愛しのハニー
初投稿です。
女装年下男子っていいよね。異性装大好き!
ジャックス領は王宮のある都から馬車で1日の所にある片田舎の領地だ。北と西は高い山峰に囲まれ、南には大きな湖、東には広い森が広がっている、自然溢れる…むしろ自然しかない小さな領地である。主な産業は林業とそれに伴う木材加工、そして南に広がるフィロー湖をメインとした観光業だ。都から馬車で1日で来れるというほどほどの距離感は都会の喧騒から一時リフレッシュするには丁度よく、バカンスの時期には貴族や富裕層が好んで羽を伸ばしに来る。湖畔には小さいが作りのしっかりしたコテージがいくつも並び、夏でも涼やかなフィロー湖周辺は毎年賑わいを見せる。
ジャックス領を治める伯爵家は歴史だけは無駄に長い貴族だった。代々領主を務める主人に共通して言えるのは「事なかれ主義の安定志向」ということだ。長い歴史の中で出世を目論んだ主人はただの一人もいない。地形が幸いし気候の変動を受けにくいジャックス領は毎年淡々と決まった数だけの木材を出荷し、決まった数の加工品を生産し、特別流行もしないが目立って廃れることもない観光業を営んで来た。そして代々家格の釣り合う子爵や伯爵家、はたまた持参金の釣り合う商家の子女を伴侶に迎え、婚約破棄の騒動もなければ浮気だ不倫だのといった醜聞もなく、遺産相続だ隠し子だというゴシップもない。領地だけでなく一族も平凡そのものだった。
そんなジャックス伯爵家には二人の姉弟がいた。姉のレリーと3歳下の弟ビリー。誰にでも優しくお人好しで「ジャックス家らしい」争い嫌いのレリーと、不器用でぶっきらぼうなところもあるが「ジャックス家らしい」平穏主義で心配症の弟のビリー。お揃いのブラウンの瞳とはちみつ色の濃い金髪をした二人はとても仲の良い姉弟で、両親はもちろん領民もみな姉弟のことを可愛がっていた。
**
レリーが18歳になったばかりの夏のことだった。
今年もフィロー湖の湖畔には都会から大勢の観光客が遊びに来ていた。基本的な運営はコテージを管理する使用人に任せているが、貴族が訪れた時には伯爵夫妻が挨拶に赴くのが恒例だった。
その日もコテージの一つに都から男爵一家が避暑に訪れていた。あいにくと母親が体調を崩していたため、代わりにレリーが父親と一緒に挨拶に行っていたのだが、夕方屋敷に帰って来てからどうにも様子がおかしかった。どこかぽーっとして夢うつつで、ビリーが話しかけてもろくに中身も聞かずに生返事を返すだけだった。湖畔で何かあったのかと父に聞いても、男爵夫妻と話している間に気がついたらああなっていたと言って答えはわからないままだった。
翌日からレリーは朝食を食べ終えるとそわそわと外出するようになり、夕方までには帰ってくるのだが、いつもぽわんとした顔で顔を赤らめて帰ってくるので、何かあったなというのはビリーにもすぐにわかった。
レリーを夢うつつにした原因が判明したのはそれから3日後のことだった。
「レリーはいるか」
朝早くからビリーが屋敷の裏で愛馬のエドの世話をしていると、小綺麗な恰好をした若い男に声をかけられた。赤茶の髪は綺麗に切りそろえられ、オリーブ色の瞳は綺麗なアーモンド形をしている整った顔の男だ。目立つ容姿をしているが地元では見たことがない。おそらく湖畔に来ている観光客だろうと予想がついた。見たところビリーよりいくつか年上のようだった。
「おい、聞いているのか? レリーを呼んでこいと言ったんだ」
質素な乗馬服で馬の世話をしているビリーを領主の息子ではなくただの御者の少年だと思ったのか、青年はあからさまなため息をついてビリーをにらんできた。むっときたビリーだったが、観光のお客様(推定)をいたずらに刺激するものではないと思い、小さく会釈をするとレリーを呼びに屋敷へ戻った。裏口の扉を開けたちょうどその時、余所行きの服に着替えたレリーと鉢合わせた。
「まぁビリー! こんな朝早くにどうしたの」
人がいるとは思わなかったらしいレリーはひどく驚いた様子だった。そわそわと帽子の紐に触れたり落ち着かない様子で、何も聞かずに立ち去ってほしそうな雰囲気がぷんぷんしていた。姉のそんな様子を見てようやくビリーはここ数日の姉の挙動不審な態度が腑に落ちた。
「……裏でエドの世話をしていたら、見かけない赤茶の髪にオリーブの目をした男の人から姉さんを呼ぶように頼まれた」
「えぇ!? リッキーが来ているの!?」
リッキーとは誰かと聞く間もなく、ビリーを押しのけてレリーは裏口から飛び出していった。一拍置いてビリーが外に出ると、先ほどの男とレリーは手を取り合って睦み合っている真っ最中だった。レリーは頬をバラ色に染めきらきらとした目で男を見上げている。これまで一度も見たことがない乙女の表情だった。そんな姉の変わりように驚いていると、ビリーの存在に気が付いた男が先ほどと同じように睨みつけてきた。
「おい! じろじろと何を見ている、不躾なやつだな」
「まぁビリー! そんなところで見ていないで、ご挨拶をして。こちらリカルドさんよ、湖畔のコテージにご家族で避暑にいらしてるの。リッキー、この子は弟のビリーです。まだやんちゃな時期で、ご無礼を失礼しましたわ」
男の視線を追ってビリーに気づいたレリーは、はっとしたように男から一歩離れると取り繕うようにお互いを紹介した。御者だと思っていたのが領主の息子だと気づいた男―─リカルドは、一瞬ぎょっと目を見開いたが、すぐに表情を整え嘘くさい笑顔をビリーに向けてきた。
「ああ…弟さんだったのか。どうも、リカルド・グラバンズだ。お姉さんにはここに来てからよくしてもらっているよ」
「……ウィリアム・ジャックスです。すいません、馬を戻さないといけないので、僕はこれで」
不愛想に名乗ると、差し出された手と触れるか触れないかの握手を交わす。何か言われる前にエドの手綱を引いて二人から離れた。さっさと厩に向かうビリーの背中に追いかけるようにレリーの声がする。
「ビリー! リッキーに領地を案内してくるわ。お父様たちには内緒にしてね!」
この田舎町のどこをそんなに紹介するのだろうかとか、そんな大声で言ってしまったら秘密も何もないだろうとか、思うことは色々あったが、ビリーは聞かなかったことにしてそのまま足を進めた。
ビリーの考えていた通り、レリーとリカルドの逢瀬はすっかり領民の知るところとなっており、噂が両親の耳に入るのもすぐだった。ビリーが二人の逢瀬に遭遇してから数日後の夕食の席で父が口火を切った。
「レリー、最近グラバンズ男爵のご子息と随分親しくしているようだね」
唐突に問われたレリーは咄嗟に取り繕うこともできず、顔を真っ赤に染め上げた。小さな田舎町では二人がほとんどくっつくような距離で話をしている姿を何人もが見ており、しっかり伯爵家に報告が上がっていた。
「領地に来てくれているお客様と親しくするのは悪いことではないけど、お前は年頃の娘なのだから、節度を持った付き合いをしなくてはいけないよ」
やれやれというようにたしなめる父に、レリーは高揚のあまりうっすら目に涙を浮かべながら対抗した。
「節度を持った、って、つまりどういうことですか? 婚約でもすれば良いとおっしゃるの?」
「婚約だなんて、お前」
「リッキーは、休暇が終わっても一緒にいられたらいいのにって言ってくれたわ!」
夏の盛りも超えた頃で、もう少しもしたらコテージに来ている避暑客たちは都へ帰っていく。レリーとリカルドの蜜月も終わりが近づいてきていたのだ。だからこそレリーは毎日朝早くから両親に許されるギリギリの時間までリカルドと共にいたのだ。
「いられたらいいのに、だろう? 正式に婚約を申し込まれたわけではないだろう。グラバンズ卿からもそんな話はされていない」
「でも、でもお父様!」
「レリアン。私は何も反対するというわけではない。正式に申し込まれたらきちんと考えてやるが、今はそれもない状況だと言っているんだ。少し冷静になりなさい」
「……はい、お父様」
