7.春の夜のパーティーにて
春先は暖かいとはいえ、何だか今日は頬を撫でる風がひんやりとしていた。
今夜はもしかしたら、もっと冷えれば少し雪がちらつくかもしれない……とカミラが言っていた。
「本当に変じゃない? 私、こんな格好するの初めてだから、どうにも慣れなくって……!」
「大丈夫ですよ、ロミア様。おかしな所だなんて一つもありません。とてもお綺麗ですよ……ほら」
そう言ってカミラが見せてくれた手鏡に映る自分は、彼女の手によって化粧が施されている。
いつもは普通に降ろしているだけの髪もリボンで結い上げられ、映っているのは私の顔のはずなのに、まるでどこかのお姫様にでもなったかのようだ。
……まあ、肩書きだけなら伯爵家のお嬢様になったんだけどね!
不安でいっぱいの私を落ち着かせるように、カミラが穏やかな口調で言う。
「それに、お昼の時間に一通りのマナーは覚えられましたし、今日のパーティーではダンスは無いそうですからご安心下さい」
「覚えたって言っても一夜漬けみたいなものだし、緊張しすぎて頭が真っ白になったらどうしよう……!」
「深呼吸して、心を落ち着かせて下さい」
「具体的な解決策ではなかった……!」
案外雑な返答が来て余計に混乱しそうになるも、今夜のパーティーにはお父様と……姉であるというダリアさんも来るのだ。
二人は私がつい最近まで庶民暮らしをしていた事は知っているし、いざとなったら彼らを頼るしかない。
昨晩お父様が見せて下さった招待状には『家族や恋人、友人』までなら同行させても良いと書かれていたから、使用人であるカミラは来られないんだもの。
今夜行われる公爵家のパーティーというのは、公爵家の跡取りであるレド様の二十歳の誕生日を祝う会であるそうだ。
この国では、建国の王である初代シルリス王が国王となった年齢と同じ二十歳を迎える男性を、盛大に祝う風習がある。
伯爵家はパレンツァン家と交流があり、再び伯爵家の一員に加わる私との顔合わせを含めて、今日のパーティーに出席するように頼まれたのだった。
パーティーは夜から始まる為、そろそろ屋敷を出なければならない時間だろう。
私はドレスなんて持っていないので、お母様が若い頃に着ていたという淡い水色のフリルが綺麗なドレスを貸してもらった。
髪のセットなんかを含めて、カミラに手伝ってもらっている。
「そろそろ馬車で出なければいけない時間ですね……。門までお見送りさせて頂きます」
「時間が経つのは早いわね……。ああ、やっぱり緊張してきたぁ……!」
「深呼吸、深呼吸ですよロミア様」
「すー……はー……。何となく……落ち着いたような、気がする……?」
「その調子です」
何だかどんどん適当な事を言われているような気がしてならないが、約束してしまったからには今更欠席する訳にもいかない。
門の前まで行くと、既に到着していた馬車にお父様が乗り込んでいた。
この馬車も、今日の為にお父様が臨時で雇った御者が引くのだろう。
「お待たせ致しました、お父様」
「おお、若い頃のマリゴルドと瓜二つだな……! さあ、乗りなさい。公爵家のパーティーに遅れてしまっては一大事だからな」
「は、はい! それじゃあカミラ、行って来ます!」
「行ってらっしゃいませ」
慌ただしく馬車に乗り込むと、間も無くして馬が走り出す。
「……何があっても、私はロミア様について行きますからね」
そんな彼女の呟きは、走り出した馬車の音に掻き消される。
私とお父様を乗せた馬車は、川を越えた先にあるパレンツァン領へと向かって行った。
*
公爵家の屋敷に到着する頃には、すっかり夜になっていた。
大きな鉄の門の近くに次から次へと馬車がやって来て、煌びやかなドレスに身を包んだ女性や、そんなレディ達をエスコートする紳士で溢れかえっている。
「大勢いらっしゃるとは聞いていましたが、ここまで人が多いとは思いませんでした」
