ファインダー越しのあの子
今日も僕は始発のJRに乗り込む。
目指すは東京湾、葛西臨海公園。
「ファインダー越しのあの子」に会うために。
日曜日の午前五時。
既に日が昇っているとはいえ、まだ外は薄暗い。
夏休みということもあって家族は皆寝静まっており、僕は誰も起こさないように足音を忍ばせて家を出た。
黒のボディバッグの中にはスマホ、財布、定期、そして古ぼけたフィルムカメラ。
普段通学に使うのとは逆方向の電車に乗り、東京駅で京葉線に乗り換える。
人もまばらな早朝の電車。
僕は七人掛けのシートの真ん中に座り、朝日に照らされる街を向かいの窓越しに眺めていた。
『まもなく、葛西臨海公園、葛西臨海公園、お出口は右側です』
がらんとした車内に虚しく響き渡るアナウンスを聞き流す。
車窓は既に海を映していた。
目的の駅のホームに降り立つと、潮の香りが鼻先を掠めた。
水族園の特徴的なドームを横目に、海岸線へ向かう。
東京湾は美しい朝焼けだった。
といっても既に六時近いので、太陽は意外に高く昇っている。
それでも、地平線遥か遠くにたなびく雲がカラフルに染まっている様は、十分に朝焼けと呼ぶに相応しかった。
誰もいない海岸に立って、僕はボディバッグの中からフィルムカメラを取り出した。
古びてはいるが、一応まだ使える。
父親が要らなくなったからと言って譲ってくれたものだった。
それを東の空に浮かぶ太陽に向かって構える。
ファインダー越しの朝日の眩しさに目を細めながら、僕はシャッターを切った。
パシャリ。
スマホのシャッターボタンを押した時に鳴る電子音とはまた違う、アナログならではの音。
と同時に、周囲が白い光に包まれた。
このごろようやく慣れてきた浮遊感に身を任せ、僕は目を閉じた。
瞼越しの光が弱まったのを感じ、僕は目を開いた。
そこは、ともすると先ほどまでいた海岸と同じ場所にも思われる。
しかしどこか違う。
まず遠くに見えるはずの建物が見えない。どこまでも水平線が広がっているように見える。
すぐ近くに聳え立つ葛西渚橋の塔は赤茶色く錆びて、廃墟のようになっている。
また、現実なら朝食に魚をとっている海鳥たちも全く見当たらない。
鳥だけではない、人も動物も、あらゆる命の存在が感じられない。
唯一いるのは、現実世界ではお目にかかれないような巨大な透明の蝶だけだ。
一メートルにもなる水みたいな翅を悠々と羽ばたかせている。
僕は、誰もいない葛西臨海公園に似た異世界を歩いて、あの子を探した。
彼女はすぐに見つかった。
少し離れた所で、海水に足をつけて座っていた。
僕が近づくと、彼女はくるっと振り返った。
「誠、おはよう。また来たんだ」
ニコニコと微笑んでポニーテールを揺らす少女。
僕の知らない高校の制服を身につけている。
「……おはよう、エリ」
「いやあ、君も物好きだよね。こんな場所にわざわざ早起きして来るなんてさ。塾とか行ってないの?」
僕は、靴が濡れないように彼女の隣に座った。
「行ってるけど、夜だし」
「ちゃんと寝てる? 成長期でしょ?」
「それはお互い様だろ……」
「あはは、どうかな。女子のほうが早く成長期終わるって言うじゃん?」
こうして、誰もいない海を眺めながら、二人で他愛もない会話をする。
それが僕の最近の朝のルーティンだ。
彼女と話す時間は楽しい。
お互いフルネームも知らない関係だが、だからこそ、どんなことでも気楽に話せる。
二人で過ごす時間はいつでもあっという間だ。
「そろそろ時間じゃない?」
エリが言い出した。
気がつくと、太陽はさっきよりもずっと高く昇っている。
九時か十時くらいにはなっただろうか。
この世界には、ある決まった時間──日の出から南中までの間しか居られない。
僕はギリギリまで居たことはないが、エリ曰く、うっかりタイムオーバーすると何やら大変なことになるらしい。
「じゃ、帰る。また明日」
「おー、明日も来るんか。じゃあね、気ぃつけてね」
のっそりと立ち上がった僕に、エリはひらひらと手を振った。
「おう」
今日も聞けなかった。
エリは帰らなくていいのか、と。
翌日。
僕はいつものように明け方に目覚ましをかけて起き、エリの所に行こうと準備をしていた。
ところが、
「………カメラがない……?」
昨日帰ってきてから、ボディバッグから出していないはずだ。