貴族の結婚は家同士に結び付きである。惚れた腫れただけで簡単に結婚できるわけでもないし、だからこそ婚姻前のスキャンダルは致命傷にもなりえる。娘の将来のためを思う父親の言葉を、レリーも理解していないわけではない。渋々返事をしたレリーは、食事もそこそこに自室に戻ってしまった。「ジャックス家らしく」ことを荒立てず成り行きを見守っていたビリーは終始父と姉のやり取りにハラハラしていた。
「あなた、申し込みがあったら認めて差し上げるの?」
「レリーがそこまで彼を思うなら受けてやりたいが、だがグラバンズは男爵だろう。うちは裕福とは言えないが、根っからの貴族育ちのあの子が平民暮らしなんて馴染めるかどうか……」
この国において、男爵は国に認められる功績をあげた者に贈られる、一代限りの爵位である。グラバンズ卿は代々大工の家系で、当代が画期的な建築法を編み出し、国の建築産業に大きく貢献したという功績が認められ、十年ほど前に男爵の爵位を賜ったばかりだった。世襲制でない爵位のため、領地があるわけでもないし、現男爵が没すれば爵位は返上される。レリーがグラバンズ家に嫁げばいずれ平民となってしまうというわけだ。
ジャックス家は質素倹約をモットーとする家ではあるがそれでも貴族であるし、それに歴史だけは長い生粋の貴族である。どれだけ平凡でも家には何人もの使用人を抱えているし社交界にも参加する、衣食住に加え教育や教養に困ったことはない、一般的な平民の生活とは程遠い。そんな貴族社会で育ってきたレリーは平民に嫁ぐことを考えたことなど一度もないし、貴族の奥様となる勉強はしていても、掃除洗濯炊事などの平民の奥さんとなる勉強は全くしてきていないのだ。
だが父親の心配はそれだけではなかった。
「それにレリーがあれだけ熱を上げているからとても言えなかったが、リカルドといったか、彼の心がどこにあるのか、私には正直疑わしい」
世襲の貴族位を持たないリカルドが貴族のままでいるためには自身も何か功績をあげるか、もしくは貴族位を持つ女性に婿入りするしかない。しかしジャックス家はレリーが長子ではあるが、後継ぎはビリーになると前々から子供同士も含めた話し合いを持って決められているのだが、リカルドがそれを知っているとは思えない。つまりは爵位目当てに近づいているのではないかというのが父親の見立てだった。
「まだそうとも決まっていないのに決めつけて反対するのは良くないわ」
「あぁ、そうだとも。どうにか判断できればいいのだけどな」
話し合いを続ける両親を置いて、食事を終えたビリーはそっと広間を出た。爵位目当てだという父親の言葉にビリーも心の中では同意していた。自分を御者の少年と勘違いしていた時の態度は、自分より下の身分を見下す者の態度だった。それが貴族の息子と分かった途端わかりやすく人好きのする笑顔を向けてきた二面性が、ビリーにはとても気持ちの悪いものに感じられた。
「ビリー」
部屋の扉に手をかけた時、隣の部屋からレリーに呼ばれた。手招きするレリーに誘われるがままレリーの部屋に入ると、素早く扉を閉められ真正面から問い詰められた。
「ビリー、貴方もお父様やお母様と同じ意見なの?」
「聞いていたの?」
何とは聞かずともレリーのいう事が何を指しているのはすぐにわかった。てっきりあの後すぐ部屋に戻ったのかと思っていたが、扉の向こうで話を聞いていたらしい。真剣な目で迫るレリーの勢いに負けて、ビリーは床に目を落としながら小さく答えた。
「僕も、あの人は少し信用できない気がする」
ここではっきり反対だと言えないのが「ジャックス家」の性格だった。ビリーは姉を傷つけるとわかりきったことを口に出すことができなかった。しかしレリーも15年間ビリーの姉をしていただけに、口では濁しながらもビリーがリカルドのことを拒絶している気持ちを正確に読み取って、そして少なからずショックを受けた。両親の反対は予想していたが、実際にリカルドと対面したビリーならば応援してくれるのではないかと期待していたのだ。
「どうして? ビリーもリッキーに会ったでしょう? あんなに親切で素敵な人なのになぜ信用できないだなんて言うの」
「親切で素敵? 姉さん本気で言ってるの? 僕のことをあんな目で睨んできたのに!」
真っすぐな瞳で問うレリーにビリーは驚いて思ったままの言葉が飛び出していた。そしてレリーもビリーのそんな言葉に驚いて目を丸くした。
「睨む? リッキーが? そんなまさか、笑顔で挨拶してくれてたじゃない」
「馬鹿言わないでよ! あの日、エドの世話をするために使い古した乗馬服を着た僕のことを使用人かなにかだと勘違いして、不躾だとかなんとか言って睨んでいたの目の前で見ていたでしょう? 笑ったのは姉さんが弟だって紹介したから、貴族の息子だってわかってからだよ。そんなことにも気づいていなかったの?」
ビリーの真剣な訴えに、レリーの夢うつつだった表情に少し迷いが生じていた。レリー自身も、地元にはいない都会の洗練された格好いい若者に慕われて浮かれている自覚はあった。夢みたいだと思いながら数週間を過ごしていたが、そんな、まさか。
「でも、でもそれはビリーのことを御者だと勘違いしていたからでしょう? それなら……」
「使用人にだってあんな失礼な態度取る人いおかしいよ。お父様だって、おじい様だって、うちに来たことのある貴族のどのお方だって、執事のロベルトや御者のトマスに横柄な態度なんか取らないじゃないか」
使用人は確かに貴族よりも身分が低い。高位貴族なら使用人も下位貴族出身のこともあるが、しがない伯爵家のジャックス家に仕える人はみな平民出身だ。だが、両親も祖父母も、家を訪れるどの人も、平民だから、使用人だからと彼らを虐げることはしない。明確な身分の差があることを理解しているからこそ、むしろきちんとした仕事をする彼らには敬意を払っている。見下したり虐げたりしてもいいという考えになるのは、かつて自分が同じ立場にいたから、そこから「上に上がった」という自覚があるからに他ならない。
「でも、でも……」
「……もし、ちゃんと婚約の申し込みがあって、姉さんとお父様が決めるのならそれでいいと思うよ。でも、僕は、姉さんにはもっといい人がいると、思う」
「……」
黙り込んでしまったレリーにそっと気持ちを伝えると、ビリーは静かに部屋に戻った。少しは落ち着てくれるといいなと思いながら。
それから数日、レリーは相変わらず朝早くからの外出を続けていたが、以前までの浮ついた雰囲気は少し落ち着いたように見えた。そしてついに今日の朝、コテージに滞在していたグラバンズ家が都へ帰ったという報告が管理人から上げられた。
その日の夕方、居間でレリーはなだめる母親を押しのけるようにして涙をこぼしながら父親に詰め寄っていた。
「本当に? 本当に来ていないの? だって確かに言ったのよ!」
「グラバンズ卿から婚約の打診はきていないよ、レリアン。書状や使いも来ていないとロベルトも言っていたし、私のところにも来ていない」
「だって、リッキーは、リッキーは……」
「レリー、落ち着いてちょうだい。都に戻ってからお手紙が来るかもしれないでしょう?」
「言ったのよ、確かに言ったのに……」
リカルドが帰る前から、レリーは婚約をほのめかすことを伝えていた。リカルドもレリーの手を取り、父から話してもらうよう頼むと言ったのだという。しかしその後グラバンズ卿からジャックス家に婚約の打診が来ることはなく、そしてリカルドもレリーに直接的な言葉を伝えないまま都へ戻ってしまった。
確かに父親に婚約をお願いすると約束したとレリーはそのあともしつこく主張したが、リカルドが都へ戻ってから1週間たっても2週間たっても、グラバンズ家から婚約の打診が届くことはなかった。
すっかり気落ちして部屋にふさぎ込むようになったレリーのことをビリーは毎日心配していた。
「姉さんがあんな状態なのに、都に遊びに行ったりしていいのでしょうか」
「バーニーとは前から約束していたんだろう。ビリーが気に病むことはない」