「パレンツァン家は、シルリス御三家の一つだからな。次期当主のレドは昨年末に妻を病で亡くしているが、優れた炎の使い手として将来有望で、加えて人望もある。彼の為にと集まったこの招待客達が、その証拠さ」
シルリス御三家といえば、建国王の時代からこの国に貢献してきた、名家の中の名家だ。
代々優秀な炎属性の魔法の使い手を輩出していて、現パレンツァン公も国の中枢を担う人物だった。
その優秀な血を残す為、シルリス王国の王侯貴族は、同じ加護を宿した結婚相手のみと婚姻を結ぶ。
そうしてより強力な加護を持った子孫を残す『純血思想』による“加護婚”が根強いものの、庶民の間ではそこまで厳しい縛りは無い。
現に私の育ての親、ルーシア商会の父さんと母さんは、互いに別々の加護持ちでも結婚していた。
そうした夫婦の間に生まれた子供でも、才能に恵まれれば貴族にも引けを取らない魔術師が誕生する事もあるのだという。
それに、近年ではこうした純血思想は多くの国々で廃れてきているらしい。
私は伯爵家の生まれでも属性無しだから関係無いけれど、結婚相手を本人達の自由で選べないのは人権侵害だと強く批判し、どこかの貴族カップルが駆け落ちしたなんて噂もあるぐらいだ。
そんなカップルが本当に居るのなら、どこかで二人幸せに暮らしてくれていたらいいなと思う。
すると、馬車を降りた私とお父様のすぐ近くに、一台の馬車が停まる。
今度はどんな人がやって来たのだろうかと顔を向けると、大人っぽいワインレッドのロングドレスを着こなした女性が現れた。
スッキリと整えられた、ミディアムショートの金髪。
その金髪の女性は、お父様と隣に立つ私を見付けた瞬間、少し表情が強張った──ような気がした。
彼女の瞳は、私やマリゴルドお母様と同じ、真紅の薔薇のような赤。
その強く凛とした佇まいは、よく躾けられた雌の猟犬を思わせる。
きっとこの女性こそが、伯爵家の三姉妹の長女……私の姉さんなのだろうと察する。
「……お久し振りです、お父様。その子が、例の話にあった……?」
「ああ、ロミアだ」
例の話……?
今夜のパーティーに同行する件について……にしては、ちょっとおかしいような。
もしその件なのだとしたら、彼女の口から『その子が今夜のパーティーの?』といった言葉が出て来そうなものだけれど。
少しそれが引っ掛かったものの、ひとまず彼女に挨拶しておくべきだろうと、私はカミラに習った淑女らしいおじぎで自己紹介をする。
「昨日からアリスティア邸でお世話になっております、ロミアです」
「……本当に、貴女がロミアなのね。私の……居なくなったはずの妹の……」
「え……あ、ああ。私がまだ幼い頃に、養子に出されていたからですよね? ええと、今夜はよろしくお願い致します。ダリアさんの事は、これからどうお呼びした方が──」
「気安く私の名を呼ばないでもらえる?」
「えっ……」
彼女の名を口にした途端、その視線に嫌悪の色が強く込められるのが分かった。
「私、貴女とはこれきり関わるつもりは無いの。黙ってお父様と私の指示に従っていなさい。良いわね?」
「……は、はい」
有無を言わせぬ圧を掛けられてしまった私は、大人しく頷く他も無く……。
ふと周囲を伺って見ると、続々と邸内へと入っていく招待客達がこちらを気にしている様子は無い。
もしかしたら多少は会話が漏れ聞こえているかもしれないけれど、他の人達の声や馬車が行き交う音に混ざり、私達の空気感がかなり冷え込んでいる事を知る者は居ないようだ。
お姉様──と呼ばれる事すら彼女には不快なのかもしれないけれど──は、王都で騎士として働いているという。
今夜はパーティーの為に休みを貰って来ているそうだけれど、騎士の職務より優先すべき何かがあるのだろう。
伯爵家は子供が全員女だったから、女性でも跡を継げるのなら、お姉様が次期伯爵となるはずだ。
けれども男性しか継げないとなれば、彼女は婿を探さなければならなくなる。