僕のバッグに触る人がいるとすれば、部屋を共有している中学生の弟だ。
だが、僕は弟と──というか他の家族と──正直あまり仲良くないし、部屋ではお互いに干渉しないという暗黙のルールがある。
だとするなら、海岸から帰ってくる途中で落としたか。
もしそうだったら簡単には見つからないだろう。
探すにしても時間がかかるし、タイムオーバーで向こうの世界に入れなくなる。
一日くらい行かなくてもいいか、とも思ったが、これまで毎日来ていた僕が急に来なくなったらエリは心配するに違いない。
それに、あのカメラは父さんに貰ったものだ。失くしたら悲しませることになる。
……どうしよう。
少しの間迷った後、僕はとりあえず海岸へカメラを探しに行くことにした。
カメラの入っていないボディバッグを肩にかけ、玄関で靴を履いていた時だった。
「誠」
背後から思わぬ声が聞こえ、僕は驚いて振り返った。
「父さん。……早いね」
「ああ、今日は早く出社しないといけないからな。お前こそ、いつもこんな時間にどこに行っているんだ?」
「ええっと、そう、写真、写真を撮りに行ってるんだ、朝日の」
「そうか。あまり母さんに心配かけるなよ」
母さんは僕のことなんか心配してないだろうけどな。
そう思ったが、僕は「うん、わかってる」と言うだけに留めた。
「……ねえ、父さん」
僕はふと思い立って、踵を返してリビングに戻ろうとする父さんを呼び止めた。
「何だ」
「父さんのくれたフィルムカメラってさ、その、……本当にただのカメラ? いや、なんというか、自分でも変なことを言ってる自覚はあるんだけど……」
やはり、父さんは暫く困惑したような表情で黙っていた。
しかし、僕が「やっぱり忘れて」と言おうと口を開きかけた時、
「まあ、思い当たる節がないわけでもない……。お前が思っているのとは違うかもしれないけどな」
僕はつい前のめりになってしまう。
「本当? 詳しく教えて」
「そうだな………誠にだったら、教えてやってもいいかもしれないな。でも今は時間がないから、俺が帰ってきてからでもいいか?」
「もちろん!」
僕がいつになく興奮した面持ちをしていたからか、父さんは不思議そうな顔をしていた。
もしかしたら、エリやあの異世界に繋がる手がかりが得られるかもしれない。
そのことで頭がいっぱいだった僕は、父さんが一瞬複雑そうな表情を浮かべていたことに気づくことができなかった。
結局、その日は一旦カメラを探しに行ったが、見つけるには至らなかった。
当然、あちらの世界にも行けていない。
ここのところ毎日エリに会っていたから、丸一日彼女の姿を見ないと物足りないような気分になって、なんだか落ち着かない。
夕方から塾に行き、七時ごろに帰宅するとリビングに父の姿があった。
「いきなりで悪いが、今日は二人で外に晩ご飯を食べに行かないか。今朝の話の続きをしたい」
「え……うん、良いけど……。母さんたちは?」
「大事な話をしたいからって言ってある」
想定外の提案に驚いた。そんなに重い──母さんや弟には聞かせたくない話なんだろうか。
「父さんが美大出身だっていうことは知ってるな?」
「うん、聞いたと思う」
家の近くのファミレス。ガヤガヤと五月蝿い店内で、隣席の人にとっては僕たちの話し声など取るに足りないBGMだろう。
昔は家族四人でよく来ていた記憶がある。
弟が中学受験をすることになり、本格的に勉強を始めた頃からは全く利用しなくなったが。
数年ぶりに目の前にしたチーズインハンバーグにナイフを入れる。
「高校の頃から仲が良かった女の子がいたんだ。俺たちは二人とも美術部に入っていて、同じ美大に受かった。俺は……まあ、端的に言ってしまえば、片想いをしていたんだ、その子に」
「……えっ」
中途半端に切れたハンバーグから、白いチーズが溢れ出す。
いやしかし、よく考えてみたら、というか別によく考えてみなくても当然だ。
父さんだって一人の人間だし、一人の青年だった時代だってあるわけで。初めから母さんを愛していたとは限らないじゃないか。
「俺は高校生の頃からカメラが好きでな。フィルムカメラを学校に持って行っては、いろんな物を撮っていた。……その子も、よく被写体になってくれた」
父さんは手元に目を落として、ぽつぽつと語った。
その表情は次第に暗いものになっていく。