ビリーは明日から2週間、都に住む叔父一家の家に滞在する約束になっていた。都で木材を使う芸術家の展覧会が開催されることになり、ジャックス家の跡取りとして、木材の新たな使い道のアイデアがないかを見学に来ないかと、従兄のバーニーに誘われていたのだ。春先から決まっていた約束なのだが、今レリーがあれほどまでに都へ思いを馳せている今、ビリーは自分1人が都へ行くことにどうしても罪悪感がぬぐえなかった。そんなビリーを励ますように父親が優しく肩を叩く。
「まぁそうだな、ついでにリカルド君の様子が知れればレリーの気も休まるかもしれないな」
「そうよ!!」
父の言葉にかぶせるようなレリーの声に、ビリーも両親も飛び跳ねるほど驚いた。部屋にいるとばかり思っていたレリーは小走りでビリーに近づくとがっちりと手をつかんだ。
「ビリー! お願い、都でリッキーの気持ちを探ってきて!」
「はぁ!?」
「お願い! もしかしたらグラバンズ卿の反対にあっているだけかもしれないじゃない。それでももし、もしもリッキーが私のことをもう忘れてしまっているようなら、ちゃんと諦めるわ」
涙ながらに訴えるレリーに、姉思いのビリーが逆らえるわけがなかった。
**
「なるほどね、随分面白いことになってるじゃないか」
都へやってきて1週間と少し。展覧会は無事見学し、ビリーにとって刺激的な体験もできた。残りの数日は都を楽しもうと従兄のバーニーに連れまわされたもののビリーはずっと上の空だった。というのもこの1週間、どうすればリカルドの情報がつかめるかわからず、なんの進展もないままだったからだ。このまま手ぶらで帰ればレリーがどれだけがっかりするだろうと思うと、ビリーはとても都に浮かれる気分にはなれなかった。
そんなビリーを心配した従兄のバーニーにしつこく聞かれ、ビリーはしぶしぶ事情を話した。お調子者のの2歳年上の従弟にはレリーの繊細な気持ちはわかるまいと、できれば話したくなかった。だが都に詳しくないビリー1人ではどうにもできないのが目に見えていたこともあり仕方なく相談したのだが、想像通り面白いおもちゃを見つけたとでも言わんばかりにバーニーはにやにやと笑った。
「笑い事じゃないんだけど」
「わかってるよ兄弟。レリー姉さんは確かに夢見がちなところがあるしな、都会の馬鹿男にも引っ掛かりそうだ」
バーニーのあけすけな口ぶりにビリーは目を丸くした。バーニーの父親はビリーのは父の弟、つまり前伯爵の息子なのだが、商家の娘と結婚したため平民に降下し爵位は持っていない。そして平民として暮らすバーニーは母方の血が強いのかジャックス家らしい平穏主義なところは微塵もなく、本当にジャックス家の血を引いているのか疑わしいくらいはっきりとものを言うし喧嘩も強い。
ビリーはバーニーの真っすぐすぎる性格にいつも驚かされていたが、幼い頃からよく一緒に遊んでいたバーニーのことは本当の兄のように慕っている。そしてそれはバーニーも同じで、大事な従姉がよからぬ男に遊ばれているかもしれないという話には予想外に真剣になってくれた。
「グラバンズ家のリカルドか。同じ学校で同級生だけど親しくはないんだよな」
「あの人姉さんより年下だったの? だいぶ慣れ慣れしかったのに」
「自分も成り上がりのくせに、平民に態度が厳しいんだ。俺だと碌な話も聞けないかもしれないな」
バーニーの言葉に、やはり使用人を下に見るような人間だったのかと幻滅した気持ちが広がる。
「何とかならないかな」
「学校に潜入して身辺を探ることはできると思う。ビリーも連れていきたいけど、お前、本人に顔が割れているんだろ? 変に繕われて言いくるめられるかもしれないな」
「顔もバレてるし、名前も名乗った」
「うーん……そうだ、それなら女装すればどうだ?」
「はぁ!?」
「うん、それがいい! あいつ女子にはいい顔するからな。よしそうしよう!」
言うやいなやバーニーは店の倉庫からバーニーの学校の女生徒の制服を引っ張ってきた。バーニーの家は学校指定の商家だから制服も扱っているらしい。これなら大丈夫だと押し付けてくるものだからビリーも思わず受け取ってしまう。
「こんなのすぐバレるよ!」
「バレない! ビリーはまだ身長も低いし誤魔化せるさ。声も元々高めだし…アルト声の女って言えば大丈夫だ」
「そんな……」
「問題は髪と顔だな。そんな短い髪の女はいないし……」
「ねぇ、やめようよバーン兄さん。女装なんて嫌だよ……」
「レリー姉さんがこのまま泣き暮らしてもいいのか? 大丈夫、俺に任せろ」
自信満々のバーニーに無理やり着替えさせられたビリーはされるがままに仕立て上げられ小一時間もすればすっかり可愛らしい女の子になっていた。
「うん、かつらも馴染んでるし、これなら大丈夫だ」
「ああ、そう……」
「言葉遣いに気をつけろよ。この時間ならまだ学校にいるかもしれないな、早速行こう!」
バーニーに手を引かれて連れてこられたのは都にある唯一の国立学園だ。もともとは貴族の子女向けの学校だったが、今では入学金さえ払えれば平民でも通うことができ、「学園の中に身分はあらず」を掲げる開かれた学校である。
放課後で生徒もまばらな学園内をリカルドを探して回る。人が少ないとはいえいつ誰にバレるかもと思うと気が気ではなく、ビリーは自然と背中を丸めておどおどと歩くようになってしまい、そのたびにバーニーに背中を叩かれた。
「堂々とした方が怪しまれないって!」
「で、でも、恥ずかしいし……」
女装姿になじめずもじもじとするビリーを見てバーニーはため息をついた。その時、中庭から騒がしい声が聞こえてきた。
「この声、グラバンズ達だ!」
「あっ待ってバーン兄さ…あいたっ」
見失わないように駆け出したバーニーを追いかけようとして、ビリーは慣れないヒールの靴に足を取られて転んでしまった。はっと顔を上げるもバーニーの姿はなく、ビリーは女装姿で見知らぬ場所に置き去りにされてしまった。
『バーン兄さんめ!!』
床に座り込んだままバーニーへの恨みを募らせているビリーの目の前に、すっと白い手袋をした手が差し伸べられた。驚いて顔を向けると、かっちりとした騎士服に身を包んだ綺麗な顔の少年がいた。
「大丈夫?」
きりりとした金の瞳は長い睫毛に縁どられ、焦げ茶の真っすぐした髪をうなじでまとめているようで、少し屈んだ肩口からさらさらした髪が流れている。少年は、声をかけても反応がないビリーを心配そうに見つめ、もう一度大丈夫かと声をかけた。うっかり同性に見ほれてしまったビリーは慌てて彼の手を取った。
「だ、大丈夫です。ありがとう」
「どこか具合でも悪いの? それとも怪我?」
「いえ、あの、本当に大丈夫です、ご心配おかけしました…」
手を引かれて立ち上がる。すぐに離れようとしたのだが、握られた手を放してもらえずビリーは内心パニックに陥った。思いのほか細い手は思い切り振り払えば外せられそうだが、慣れないヒールとスカートで走って逃げられるとも思えず、どう対処すべきかぐるぐるを考え込んでいると、そんなビリーの様子を見た彼はまだ調子が悪いのだと判断したらしい。
「見た感じ、大丈夫ではなさそうだね。少し休んだ方がいい。……こっちへ」
握られたままだった手を流れるような所作で腕に回され、あれよあれよという間にエスコートされてしまった。流されるがままに連れられたのは廊下の奥に設置されていたベンチだった。周囲は少し薄暗く、教室がある棟ではないようで人の気配もなく静かなところだった。
丁寧なエスコートでベンチに座らされたビリーは、ここでやっと手が離れたことにほっと息をついた。
「あ、ありがとうございました。もう大丈夫です」
さっさと立ち去ってくれないかとぎこちない笑顔を向けると、騎士の恰好をした少年は安心したように微笑み返した。
「それはよかった。ところで君、学園の生徒じゃないよね。制服は正規品のようだけど、どこから紛れ込んできたのかな」
綺麗な笑顔に思わず見惚れてしまったビリーだったが、次いで少年から発せられた言葉に冷水を浴びせられたように固まった。
