43話 そして…
夏休みも終わりに近づく8月下旬。強い日差しは未だ衰える事を知らない。
温泉旅行から帰ってきた悠斗は、マンションまで送ってくれたりっちゃんに手を振ると、部屋の扉を開いた。
「ただいま」
リビングに向かって声をかける。だが、返事はなかった。いつもなら出迎えるはずの姿も見えない。
怪訝に思いながらも、荷物を置きソファに座る。
「今日はいないのか」
いつもだったら「ゆうちゃん、おかえり」の声が聞こえ、パタパタと駆け寄って来るのだが。無音の空間を埋めるようにテレビをつける。
……そういえば最近いなかったな。
チャンネルを変えながら、そんな事が頭をよぎる。最後に彼女を見たのはいつだろうか。記憶を辿る。
「面白いテレビもないか……」
テレビの電源を切り、ソファに寝転がる。スマホの通知を見るが、特に何もない。
……まあ、そのうち現れるよな
姿を見せない日が珍しいわけではなかった。気づいたら側にいる、それが日常になっていたのだ。
しばらく沈黙が流れると、瞼が重くなってくるのを感じた。クーラーの効いた部屋は快適で、一度感じ始めた睡魔に抵抗する事は難しい。
悠斗は思考を止め、そのまま深い眠りについたのだった。
***
翌日。カーテンの隙間から差し込む光に目を覚ます。スマホを見ると、朝10時を過ぎたところだ。
上半身を起こし、身体を伸ばす。ソファで寝落ちしたせいだろうか。関節がポキポキと音を鳴らす。
「……寝過ぎた」
旅行で疲れていたのだろう。テーブルに置いた温泉まんじゅうの箱を開けると、口に入れた。
しっとりした生地と甘いあんこが口の中に広がる。それを片手にスマホのアルバムをスライドしていくと、温泉街で撮った写真が目に留まる。
「……楽しかったな」
写真を眺めながら、思い出にふける。頬を緩ませながら一枚一枚、眺めていった。
「なぁ」
誰かに語りかけるように自然と口にした言葉に、悠斗は苦笑いをこぼす。
「……今日もいないのかよ」
そう呟くが、当然返事はない。旅行の話がしたかったのだ。こういう時は必ずと言っていいほど、あいりが側にいた。
僅かな違和感と孤独感。それを紛らわすように羅神にログインするのだった。
***
数日後。真っ暗な室内にテレビの明かりがぼんやりと光る。
「……あいつ、どこ行ったんだよ」
ソファに横になり無気力な声で呟く。あいりは未だ姿を見せていない。当たり前だった日常が遠く感じた。日に日に不安が募っていく。
それを紛らわすように、無音の世界から意識を逸らすようにテレビをつけていた。スマホには何件かの通知が入っている。
だが、それを見る気にはならなかった。
——ゆうちゃん、遅刻しちゃうよ〜
不意に頭を過る声に、顔を上げる。
——お出かけしよ?
室内を見回すが、当然その姿はない。
……そうだよな。
鏡に映らず、他人からも見えない彼女は最初から存在してなかったのかもしれない。妄想が生み出した幻覚。そう考える方が納得できた。
そう考えた方が納得できるのに、心がそれを拒む。
いつからだろう。彼女を受け入れてしまったのは。
いつからだろう。彼女のぬくもりを求めてしまったのは。
それが突然失われた。喪失感が心を蝕んでいく。なぜ、あいりは現れないのか。
それとも自分が彼女の存在を認識出来なくなったのか。そんな不安が孤独感を加速させた。
独りは辛い。
独りは寂しい。
独りは嫌だ。
この部屋に来たばかりの頃、毎日のように感じていた感情が再び湧き上がる。
そんなある日、彼女が現れたのだ。
「ゆうちゃん……」
そう。こんな風に……。
「……あいり?」
悠斗はソファから飛び起きると、目の前に現れた黒髪の少女を呆然と見つめた。あいりはそんな姿を見て悲しそうに微笑む。
「ごめんね、ゆうちゃん」
「……ったく、どこ行ってたんだよ」
あいりの頭に手を伸ばす。だが、その手が彼女に触れる事はなかった。
「……なんで?」
何度試そうとも、触れる事は出来ない。
「……お別れの時間」
悠斗の手を掴もうとあいりの右手が伸びるが、やはり触れ合えない。手と手が交差するが、すり抜けるだけだった。
「どうして?」
「あいりね、わかっちゃったんだ」
悲しそうに悠斗の手に視線を向けるあいり。次の言葉を待つように悠斗は口をつぐむ。
「ゆうちゃんが落ち込むと呼ばれるの……」
彼女は必死に言葉を探し、笑顔を向けた。だが、その瞳からは涙が溢れている。
「あいりはね、ゆうちゃんが笑ってる顔が好き」
「なんだよそれ?意味わかんねぇよ」
孤独を感じると彼女が現れる。それに心当たりはあった。だが、それがお別れの時間と何の関係があるのかわからなかった。
「全部思い出しちゃったんだ」
「……何をだよ?」
「……」
悠斗の問いにあいりは答えない。ただ、静かに涙を流している。その涙が心を締め付けた。
「ゆうちゃん、あいりの事……忘れてるから言っちゃダメなの」
「そ、それはちょっと忙しかったり……」
翔子達と遊んでいる時間も楽しかった事は否定できない。だが、彼女は首を横に振る。
「ううん、違うの……」
「どういう事だよ?」
あいりは何かを諦めるようにまた首を振る。
「忘れたままがいいよ、ゆうちゃん」
涙を流しながら微笑む。そして、その姿は次第に薄くなっていく。
「あいり!?」
慌てて手を伸ばした。だが、その手はあいりの身体をすり抜けるだけだった。
「ほらね?ゆうちゃんはもう大丈夫」
それを見て、また悲しく微笑む。
——あいりがいなくても大丈夫
そう聞こえた気がした。
「……あいり?」
その名を呼ぶが、もう目の前にはいない。静寂が周囲を包み込み、無機質なテレビの音だけが虚しく響く。
虚な瞳で彼女がいた空間をただ見つめる事しか出来なかった。




