42話 あいり
そこは真っ暗で何も見えない空間。音も聞こえない無音の世界。手も足も身体の感覚すらない。
そんな虚無に、あいりの意識だけが漂っていた。目は開いているのか、閉じているのかもわからない。光すらないその場所で、時間の概念すら喪失した世界にただ存在していた。
ここ……どこ……?
だが、次第に意識が覚醒していく。
ゆうちゃん、どこ?
あいりの意識は、それを探すが見つからない。
この感覚は二度目だ。あの時はゲームに夢中になる悠斗が、小さな穴の先に見えていた。だが、今回はそれすら感じない。
ゆうちゃん!ゆうちゃん!
必死に呼びかけるが、虚無の闇に吸い込まれる様に消えていく。
怖い……。
自分が消えて無くなるような感覚。このまま意識を手放せば、二度と目覚める事がない気がしていた。
嫌だよ……。
……ゆうちゃん。
何度も悠斗の名前を呼んだ。その瞬間。真っ暗な世界に一筋の光が差し込む。
光は次第に大きく広がり、周囲を包み込んでいく。同時に見慣れた景色が目に飛び込んできた。
あ!リビングだ!
あいりは安堵すると同時に、悠斗の姿を探す。
「ねぇ、ポテチ食べて良い?」
「好きにしてくれ」
「じゃあ、好きにする」
そこには知らない女の子に呆れた顔を浮かべる悠斗の姿があった。
ゆうちゃん?誰この子?
周囲を見れば他にも何人かが、リビングにいるようだ。
ゆうちゃん?
だが、あいりの声が聞こえないのか、こちらを見る事はない。
「コンソメも良いけど、のり塩の方が好きなんだよね」
「知るかよ」
「今度はのり塩買っておいてよ」
「ったく、自分で買って来いっての」
この声、翔ちゃん?
あいりは悠斗と話す聞き覚えのある声に反応する。初めて来た家なのにまるで自分の家のように寛いでいた。
悠斗から聞いていた通りのマイペースな性格のようだ。以前、悠斗を取られた気がして、翔子に焼きもちを焼いたことがあった。
懐かしいな。
しみじみと思い出にふけっていると、分厚いメガネをかけた男が翔子の横に立つ。
「ネトフルがあるではないか。桜井、アニメにしてくれ」
「良いよ、どれにする?」
「これが良いだろう」
「あーこれ、今めっちゃ話題になってるよね?」
「あぁそうだ。今期始まったアニメの中で一番面白いぞ。この作品の注目すべきところはズバリ……」
「うるさい。まだ見たこと無いからネタバレ禁止」
「ぐっ」
メガネの男の口を塞ぐ翔子。
あ、この人が小鳥遊くんかな?
仲良さそうな二人を見て、自然と笑みがこぼれた。
「ちょっと!ウチらが何しに来たか忘れてない?」
「何しに来たんだよ……」
アニメを見る二人にツインテールの女の子が、コホンと咳払いをする。
……あれ?
その姿に違和感を覚える。見覚えがある気がするのだ。脳裏に病室の光景が一瞬浮かぶ。
——また逢いたいなぁ
——病は気から!上だけ見てこうぜ!
……あれ
まるで深い水の底からゆっくりと浮かび上がってくる感覚。
「柊君、社員旅行というものを知っているかい?」
「まあ」
「りっちゃんが車を出してくれるそうなのでな。山奥のコテージにでも泊まりに行こうではないか」
桃色髪の子はドヤ顔で胸を張る。
……そっか
「……コテージで事件でも起こす気か?」
「んなわけないでしょ!どうせやるなら探偵役が良いよ!」
「佐々木の場合、逆だと思うが……」
「ふーん、言うようになったじゃん、柊」
「痛ッ……引っ張るなって!」
……あいり忘れてたんだ
窓際に立つ青髪の女の子を見る。
花蓮ちゃん……だね?
テレビのニュースで見た時、無意識に口にした名前。あの時はハッキリと思い出せなかった。
でも、今はわかる。あの花蓮ちゃんだ。視線を向けるが、彼女はあいりの存在に気付くことなく、悠斗達を見て笑っている。
……お見舞い来てくれて、ありがとうね
その手を握ろうとするが、すり抜けてしまった。
「うぅ……薄給の公務員ですみません」
「りっちゃんが謝ることないでしょ」
「先生が不甲斐ないばかりに……」
ふふ、りっちゃん先生久しぶりだね。
「カレンの言葉に甘えとこ?」
「ですが……」
「温泉の方が楽しそうじゃん?」
「……確かくつろげます」
「でしょー?じゃあ温泉旅行で決まり!」
いいなぁ、あいりも行きたいな……。
だが、誰も、悠斗でさえもあいりに気付くことはない。
「みんなと旅行……なんかやっと学生らしい事が出来そう」
「良かったな」
「うん!友だちと旅行凄く楽しみ!」
悠斗に嬉しそうな表情を浮かべる花蓮。
……綺麗になったね、花蓮ちゃん
それに……。
あいりの記憶より花蓮の身長は高くなっていた。目線が記憶と一致しないのだ。悠斗の横で楽しそう笑う花蓮に、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
親友に向けるべきではない感情に戸惑う。
……ゆうちゃん。
「じゃあ、ダッシュで家帰って支度したら集合ね!」
「おー!」
あいりの横を駆け抜ける美奈。やはり記憶と目線が一致しない。
……そっか、あいりだけ成長してないんだね
「騒がしい奴らだぜ……」
部屋に取り残された悠斗は、呆れたように呟いた。だが、その口元は緩んでいる。
ゆうちゃん、もう一人じゃないんだね……。
リビングで背を向ける悠斗を見て、数ヶ月前の出来事をふと思い出す。あの時もリビングに一人だった悠斗。今より殺風景な室内で膝を抱えていた。
——この人、誰?
見覚えのない黒髪の男の子を見て、あいりは首を傾げていた。自分の名前以外は朧げな記憶。そして、気づけば見知らぬ部屋にいたのだ。
少年はあいりに気づいているような素振りを見せるが、特に何かするわけでも、話すわけでもなかった。
そして、途切れる意識。
だがある日、少年が幼馴染の悠斗だという事を知る。その名前を聞いた時、あいりは幼い頃の記憶を思い出したのだ。
逢いたかったゆうちゃんが目の前にいる。それだけで充分だった。もっとお話したい。
そんな衝動にかられたが、悠斗は会話をしようともしない。
それどころか、目が合っても直ぐに逸らしてしまう。それがとても悲しかったのだ。
鏡に映らない自分の姿など些細な事でしかない。いや、それを認めてしまえば自分が消えてしまう不安から目を逸らしていたのかも知れない。
そんな彼がいつの間にかお話してくれるようになっていた。今では自然と笑うのだ。
あの時、部屋で膝を抱えていた少年はもういない。
……ゆうちゃん。
だから、気づいてしまった。悠斗の背中にそっと抱きつく。やはり触れる事は出来なかった。
……さよならだね
そして、あいりの意識は消えた。窓から吹き抜ける湿った風がカーテンを揺らす。