誤魔化しようがないほど、正確に、ばっちりバレている。この数分であっさりバレてしまったことにビリーは頭が真っ白になってしまい意味もなく口をぱくぱくと開くしかできなかった。
「どうしてバレたのかって顔だね。騎士部として学園の安全を見回っている身として、学生の顔はある程度把握しているんだ。それに君、私が声をかけた時、私のことを知らないみたいだったから。この学園に通っている女の子で私を知らないなんて思えないからね」
自信満々にそういう少年に、こいつも女の子をダシにしているような男かと幻滅する。しかし口ぶりからして女装はバレていないと感じたビリーは、ここは正直に事情を話した方がいいと考え、レリーのことをかいつまんで説明した。女装して無断侵入なら間違いなく不審者だが、姉を思った妹の行動であればある程度同情を誘えると踏んだのだ。
「ふうん、田舎のお姉さんが都の男に騙されてないか確かめに、ね。制服は協力者から借りたってこと?」
「そ、そうです」
「でもどうして君が? お姉さんが自分で来るわけにはいかなかったの?」
「姉が直接聞いたところで正直に話すとは思えません。ぼ、いや、わ、私はその人に顔が知られていないので、正直な気持ちを聞けると思って……」
「なるほどね。事情はわかったけど、不法侵入は認められない。悪いけど学園からは出てもらうよ」
「そうですよね、わかりました……」
予想通りビリーの話を聞いた少年は姉思いの妹に同情してくれた。しかしこのまま見逃してくれるわけではないようで、正門まで連れていかれることにはなってしまった。ビリー自身も不法侵入はしたくてしたわけではないので、置いていったきりのバーニーにあとは任せて叔父の家に戻ろうと思い素直に従うことにした。
正門へ向かうビリーに付き添いながら(というよりはちゃんと出ていくかを見張りながら)少年は世間話がてら話の続きを求めた。
「ところでその男の尻尾は掴めたの?」
「いえ、その前に貴方に見つかったので」
「はは、それはご愁傷様。この学園の生徒なのは間違いないの?」
「それは、はい。制服を貸してくれた人が同学年だって言っていたので」
「へぇ、何年生だろう」
「17歳だから、3年生だと思います」
「本当に? 私とも同級生じゃないか。知ってる人かもしれない、彼の名前は?」
「ええっと、リッキー……そう、リカルド・グラバンズ」
リカルドの名を告げると、少年はぴたりと足を止めた。つられるようにビリーも足を止めて少年を振り返ると、金色の目を大きく見開いて唖然とした表情をしていた。
「リカルド・グラバンズ?」
まん丸く見開いた目をきゅっと吊り上げて、眉間に深いしわを刻んだ少年は名前を告げたビリーに詰め寄った。
「は、はい」
「リカルド・グラバンズが、君のお姉さんを誘って、夏中一緒に過ごし、婚約を匂わせた?」
「そ、そうです」
「……」
ビリーの返事を聞いた少年は口元に手を当てて何か考え込んでいるようだった。彼を置いて先に行くわけにもいかず、ビリーは困惑してしまう。どうしようかとおろおろしていると、少年はふと顔を上げて不敵に笑った。
「君、そのことを証明できる人は君以外にもいるかい? できれば君のご家族以外で」
「え? もちろん、狭い領地で毎日一緒にいたんですから、領民の誰もが見かけています」
「それならいい!」
そういうと彼はビリーの手をつかむと、門とは反対に今来た道を戻るように進み始めた。
「あの!?」
「気が変わったよ、君のお姉さんの疑惑を晴らすのに協力しよう。……ええと、名前は?」
「え、ビ…じゃなくて、えっと……ビ…ビ……」
不意に名前を問われてつい本名を告げそうになったビリーは慌てて口をつぐむも、とっさにいい偽名も思いつかずまごついてしまう。そんな様子を見た少年は足を止めてビリーを振り返り、呆れたように笑った。
「身元がバレないように潜入しようと思うなら最初から偽名くらいは用意しておきなよ。わかった、ビーと呼ばせてもらおう。はちみつみたいな髪をしているしね、いいよね、ハニービー?」
「は、ハニー!?」
綺麗な顔で微笑まれて髪をひと房摘ままれウインクを真正面から食らう。顔が燃えるように熱くなるのを感じた。地毛と同じ色のかつらは、本物でもないくせに触れられたところが熱くなるような気がして心臓がどきどきした。女の子のふりをしているせいなのか、少年のいちいちかっこつけた行動にどきっとしてしまう。そんな気持ちを紛らわすようにビリーは頭を振った。
「び、ビーでいいけど、ハニーはやめてほしい」
「わかった、改めてよろしく、ビー。私のことは……この格好だしジョゼとでも呼んで」
ジョゼはそう言うと再び歩き出した。ビリーの手は掴まれたままだ。
「ジョゼさん、どこに行くんですか」
「中庭。いつもグラバンズは放課後中庭で仲間とたむろっているはずだから」
そう言って進んでいくと、校舎に囲まれた開けた場所についた。噴水や花壇、ベンチやテラス席が置かれている広い庭だ。ジョゼは庭には出ていかず、それを囲むように続いている渡り廊下をそっと進んだ。にわかに賑やかな声が聞こえてきたと思うと、少し先の、周囲からは隠れたように置かれたベンチに数人の男子生徒が集まっているのが見えた。中心で笑っている男には見覚えがあった。あの日、屋敷の裏で見かけた時よりも着崩した服装で髪も乱れているが、間違いなくリカルド・グラバンズだった。
ふと目線を動かすと、男子生徒から気づかれない位置で観察している人が見え、ビリーはあっと声を上げた。
「バーン兄さん!」
「え?」
ジョゼはビリーの声に振り返り、目線を追った先にバーニーがいることに気が付いて目を丸くした。
「ビーの協力者はバーナード・ジャックスだったの?」
「バーン兄さんを知っているんですか」
「知っているも何も同じクラスだし、同じ騎士部だ」
「…騎士部!? バーン兄さんが!?」
あの悪戯好きの従兄が騎士と名の付くものに所属しているなんて信じられず、ビリーは思わず大きな声を出してしまう。静かにしろとジョゼに口をふさがれるが、声に気づいたバーニーは振り返って二人の姿を見つけ、こちらも驚いたように目を丸くした。
「なんで二人が一緒にいるんだ?」
「南廊下で転んでいるビーを私が見つけた。見覚えのない顔だったし、私のことも知らないようだったからすぐ生徒じゃないってわかったよ。バーナード、騎士部が部外者を入れ込むなんてどういうつもり? まぁ、彼女が正規品の制服を着ている理由がわかってよかったけど……。よからぬ業者に制服を横流しされているのかと思ってひやひやしたよ」
「ビー? …ああ、なるほどね。しかしそうか、今日の見回りはジョゼだったのか。うちの学園の女生徒がお前を知らないわけないもんな」
ビリーの偽名に眉を顰めたバーニーだったが必死に首を振るビリーを見て察したようにうなずいた。先ほどのジョゼと同じようなことを口にするバーニーに、こいつはどれだけ女性に人気なのかとビリーは驚く。
「事情はビーから聞いたけど、君が首を突っ込んでるのはどうして?」
「俺の親戚なんだ。だからこいつの姉さんのこともよく知ってる。騙されてるかもなんて思ったらじっとしてられるわけないだろ」
「……なるほどね。ところで、グラバンズの様子は?」
バーニーの強い言葉に、それほどまでにレリーを心配してくれていたのかと驚いた。ジョゼの前だからかもしれないが、いつもふざけて悪戯ばかりしている姿しか見たことがなかったビリーは真剣なまなざしのバーニーがとても心強く思えた。ジョゼはそんなバーニーに納得したようにうなずいた。
「アーガスたちと話し込んでるけど、特にそれらしい会話はなかった。それよりなんでジョゼが協力してくれることになってるんだ?」
死角になっている柱の陰に三人で身を寄せ合ってリカルドの様子を観察しながら、こっそりバーニーに耳打ちされるも、そんなことはビリーが一番知りたかった。相手がリカルドだろわかってからなぜかジョゼが一番乗り気なのだ。
「わかんない。気が変わったって言ってたけど」
「ふうん。お貴族様ってのは何考えてるのかわかんねぇな」
