「ふぅ、治った」
「失礼なこと言って、ごめんね」
「ちゃんと考えてくれたってことだよね、ありがとう」
「・・・本当にそう思ってるか?」
「ぶっ」
「あはははは!ははは」
堪えようとする努力も虚しく、彼女の快笑は辺り一帯を響かせる。途中まで押さえていた口元も、今ではすっかり解放させてケラケラと。終いには、若干の呼吸困難に陥るも、その顔には愉快が浮かんでいた。
初めて彼女の笑顔を見たような気がする。彼女の綻んだ表情を呆然と眺めながら、そんなことを考えていた。その笑顔はまるで、何かから救われたような。しかし、どこか自虐的なような。そんな風に映った。
声は未だ一帯に響いている。しかし、幸いにも周辺に他の利用者はいなかった。
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飴玉の封を破り、口内へ放り込む。うん。初めて食べるけど、結構いけるな。おいしい。飴の酸味が溶けていくのを感じながら、取り戻された静寂に耳を傾ける。
あの後、一連の非礼を謝罪した後に、彼女は去っていった。一粒の黒酢飴を俺に手渡して。
─結局、今の時間は何だったんだろう。全ての出来事が必然性を有しているとは限らない。だから、今回もそれに漏れず、意味なんてなかったのかもしれない。
あれだけ不快と感じていた体の熱気も、部屋の空調からすっかり冷え切っていた。時計を見ると、針は思っていたよりも進んでいる。それは、一連の出来事が濃いものだったことを意味していた。少し寒い。早く帰ろう。
─しかし、そんな自分の温度とは対照的に、再び触れた彼女の手は心なしか暖かくなっていたような気がした。