3.皇帝と令嬢 前編
病室でゼル先生に見送られた後、私はフェルさんに案内されて、別室で着替えを済ませる。
その間に彼女が持って来てくれた、野菜とハムを挟んだパンを紅茶で流し込ませてもらった。
先程まで着ていたのは港で着た防寒着だったが、宮殿の中で過ごすにはラフすぎた為、当初パレンツァン邸へ向かっていた際に着ていたドレスに着替えている。
軽食を終えた後は、この凍て付く雪と氷の国の皇帝──ジュリウス陛下の待つ謁見の間へ連れて行ってもらうだけだ。
とはいえ、私が気絶している間に運び込まれていたヴォルゴ宮殿は、雪国だというのにほとんど寒さを感じなかった。
何らかの魔法、もしくは魔道具による対策が施されているのかもしれない。
宮殿で使用されているのだから、使われている術式や魔石なんかも高級品のはず。
それもこんな大きな宮殿の温度管理が可能なんだし、とても庶民には手を出せない技術だろう。
そうなってくると、帝国の人達は暖炉で身体を温めているのか……。
……ああ! こういうのがちょっとでも気になると、商会で働いていた頃の観察癖が出ちゃうっ!
あそこの壁に何気無く飾られている絵画だって、そもそも額縁からして職人のこだわりを感じるし!
それにあの絵の筆使い……まさか、突如謎の失踪を遂げたと有名なあの──
「ロミア様、まもなく謁見の間でございます」
フェルさんの声に、すっかり商人目線で思考を巡らせていた私の意識が一気に引き戻された。
先頭を歩く彼女の後について行くと、一際大きな扉が見えてくる。
彼女はそこで立ち止まると、こちらに向き直る。
「この先で、陛下がお待ちしております。……準備はよろしいですか?」
「……身支度は出来ているけど、改めてこんな凄く豪華な場所でお会いするとなると、心の準備の方が……」
「フフッ……大丈夫ですよ。陛下は狼のように荒々しい戦いをする事から、氷獣の帝王の異名を持つお方ではありますが……これだけは断言出来ます。わたくし達や我々の主は、間違い無くあなた様の味方にございます」
陛下達は、私の味方……。
つまり、私には敵が居るという事になる。
それはやはり、実父であるというダリオス伯爵や、公爵家の人達の事……になるのよね、きっと……。
──どうして私には、伯爵家で暮らしていた頃の記憶が一切無いのか。
私が憶えているのは、ルーシア商会で楽しく過ごしていた幼少期から、こうして帝国へとやって来た今日までの記憶だけ。
それより前の記憶の欠落が、私の本当の家族達と何か関連性があるのだろうか……?
……一度深く考え込み始めたらきりが無いけれど、こんな所で私一人が思い悩んでいても、現状は何も変えられない。
「……とにかく、陛下にお会いしてみないと何も始まりませんよね。お願いします、フェルさん」
「はい」
フェルさんが扉の横に立っていた見張りの騎士二人に目で合図を送ると、遂に謁見の間への扉が開かれた。
重い扉が開かれた先には、三人の男性の姿があった。
一人は玉座の左に立つ、ローブを着た金髪の若い男性。
右側に居るのは、彼と同じような年齢の赤い髪の男性──レオールさん。
彼は港で見た時と同じ、黒い毛皮があしらわれた鎧を身に付けていた。
そして、二人の間の玉座に腰を下ろしていたのは……雪のように白く、深いスミレ色をした切れ長の美しい瞳の人。
不審者としてパーティーから追い出され、冷たい夜風に震えていた私を助けて下さった、優しいジュリ様──その正体は、皇帝ジュリウス陛下だった。
彼は私を見て、穏やかに目を細めて口を開いた。
「……体調が良くなったようで安心したよ、ロミア嬢。そしてようこそ、我がヴォルゴ宮殿へ。貴女が無事にこの国へ来てくれた事、とても嬉しく思う。そして改めて名乗らせてもらおう。俺はジュリウス・デジール・エスペランス……この国の皇帝だ」
彼の語った話が真実であれば、私とジュリウス陛下はあの夜が初対面ではなかった。
まだ私がアリスティア家の娘として育てられていた当時、偶然庭に迷い込んだ幼い日の彼と、私は約束を交わしていたという。
そうしてあのパーティーの夜に再会を果たした彼が、ヴィルザードの皇帝陛下だっただなんて……。
あの時はそんな事、全く思いもしていなかった。
私がもっと博識だったら、ジュリ様の名前を聞いた時点で、何かピンと来てもおかしくなかったかもしれないのに……!
ルーシア商会の元従業員として、一生の不覚……!!
と、とにかく、早く私もご挨拶をしなくては。
私はなるべく冷静になろうと強く意識しながら、パーティーの為にと事前にカミラから指導されていた、淑女らしい礼をしてみせた。
「こうしてもう一度お目にかかれて、光栄にございます。改めまして、私はロミアと申します。今は、アリスティア家のロミアと名乗るべきなのかもしれませんが……」
血の繋がった実の父に身売りされた立場としては、どうにも素直にアリスティアを名乗るのは不快感が残ってしまう。
すると陛下は、
「どうか無理はしないでくれ。貴女の事情は充分に把握している。今はただの“ロミア”で構わないさ」
と、馬車の中で語り合った時と変わらない笑みを浮かべて、そう言って下さったのだ。
彼のその言葉に、私は誰かに生き方を定められた都合の良い道具などではなく、一人の人間なのだと──自分をそう認めてもらえたような気がして、私も自然と口元が緩むのを感じた。
「さて……まずは貴女に、この二人を紹介しておこう。彼らは俺の腹心であり、宮廷魔術師団と近衛騎士団のそれぞれの長である──」
「初めまして〜、ロミア様。僕は魔術師団長のゲラートと申します」
「近衛騎士団白狼の団長、レオールだ。……って、もう知ってるよな? つーワケで、改めてこれからよろしく頼むぜ」
陛下に促され、最初に金髪の彼……ゲラートさんがにこやかに名乗り、レオールさんが不敵に微笑む。
「二人とも俺とは古い付き合いで、頼りになる男達だ。もしも何か困った事があれば、彼らも貴女に力を貸してくれる。……それから、そろそろ本題に入ろうか」
陛下がそう言うと、両隣の二人の団長様の表情が曇った。