鼻を鳴らしてバーニーもリカルドの方へ意識を向けた。バーニーの口ぶりからジョゼも貴族だという事がわかった。あの所作から言って当然と言えば当然だが、同じ貴族でもリカルドなんかとは比べ物にならないとビリーは思った。そしてどうせなら、ジョゼのような人が姉を見初めてくれればよかったのに、とも思った。
「このまま待っていてもらちが明かないな。バーナード、君、声かけてきたら?」
「無茶言うなよ、グラバンズはお前とは違うんだ。商人の息子と話なんかするかよ」
「私が行くわけにもいかないし……ビー、いける?」
「え!?」
「本当の気持ちを知るためにお姉さんの代わりに君が来たんでしょ? 部外者の私たちが行っても濁されて終わりかもしれないよ」
「……」
煽られているのだというのはビリーにもわかった。ただ、ジョゼの言葉に屋敷で泣いているレリーの顔が脳裏をよぎった。いつも明るく優しい姉を泣かした男をこのままにはしておけないという強い思いで、ビリーはすっくと立ちあがった。
「おい、本気か!?」
「やばいと思ったら助けに来てよバーン兄さん……あと、ジョゼさん」
「もちろん。がんばれ、ハニービー」
「…ハニーは、やめてください」
自信満々に頷いたジョゼに背中を押されるように、ビリーは柱の陰から抜け出した。急に姿を現したビリーにリカルドを含めた三人の男子生徒は目を丸くした。見慣れない女生徒に不信感を抱いているようで、眉間には薄くしわが寄っている。
「……誰? 知ってる子?」
リカルドの隣に座っていた赤毛の男がリカルドともう一人のブルネットの男に話を振ると、ブルネットの男はいいやと頭を振った。リカルドはビリーの面影に気づいているのかいないのか、首をかしげてじろじろと目線をやってくる。カツラもかぶっているし化粧もしているがもしやバレたのかとビリーの心臓は外まで音が聞こえるのではないかと思うほど大きな音を立てている。
「見覚えがある気もするけど、知らないな。なんか用?」
リカルドの言葉にバレたわけではないと察してほっとする。ぐっと息を吸って口を開いた。少しだけ声を高くすることを意識して。
「れ、レリアン・ジャックスをご存知ですよね」
レリーの名前を出すとリカルドの目は先ほどよりも大きく見開かれた。こんなところで聞く名前ではないとでも言いたげだ。赤毛とブルネットは首をかしげている。
「レリアン? そんな子学園にいたか?」
「いや……でもこのまえリカルドが話してた子がそんな名前じゃなかったか?」
「ああ、休みにひっかけたっていう」
赤毛の発した『ひっかける』という言葉に怒りがこみ上げるも、表情には出さないように我慢して言葉を続ける。
「私はレリーの…親戚です。休みが終わってから、貴方からの連絡がなくなってレリーはひどく落ち込んでいます。貴女とずっと一緒にいたいと言われたと言って、それを信じて連絡を待っています。レリー姉さんと婚約する気はあるんですか? 伯爵も、正式にグラバンズ家からの申し込みがあれば検討すると言っていて、姉さんを思うならすぐに連絡を、」
「あっはっは! なんの話かと思ったら! 馬鹿を言うなよ!!」
ビリーの言葉を遮るように、リカルドは天を仰いで大声で笑った。呆気にとられたビリーは言葉を失う。ひとしきり笑ってはぁと息をついてビリーに顔を向けたリカルドは、それはそれは酷い底意地の悪い笑顔を浮かべていた。
「レリーの身内が学園にいたとは知らなかった。何にも知らない田舎娘だと思っていたのにとんだ失敗だよ」
「な……!?」
「レリーと婚約、ね? まぁ確かにそれを目論んで近づいたのは確かだよ、最初はね」
にやにやと笑うリカルドはすっくと立ちあがると大仰に手を振りながらビリーに近づいてくる。
「うちは一代限りの男爵だから俺が貴族のままでいるためにはどっかの貴族の女に婿入りするのが一番手っ取り早いだろ。レリーは学園にも通っていないし田舎から滅多に出てこないって聞いたから誰の手垢もついていないと思ったし、領地は田舎でも歴史のある伯爵家だし、顔もまぁまぁ好みだったから“及第点”かと思って声をかけてやったら面白いくらいころっと落ちてくれたよ」
ビリーの目の前まで来たリカルドはにやついた目でビリーを見下ろした。かかとの高いブーツを履いているビリーよりも優に頭一つ分は高い。睨みつけるように見上げてやれば一層面白そうに口元がゆがんだ。
「だっていうのに、レリーには弟がいるっていうじゃないか。まさかと思って話を聞けば跡取りはレリーじゃなくてその弟だとよ。レリーが嫁いできたって揃って平民落ちじゃなんの意味もない」
「…自分が功績を残して、貴族位を賜る努力をすればいいじゃないか」
「そんなめんどくせえことを誰がやるかよ。レリーなんかに拘らなくたって後継ぎを探してる貴族は国中にいるんだぜ? 現に親が申し込みをしていた別の伯爵家から色良い返事が来た」
「は……?」
「おっと、怒るなよ。休暇に入る前に声をかけていた家から休暇の終わりに返事をもらったんだ。わかるか? レリーの方が“後”だ」
怒りのあまり目の前が真っ赤に染まっていくようだった。家で泣いていたレリーの姿が脳裏に浮かんで、目の前のリカルドに掴みかからないでいれているのが不思議なくらいだ。怒りのあまり身体が硬直しているせいだ。
「まぁでも? そんなにレリーが俺と結婚したいって言ってるんなら考えてやってもいいけどな。どうしてもお願いしますと頭を下げて、弟を追い出して俺を伯爵家当主の跡取りとして迎えてくれるって言うんならな!」
汚いリカルドの笑い声が響いた瞬間、ぶちっと何かが切れる音が聞こえた気がした。もう我慢できないとうつむいていた顔を上げた時、背後からすごい勢いで腕が伸びてリカルドの胸倉をつかんだ。
「レリーがお前なんかに頭を下げるわけがないだろ」
腹の底に響くような低い声で顔を怒りに染め上げたバーニーがリカルドを釣り上げていた。リカルドは急な出来事に一瞬驚くも、相手が平民のバーニーだと気づくと見下した目つきになって手を払いのけた。
「平民風情が何をする!」
「親のすねかじりが粋がるなよ。お前だってこのままじゃ数年後には平民落ちだろ、リカルド・グラバンズ」
「なんだと!? 部外者が口を出すんじゃ」
「部外者じゃない、バーニーはレリーの従弟だ。ジャックス伯爵家の継承権も持っている」
ヒートアップしているバーニーの腕を引いて抑えながらビリーが口を出すと、リカルドは驚いたようにバーニーを見た。仮にも婚約者候補として考えていた相手の親類関係も把握していないなんて、そもそも貴族としての意識が低いのではないかと思う。
「今の発言は全部伯父上であるジャックス伯爵に申し伝える。この先万が一グラバンズ家から婚約の打診があったとしてもそれが通ることはないと思えよ」
バーニーの言葉に、リカルドは苦虫を嚙み潰したように顔を歪めたが、すぐに開き直ったように卑しく笑った。
「はっ! 好きにすればいい。まかり間違ったってジャックス家なんかに婚約を申し込むわけないだろ! さっきも言ったがもう別の家との婚約を進める手筈は整っているんだから…」
「それはどうでしょうね」
得意げに胸を張るリカルドの言葉を遮るようにしてジョゼが柱の陰から姿を現し、ビリーの隣に立った。ジョゼの姿を見止めたリカルドは真っ青になって言葉を失っている。
「話は全部聞かせていただきました、リカルド・グラバンズ。我が家とグラバンズ家との縁談は卿からのどうしてもというしつこいくらいの申し出に父上が折れた形だと聞いていたんですがね…? あんまりしつこいので一度話を聞くだけならと嫌々顔合わせの承諾をしましたが、こういうことなら断り続けるべきでした。貴方の言葉を借りるようですが、我が家に婿に来たいという貴族令息だって国中にいるんですよ。婚約の段階から別のお嬢さんに手を出すような浮気者を好んで迎える家があると思っているのなら、随分おめでたい頭をしているようですね。それでは婿に来たからと言って領地運営をまともにできるかも疑わしい」