もしかしたら彼女がわざわざここを訪れたのも、そういう理由があったりするのだろうか……。
そんな事を考えながら、つかつかと足早に先へ行ってしまった姉と父の後を追って、私も貴族達の波の中へと進んでいった。
*
今夜の会場となるのは、ざっと百人が集まっても窮屈にならない程に広々としたホールだった。
案内された場所は、どうやら公爵家の屋敷の旧館らしい。
こうした大規模な集まりでは、いつもこちらの方を利用しているのだとお父様が説明して下さった。
立食形式のパーティー会場のテーブルには、美しく盛り付けられた大皿の料理が並んでいた。
どれも食べた事のないような品の数々。パレンツァン家の料理人の腕前はもちろん、それらの豪勢な食事をふんだんに振る舞う財力の凄さが見て取れる。
給仕の男性からグラスに注がれた透明なお酒を受け取ったお姉様が「ありがとう」と微笑むだけで、給仕さんがその仕草に思わず息を呑む。
これが本物の貴族のご令嬢というものか……と感心していると、あっという間にお姉様の周りに人が集まり始めた。
伯爵であるお父様への挨拶も兼ねてだろうが、私達を取り囲む若い男性達のお目当ては、間違い無くお姉様だ。
彼女はまだ独身であり、婚約者も居ない。男性達からしてみれば、強さと美しさを兼ね備えるダリアお姉様が魅力的に映るのは、至って自然な事なのだろう。
──となると、私はどう見ても邪魔者でしかないよね。
そう思い至った私は、二人から少し離れたところでウェルカムドリンクのお酒に口を付けた。
「あっ、これ美味しい……」
正直に言って、昨晩飲ませてもらったお父様のとっておきのワインよりもフルーティーで美味しかった。
何のお酒なんだろうと考えながら、もう一口……とグラスに唇を付けようとしたところで、背後から声が掛けられた。
「……レディ、少しお尋ねしても良いかね?」
振り返ると、そこには凛々しい顔立ちの男性が居た。
長い黒髪を後ろの方で束ね、品のある礼服に身を包んだ若い男性だった。
彼は、私の姿を頭の先から爪先まで、じっくりと観察してから口を開く。
「……君は、うちの招待客のリストにあったかな?」
うちの招待客……?
この男性の口からその言葉が出るという事は、彼が今夜の主役であるレド・パレンツァン様なのかしら。
開会の挨拶の時には人混みのせいでお顔が見えなかったけれど、その時に聞き覚えのある声だった。
しかし、続けて彼の口から発せられたのは、私にとってあまりにもショックな内容だった。
「……僕の記憶には、君のような粗末な格好をした淑女の知り合いは、居なかったはずなのだがねぇ?」
彼がそう言うと、会話を聞いていた他の人々がクスクスと笑うのが聞こえた。
確かにこのドレスはお母様のお古で、彼女が若かりし頃の物だったとは聞いている。
けれども保存状態はそこまで悪いものではなかったし、カミラだって私の髪のセットやお化粧もしてくれた。
ルーシア商会の母さんから貰った手鏡に映った自分は、普段の私とはまるで別人のように華やかだったのだ。
私なりに、精一杯のお洒落をしたつもりだった。だというのに、それを目の前の男性は“粗末な格好”だと斬り捨てた……!
私はカアっと頬が熱くなって、悔しさと恥ずかしさで視界が滲んだ。
それでも、ダリアお姉様は無言で口元を扇子で隠し、こちらを冷たい目で見詰めるだけだ。
「ま、待って下さい……! 私はアリスティア伯爵家の──」
「このようなみすぼらしい娘が、あの騎士の名門の家系であるアリスティア家の出であるはずがないだろう! とんだ侮辱じゃないか! おい、誰かこの娘をつまみ出せ!」
「本当なんです! 私は、私は……」
それ以上の事を言うよりも早く、私は駆け付けた公爵家の警備員に取り囲まれ、拘束された。ガシャン! と音を立てて、私が持っていたグラスが割れる。
待って、違うんです、誤解なんです……!