口元は緩やかにカーブを描いているものの、目元は一切笑っていないジョゼは滔々とリカルドを追い詰めた。もはや白くなった顔でリカルドははくはくと口を開閉させるだけで一切言葉として音をなしていない。
「今日のことは私もきちんと父上にお伝えします。家から正式に便りを出しますから楽しみにお待ちくださいね。もちろん、ジャックス伯爵家にまた近寄ろうなんて思わないことです。残りの貴族生活も穏やかに過ごしたいなら、ね? ……それでは私たちはここで失礼いたしましょう。皆様、ごきげんよう」
最後ににっこり笑って言うと、ジョゼはビリーに手を差し出した。咄嗟にそのエスコートを受け入れて、三人は中庭を後にした。こっそり振り返ると、リカルドは膝を折ってうなだれていて、赤毛とブルネットの二人が必死に声をかけていた。
廊下に抜けたところで、バーニーがはああ、と大きな息をついた。
「予想以上のくそ野郎だったじゃねえか! 一発殴ってやればよかった! レリーもあんなのの何が良かったんだ!」
「領地にいる時はもっと王子様みたいな態度だったんだ。使用人には見下した態度だったけど」
「バーナードが殴り掛かるんじゃないかと驚いたよ。ビーが止めてくれてよかった。慣れない女装姿で疲れたでしょう?」
「ほんとに、金輪際もうやりたくな……」
流れで相槌を打って、話の内容が頭に届いたところで言葉を失って弾かれたようにジョゼを見上げた。驚くビリーを前に、ジョゼは愉快そうににっこり微笑んだ。
「ジャックス伯爵家のご子息でしょう、君」
「い、いつから…?」
「確信したのはバーナードと合流してからかな。彼の親戚は伯爵家だけだと記憶しているし、ジャックス伯爵家に女の子は一人だもの。それに髪の毛に触った時カツラだって気づいていたし、言葉遣いも所作もとても貴族のご令嬢のものとは思えなかったからね」
ジョゼの推理にビリーはぱくぱくと声にならない声を出すしかできなかった。あれだけ大丈夫だと豪語していたバーニーも諦めたように頭をかいている。
「俺はジョゼに見つかった時点で隠し切れないと思った」
「大丈夫だって言ったじゃないか!」
「女のことでこいつの目を誤魔化すのは無理だ。これは計算違いだからどうしようもない」
バーニーはやれやれと頭を振ってビリーをいなすと、ジョゼに向き直ってしっかりと頭を下げた。
「見つかった時はどうしようかと思ったけど、すぐに真相がわかったおかげでレリーが必要以上に傷つくこともなく済んだ。本当にありがとう、ジョゼ。君のおかげだ。心から感謝します」
バーニーにならってビリーも慌てて頭を下げる。本当に、ジョゼがリカルドを滅多打ちにしてくれなければ、と考えたところでジョゼが協力してくれていた理由にも思い至ってビリーは顔を上げた。
「ジョゼさんがあの人と関係あるとは思いませんでした」
「うん、私も知らなかった。どうせいつかは政略結婚するのだからと思って適当に決めようとしていたけど、やっぱりちゃんと相手を見て決めないとだめだね。話が進む前に決着をつけられて私としても助かったよ」
困ったように眉を下げるジョゼさんに、ビリーも眉を下げて微笑み返す。
「ジョゼさんも、俺と同じ立場だったから協力してくれたんですね」
「え?」
「お姉さんか、妹さんの婚約者候補だったんでしょう? だから俺にも親身になってくれたんですね」
ぽかんとした顔のジョゼとバーニーの様子に気づかず、ビリーは頭をかきながら言葉を続ける。
「あいつが言っていたように俺も姉さんも田舎者だから、都の貴族はみんなあいつみたいな嫌な奴だと思っていたけど、ジョゼさんみたいな見た目も中身もかっこいい貴族がいるって知れてよかったです。…どうせなら、ジョゼさんみたいな人が姉さんを見初めてくれていたらよかったのに」
はぁ、とビリーがため息を一つついたところで、理解の追いついたバーニーが腹を抱えて笑い出した。ジョゼもつられるようにうつむいて肩を揺らしている。代わるように呆気にとられたのはビリーの方だった。
「な、何? あ、別に本当にジョゼさんに姉さんと結婚してほしいと思っているわけじゃないですよ!?」
「あっはっは! もうやめてくれビリー! 腹がよじれる……!」
「んっふふ……、はあ、いやすまない。君がそこまで私を買ってくれているなんて思わなくて、嬉しいよ。素直にね」
「はぁ…?」
ひとしきり笑ったところで一息ついたジョゼは姿勢を正してビリーに向き合った。
「うん、私もジャックス家のご姉弟に興味が出てきたよ。君さえよければ是非お姉さんを紹介していただきたい」
「え、本当に?」
「もちろん。お姉さんとはいい関係を築けそうな気がする。もちろん、君とももっと仲良くなれたら嬉しいな」
そう言ってにっこり笑ったジョゼはすごく綺麗で、ビリーの心臓はまた不可思議に大きな鼓動を立てた。
「え、あの、えっと、ジャックス家はいつでもお客様を迎える準備ができてますので、ぜひ、いつでも」
どもりながら答えているうちにいつの間にか正門までたどり着いていた。騎士部の見回りの続きをするというジョゼとはここでお別れだ。いまだにドキドキする心臓を抑えながらビリーは改めてジョゼに頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「うん、いいんだ。お姉さんによろしくね」
「はい」
「ジョゼ、何考えているんだ?」
「バーナードには明日話があるよ。君にもいい話だと思うから、“私について”余計なことは言わないでおいてよ。…それじゃあまたね、ハニービー」
そう言ってジョゼは騎士の正式礼をして学園内へ戻っていった。ビリーは小さくなる後ろ姿を見ながら隣のバーニーに問いかけた。
「ジョゼさんについてって?」
「いや、うーん……言うなって言われたから、黙っとくよ」
「本当に姉さんと会ってくれるのかな」
「……どうかな」
どこか歯切れの悪いバーニーを不思議に思いながら、ビリーの都滞在は幕を下ろしたのだった。
**
「そう、やっぱりリッキーは私のことは本気じゃなかったのね」
2週間の滞在を終えて領地に戻り、飛び出すように迎えたレリーに見てきたこと、聞いてきたことを言葉を選びながらも伝えると、レリーは一言そうこぼして涙を落とした。
「本当はわかっていたのよ。あんな都の格好いい方が私みたいな田舎娘と本気で付き合おうなんて思わないことくらい……」
「違うよ姉さん!」
ぽろぽろと涙をこぼしながら自分を貶める言葉を紡ぐレリーの手を取ってビリーは続けた。
「あんな奴いい男でもなんでもないよ。僕は都でもっとかっこいい人と出会ったよ。あいつとは比べ物にならないくらいのいい人だった。姉さんのことを話したらぜひ会いたいって言っていた。姉さんには、もっと合う人が待っているよ」
レリーは目に涙を貯めながら懸命に励ますビリーをぽかんと見ていたが、やがてビリーの手を握り返して優しく微笑んだ。
「ありがとうビリー。そうね、前を向くわ。いつかそんな人が来てくれることを願って」
「来るよ、きっと」
あの日別れたジョゼの姿を思い出して、ビリーは力強く言い切った。
そしてその約束が果たされることとなったのは、ビリーが都から帰ってきてひと月ほどが過ぎた頃だった。季節はすっかり秋の装いで、領地の木々は赤や黄色に染まり、それを映したフィロー湖が美しく輝く季節だ。秋は夏に次いで観光客が多く、ジャックス家としてもかき入れ時の1つだ。ビリーはその日コテージに泊まりに来ていた子爵の老夫婦から湖沿いの観光案内を頼まれていた。一通りの案内を済ませて屋敷に帰ってきたのは太陽も沈み始めた夕方だった。玄関を入ってすぐ執事のロベルトが客が来ていることを告げた。
「お父様ではなく僕に?」
「ええ、お嬢様とお坊ちゃまを訪ねて、従兄のバーナード様と一緒に」
「え……それってジョゼさん!?」
「家名はフランクス様とのことですがお名前までは……」
「どこの部屋?」
「南の客間です。今お嬢様がお相手を……」
ロベルトの言葉を最後まで聞かずにビリーは駆け出した。都から帰ってきて日がたつにつれて、ジョゼのあの言葉はただの社交辞令だったのかもと思うようになっていたのだ。思えば、やっていることと言われたことはリカルドがレリーにしたこととそう大差はない。自分も貴族の口車に乗せられただけのまぬけだったのか、いやジョゼに限ってそんなこと、しかしリカルドもレリーにはいい顔をしていた……などと悶々と悩んでいた矢先だったのだ。
南の客間の前について、荒くなった呼吸を落ちつけつつ、そっとノックをすると、中から姉の声で入室を促された。早くなる鼓動を抑えながら扉を開くと、そこにはメイドと茶器を片付けるレリーの姿しかなかった。きょろきょろと見回しても、ジョゼどころかバーニーの姿もなかった。
「お帰りなさいビリー。ちょうど入れ違いになっちゃったわね、今お客様はバーニーが庭を案内しに行ったところなの」
「あ、そうなんだ…」
肩透かしをくらった気分で、さっきまでの浮ついていた気持ちが急に恥ずかしくなる。もぞもぞと落ち着かないビリーにレリーは思わず笑ってしまった。
「さっき出たばかりだからしばらく戻らないと思うわ。お庭に行ってらしゃいよ」
「え、あ、そうなの?…うん、じゃあ、そうする」
レリーの言葉に背中を押されるように客間から出ようとしたビリーは、ふと思い立って足を止め振り返った。
「姉さんは、もうジョゼさんと会ったんだよね」
「ええ、もちろん」
「その…どう思った?」
「どう? そうね、素敵な方だと思ったわ。あんなに綺麗な人って初めて見たわ。それに騎士もされてるんですってね! 驚いたけど確かによくお似合いだわ」
レリーにもジョゼは好感触だったと見えて、ビリーはほっとした。今度こそレリーには、レリーだけを思ってくれるいい人と結ばれてほしいと心から思っているからだ。
「そっか、よかった。姉さんとジョゼさんならきっとうまくいくと思ったんだ」
「まぁビリー! 私のことまで考えていたなんて……。貴方ってば本当に優しい子ね」
「姉さんには今度こそ幸せになってほしいだけだよ。それで、その、今後の話はもうした? 例えば婚約、とか」
思い切って本質に切り込むとレリーの顔にさっと朱が走った。ビリーがいない間に話は進行していたようだった。見る間に赤く染まっていくレリーを眺めながら、ビリーの脳裏にはレリーと寄り添うジョゼの姿が浮かんでいた。いつかそんな未来が来るかもしれないのが嬉しいと思う反面、なぜか嫌だと思う感情に気が付いて、ビリーは動揺した。大好きな姉と、恩人である人が結ばれればこんないいことはないと確かに思うのに、なぜか心が今一つはっきり晴れないのだ。そんな気持ちを振り払うように笑顔でレリーに向き合った。
「ね、どう思った? 僕はいいと思うんだけど」
「それは、その、驚いたけど、嬉しかったわ。でも、ビリーはいいの? それに最終的に決めるのはお父様たちよ」
「いいに決まってる! 大丈夫だよ、お似合いだと思う。きっと幸せになれるよ。万が一反対されるようなら今度は僕も力になるから」
思いっきりの笑顔でそういうと、レリーは少しの間ぽかんとビリーを見つめた後、花開くように微笑んだ。
「ありがとう、ビリー。あなたもきっと幸せになるわ」
姉の声を背に、庭へ足を向けた。あの綺麗で美しい人が義兄になるのかと思いながら、ようやくビリーは自分もジョゼに心惹かれていたのだと気が付いた。それが恋慕であるとは判断できないが、人としてあの人に惹かれていたのは事実だ。自分が見つけた、出会った人を姉に渡すことにためらっていたのだと自覚した。姉の幸せを祈っているのは事実、ただ自分もジョゼの特別になりたいと感じていたことも事実。だが、自分の気持ちをどうにかしようという気にはならなかった。何せビリーは「ジャックス家の男」なのだ。やっと落ち着いた姉の気持ちを不意にするような無益な争いは起こしたくない。あの日、リカルドに切り込んでいったジョゼとの違いに、情けないなと自嘲した。
庭へ出ると太陽は先ほどよりも傾いており、少し薄暗くなり始めた中を見回すと、母自慢の庭を見ているバーニーの姿を見つけた。隣には見知らぬ令嬢が一緒にいるが、周囲を見回してもジョゼらしき青年の姿は見当たらない。おかしいと思いながらも足を進め、バーニーに声をかける。
「バーン兄さん!」
「よおビリー! 邪魔してるぜ」
ビリーに気づいたバーニーは気さくな態度で片手をあげた。珍しくかしこまった格好をしていて、背の高いバーニーはそれだけで格好がつく。バーニーにつられて背中を向けていた令嬢も振り返ってビリーを見た。遠目ではよく見えなかったが、近づいてみるとかなりの美人だと気が付いた。
長い睫毛がくるんと上を向いた金色の瞳はすっと吊り上がり、自信にあふれた輝きできらきらとしている。焦げ茶色の髪は綺麗にまとめられ、シンプルな髪留め一つで纏められている。すらりとした細身の体は、装飾の少ないシンプルで、だが流行のラインを取り入れたドレスに包まれていた。装飾に派手さはないものの、そのシンプルさがかえって元来持ち合わせている華やかさを引き立てていて、どこか清廉された雰囲気を醸し出していた。背の高いバーニーと並んでもこぶし1つ低いくらいで、女性としては長身だが、それがかえって彼女の凛とした美しさを際立たせているようだった。
綺麗な人だなと思いながら、ビリーはその令嬢にどこか既視感を抱いていた。こんな美人、一度会っていたら忘れるはずがないと思うのに、どこの誰なのかいまいち思い出せない。誰だ? という意味を込めてバーニーへ目線をやるも、にやにやと笑って何も答えず紹介すらしてくれない。令嬢はこちらが声をかけるのを待っているように、緩く微笑んで無言を貫いている。
「ええと、いらっしゃいませ。ジャックス伯爵家長男のウィリアム・ジャックスと申します。ジャックス家へようこそ。…あの、失礼ですが、どこかでお会いしたことがあったでしょうか?」
礼をしながら、無礼を承知でそう切り出すと隣でにやにやとしていたバーニーが思いっきり吹き出して大爆笑をした。彼女も声を出さずにくすくすと笑いだした。何事から戸惑うビリーを横目に、ひぃひぃを笑い転げるバーニーがなんとか呼吸を整えて、なんともわざとらしい慇懃な態度で令嬢の手を引いた。
「はぁ面白い。紹介しよう、ビリー。我が学園の同級生だ。どうしてもジャックス家の姉弟に会いたいということでお連れした」
「ごきげんよう、フランクス伯爵家が長女、ジョゼフィーヌ・フランクスと申します。どうぞ、ジョゼとお呼びくださいませ」
綺麗な淑女の礼をする令嬢の声が、顔が、みるみるひと月前に出会ったあの人と重なっていくのに、ビリーは唖然と口を開いたまま声が出ない。そんな様子を見た令嬢──ジョゼフィーヌは、いつかの廊下で見たように、やさしく微笑んだ。
「久しぶりだね、ハニービ―」
**
「騙そうとしてたつもりはなんだよ」
庭に備えられた東屋に移動して、人ひとり分の間隔を空けて2人並んで座り話をした。バーニーはレリーが戻りが遅くなるのを心配しないようにと屋敷へ戻った。代わりに声は聞こえないが見える範囲にメイドを待たせているので2人きりにはなっていない。腰を落ち着かせてすぐ、ジョゼは申し訳なさそうに口を開いた。
「フランクス家は元々騎士で身を立てた家だから、自然と私も騎士の道を目指したんだ。学園の騎士部は男女両方に門徒を開いているから、騎士部の制服は男女兼用でね。私の代は女性部員が私しかいなくて、変に意識されないように活動の時は装いも男性寄りにしてたんだ。それでも学園では私が女子生徒ってことはみんなが知っているから、男と間違えられるなんて思ったことなかったんだ」
「でも、貴女もバーン兄さんも、女の子から人気だって言ってましたよね」
「貴族のご令嬢は男性に慣れていない子も多いからね。男装姿の私はちょうどいい練習台というわけだよ。さっきも言ったけど女性部員は私だけだからなおさら貴重な存在ってわけで、だから学園にいる女の子はみんな私を知っているし、私も把握している」
「そうだったんですね…」