と必死に言葉を繰り返しても、少し離れた人混みの方からこちらを見ていたお姉様は、不干渉を貫いた。
すると、お父様も何事かと騒ぎを聞き付けてやって来た。
けれども不審者として摘み出されようとしている私を見て、険しい表情を浮かべてこちらを見ているだけだった。
……私のもう一つの家族は、誰も私を庇ってくれようとはしなかったのだ。
*
それから私は、ちらちらと雪が降り始めたパレンツァン邸の外に放り出された。
カミラが言っていたように、本当に雪が降って来るだなんて……。
雪が肩や頬に触れた側から、私の体温でそっと溶けていく。
それも、ドレスなのにそんな寒さの中で外って……!
屋敷の方からは、楽団が奏でる華やかな音楽と、賑やかな声が漏れ聞こえて来る。
……今頃、無様に追い出された私の事を笑っているのだろうか。
あのレドという人から告げられた暴言はとんでもなくショックだったけれど、せめてもの意地で泣いてなんてやらなかった。
ああいう傲慢な貴族っていうのは、庶民を馬鹿にして、属性無しは生きる価値も無いと思っている人達だ。
あんな人達の前で見せる程、私の涙は安いもんじゃない。
「……パーティーが終わるまで、ここでお父様達を待ってるしかないよね」
冷たい空気を目一杯吸い込んで、一つ深呼吸をする。
ここからアリスティア領までは、徒歩で帰れる程の距離ではなかった。
いくら季節が春の始めだとはいえ、季節外れの雪が降る程に今夜は冷える。
こんな薄着のドレスを着たままでは、風邪を引いてしまうだろう。
こうなると、伯爵家の馬車の中で寒さを凌しのぐしかないかな……。
とぼとぼと馬車が停まっている場所まで歩いていると、頬を涙が伝っていった。人前で派手に泣かなかっただけ、まだマシだったと思う。
それでも、今の自分があまりにも惨めで情けなかった。
私はただお父様に頼まれてパーティーに行っただけなのに、どうしてあんな人前で貶されなければならなかったのだろう。
確かに私は平民育ちで、ダリアお姉様のような気品も美しさも足りていない。同じ金髪に真紅の瞳の女であっても、私とあの人とでは何もかもが違いすぎた。
だけど、いくら何でもあの扱いはあんまりすぎるじゃない……!
「私……何でパーティーに出るなんて話、引き受けちゃったんだろう……」
ふと気が付くと、遠くの方から車輪が転がる音と、馬の足音が聴こえてきた。
俯いていた顔を上げてみれば、向こうから白馬が馬車を引いて走って来るのが見える。今夜のパーティーに遅れてやって来た人だろうか。
通行の邪魔になってはいけないと道を横にずれると、何故か私の横を少し通り過ぎたところでその馬車が止まった。
その馬車は我が家のものより数段上質であろう事が窺えて、そこから降りて来た人も、まるで絵本に出て来る王子様のように麗しい男性だった。
「……こんなに美しく着飾った女性が、何故この夜道に一人で居るんだ?」
心地良い、発音の良い低い声。
空から降り注ぐ雪のように真っ白な髪に、見詰めているだけで思わず吸い込まれてしまいそうになるスミレ色の瞳。
彼はその細く、けれども男性らしい無骨さのある指先を、少し躊躇いがちにこちらに伸ばした。
「……きっと、何かがあったのだろう。俺で良ければ、その理由を聞かせてほしい。無理にとは言わないが……貴女の心の負担も、軽くなるかもしれないからな」
「ありがとう……ございます」
私は、気が付いたら彼の手を取っていた。蝶が香りに誘われて、花の蜜を吸おうと引き寄せられるように。
「私……私は、ロミアと申します」
「ロミア……か。俺の名は……そうだな。ジュリと呼んでくれ。さあ、外は冷えるだろう。ひとまず、これを羽織はおって身体を温めてくれ」
そう言って、彼は身に付けていた外套を私に羽織らせてくれた。
そこから伝わる彼の温もりは、何故だかひどく懐かしく感じられた。