ジョゼの口から語られる種明かしをすぐには飲み込めないビリーはどこかぼんやりした様子で相槌を打った。目の前にいる華麗な令嬢があの凛々しいジョゼだと、理解はしているのだがなかなか感情が追い付かないのだ。だってあれほど格好よくて頼りになって、姉の相手にもふさわしいと思ったのに…。
と思いを巡らせたところで、ふと先ほどのレリーの様子を思い出してビリーは首をひねった。レリーは確かに婚約を匂わされた態度だったが、こうしてジョゼは女性であることがわかった。果たしてレリーは誰と婚約をするつもりなのだろう。そもそも、なぜジョゼはわざわざジャックス領まで来たのだろうか。
「あの、ジョゼさんが女性ということは理解しました」
「黙っていたこと、怒ったかな」
「いえ、それは。あの場では僕が侵入者であることは事実でしたし、素性も知れない相手に身分を隠すのは仕方ないと思いますから…。それより、どうして今日うちまで来てくださったんですか? あの時姉と仲良くできそうだって言ってくれたから、てっきり婚約に乗り気なのかと思ったんですけど…」
「うん、そうだよ」
問いかけに少し頬を染めてジョゼは笑った。ビリーはますますわけがわからなくなった。
「えっと…でもジョゼさんは女性なんですよね?」
「うん、この通り」
「つまり…?」
「つまり、君と婚約がしたくて来たんだよ、ハニービー」
ジョゼはそういうとぽかんと口を開けたビリーの手を取り跪いた。見た目は完全に可憐な令嬢なのに、そうした姿は騎士のように格好良くて、ビリーは鼓動が早くなるのを感じた。
「学園でも少し話をしたけど、私はフランクス家の長女で跡取りなんだ。兄弟もいないし親戚もいないから婿入りしてくれる人を探していた。私自身は誰でもいいと思っていたから親に任せていたけど、それで名乗りを上げたのがグラバンズだった。君のおかげで顔合わせの前に断ることが出来て本当に感謝している。それに、君とも出会えた。お姉さんのために女装までして学園に乗り込んでくる優しさと度胸に胸を打たれたんだ。どうか私の伴侶としてフランクス家に来てはくれないだろうか」
あの日見惚れた綺麗な顔で、少し頬を染めて自分を見上げるジョゼの姿に、ビリーはみるみるうちに顔が赤くなるのを感じた。
「だ、で、でも、僕はジャックス家の跡取りで…」
「うん知っているよ、だからバーナードに仲介を頼んだんだ。彼は伯爵領の継承権を持っているだろう? それにあいつはレリアン嬢に惚れていた。二人協力して君たち姉弟を口説き落とそうってことでこうして会いに来たんだよ」
「えぇ!? バーン兄さんが?」
「ビーが帰った後にバーナードから聞いたんだ。小さい頃から好きだったって。彼が騎士部に入っていたのも試験に受かって準貴族である騎士爵を得られればレリアン嬢に求婚できると思ったからだそうだよ」
ようやくさっきのレリーの態度に納得がいった。あれはジョゼではなくバーニーから求婚されて照れていたのだとようやく気が付いた。つまり、ジャックス領はバーニーがレリーに婿入りし、その代わりビリーがジョゼに婿入りするという、そういう話なのだと、ここにきてようやくビリーにも話が見えた。
「そんなこと、考えたこともなかった…」
茫然とつぶやくビリーに、ジョゼは仕方ないよと言って眉を下げた。
「当たり前だと思う。これまで嫡男として過ごしてきたのに、急に婿入りなんてプライドも傷ついたと思う…。でも、私は将来隣に立ってくれるなら君がいいと思ったんだ」
跪いたままの恰好で、ビリーの手をぎゅっと握ったジョゼは、懇願するようにビリーを見上げた。
「私は騎士を目指していて、他のご令嬢に比べたらちっともお淑やかじゃないし、令嬢らしくもない。不可抗力とはいえ君を騙してもいた。でも、私はあの数時間共に過ごしただけであなたのはちみつ色を忘れることができなかった。ハニービー、私の愛しい人。どうか私を選んでくださいませんか?」
熱を持ったジョゼの瞳に見つめられて、ビリーの気持ちはすっかり固まっていた。うるさいくらいの鼓動がジョゼにも伝わるんじゃないかと思うくらいだった。握られたままだった手をそっと外して、反対にジョゼの手を握り返した。
「立ってください、せっかくのドレスが汚れてしまいます」
ジョゼの手を引いて立ち上がらせ、ビリーもベンチから立ち上がった。ヒールを履いているジョゼの方が目線1つ分高く、今度はビリーがジョゼを見上げる形になった。長い睫毛に縁どられた金色の瞳は、初めて会った時と同じようにきりりとしていたが、ほんのり目じりが赤く染まっていた。自分を見てそうなっている事実に、ビリーの心臓はうるさいくらいに音を立てた。
「ジョゼさんが姉さんに求婚に来るかもしれないと思って、ずっと嬉しかったんです」
「それは…期待を裏切ってしまって、ごめん」
「でも嬉しいのと同じくらい寂しくて、悔しかった。ジョゼさんを見つけたのは、見つけてもらったのは僕なのに、選ばれるのは姉さんなんだって」
ジョゼの手を握ったまま、今度はビリーがぎこちなく膝をついた。今までの人生で人に跪いたことなんて一度もないから、少しふらついてしまったのはご愛敬だ。
「ジョゼさんの特別になりたいと、確かにそう思いました。僕でいいなら、貴女の隣に立ちたいです。……でも、ついさっきまで男の人だと思ってたから、少しだけ時間を下さい。決心がついたら、僕からもう一度プロポーズします。……それでもいいですか?」
真っ赤になって見上げるビリーに、ジョゼはいつかのようににっこり笑って、そのはちみつ色の髪をそっと撫でた。
「待ってるよ、ハニービー」
「……ハニーはやめてください」
**
すっきりと晴れた初夏の日、フィロー湖は太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。ジャックス領が一年で一番美しいその時期に、湖畔の教会で結婚式があげられた。次期ジャックス女伯爵となるレリアンと、その伴侶であるバーナードの結婚式だ。
レリアンの初恋から始まった夏のひと騒動から3年、バーナードが従姉のレリアンに求婚し、嫡男のウィリアムに王都の次期女伯爵ジョゼフィーヌが求婚した一件はほんの小さな騒動になった。ほとんど決まりかけていた後継ぎの交代には一族内外から様々声が上がったものの、家のつながり自体は悪い話ではないし、当の本人たちが納得しているのならばとようやく落ち着きを見せた。ジャックス領はレリーが後を継ぎ、バーニーは騎士の身分を持ちつつ地方警備の名目でジャックス領に身を置くことになったのだ。そうして本日こうして晴れの日を迎えることとなった。
領民や招待客に囲まれて幸せそうに笑う姉と従兄(もう義兄でもある)をビリーは少し遠目で見つめていた。一時はどうなることかと思ったが、大切な姉がこうして幸せになってくれて本当によかった。
「近くに行かなくていいの?」
そんなビリーの腕をそっと取って問いかけるのは、ビリーの婚約者となったジョゼだ。今も現役で王都の騎士を務める彼女はその引き締まった華奢な体でストレートラインのドレスを美麗に着こなしている。男装をしていたころの面影はすっかり息をひそめているが、今でも凛々しくて格好いいとビリーは密かに思っている。
「うん。さっきたくさん話したから。……姉さんが幸せになってくれて本当によかった。あの時、あんなクズ男に捕まらなくて本当によかった」
嬉しそうにほほを緩めるビリーは、もう女装はできないくらいすっかり精悍な顔立ちの立派な青年になっていた。この3年で身長もぐっと大きくなり、ようやく去年ジョゼの身長を追い抜かすことが出来た。そんな大人の男に成長した婚約者を見て、ジョゼはくすりとほほ笑んだ。
「そうだね、でもあいつがレリーにちょっかいを出さなかったら君にも出会えなかったから、そこだけは感謝できるかもしれないな。そう思わない? ハニー」
そう言って肩にもたれかかれば、ビリーは少し驚いてほほを染めた後、にっこりと笑って摺り寄せたジョゼの髪に唇を落とした。
「そうかもしれないねダーリン」
“ハニー”と呼ばれて照れていた少年は、もうすっかりどこにもいない。