「でも、大学三年の時、その子は別の男と付き合うことになった。ゼミが同じで知り合ったらしい。俺は失恋した。もっと早く告白しておけば良かったと後悔した。高校の頃から浮いた話の一つもない子だったから、油断していたってのもある。だが、高校から一緒だった俺よりも短い付き合いのその男が、どうしてあの子の隣にいるのかと……悔しかった」
父さんはまた苦しそうに続ける。
「俺には、彼女をあの男から奪ってやろうという気はなかった。付き合うことになってから、彼女はそれまで以上に輝いていたから。その事実が俺をさらに苦しめた。彼女のことを思い出すだけでも辛かったし、いろいろなものが嫌になった。……あのカメラもそうだ。あれも、彼女と過ごした時間を思い起こさせるものだった。だから俺は、あの子の写ったフィルムを全部抜き取って、東京湾に捨てた」
「………」
「だがな、不思議と、カメラそのものを捨てる気にはなれなかったんだ。俺は、そのカメラを実家の押し入れの奥にしまい込んだ。それを偶々この間見つけて、お前にやったんだ。まだ使えるから、誰かに使ってもらおうと思ってな」
僕は言葉を発することができなかった。
父さんに、というか、他人にこんなふうに感情を吐露されたことは今まで一度もなかった。
それに、あのカメラが辿ってきた数奇な運命のスケールの大きさに唖然としてしまった。
「………その、父さんが好きだった女の人は、どうなったの……?」
僕が辛うじて訊けたのはこれだけだった。
「そうだな……俺とあの子は、ゼミが別れてから会う機会も減っていって、四年の頃にはほとんど喋らなくなっていた。最後に話したのは確か卒業式の時で、それからは全く会っていないし、今どうしているかもわからない。ああそうだ、結婚式の招待状が来ていたが、俺は行かなかった」
「そっか……」
しばしの沈黙の後、父さんが先に口を開いた。
「……さ、早く食べよう。料理が冷めてしまう」
「……うん」
なんとも言えない重たい空気の中、僕たちは黙々と料理を食べ進める。
温くなったハンバーグの脂が、いやにこってりと僕の舌に絡みついた。
同時に、僕の頭は一つの考察を導き出していた。
あまりにも非現実的でにわかには信じ難いが、そもそもあんな異世界が存在している時点で既にあり得ないことが起こっているわけで、それならこの考察だって何もおかしな話ではないはずだ。
その確証を得るために、僕は「ねえ、父さん」と呼びかける。
「なんだ、まだ聞きたいことがあったのか」
「その人の髪型、ポニーテールじゃなかった?」
父さんがはっと目を見開いた。
「高校の制服、赤いストライプのネクタイにグレーのスカートじゃなかった?」
「………お前、なんでそれを……」
しまった。本来なら僕が知っているはずのない情報だったのに。
「や、なんでもない……昔、父さんの卒アルを見たことがあっただけだよ」
僕は咄嗟に誤魔化す。
だが、これで結論は出た。
もしあのカメラを見つけることができたら、もう一度エリに会って、確認しなければ。
次の日も僕はカメラを探した。
すると、葛西臨海公園駅に落とし物として届けられていることがわかった。
駅員室でカメラを受け取ると、僕は一目散に海岸へ向かった。
いつものようにシャッターを切って、パシャリ、という音と浮遊感とともにあの世界へ飛ぶ。
そこには、朝の光に包まれてエリがいた。
「おはよ、少年。昨日は珍しく来なかったけど、何かあった?」
「ちょっと、カメラを失くしちゃって。そんなことより、エリに訊きたいことがあるんだけど」
「ん、何?」
エリはきょとんとした様子で首を傾げた。
「………エリは、何者なの?」
何も考えずに話を切り出したため、掴みどころのない聞き方になってしまった。
エリは一度、すっと無表情になった。いつでも表情をコロコロと変えていた彼女の、初めて見る顔だった。
「あーあ、それ聞いちゃう?」
そして、困ったような笑みを浮かべる。
「できれば話したくなかったけど、まあいっか。どうせ、多分最後だし」
──え?
「最後って、どういう、」
僕の言葉は遮られてしまった。
「私はね、本物の人じゃないんだ。強いて言うなら、『思念』みたいなものかな? 私の器は、そのカメラ。あいつがフィルムを、朝焼けの時間にここで……葛西臨海公園で捨てたの。多分、そのカメラとこの場所が反応して、こんなおかしな世界ができたんだろうね。正直、私もよくわかんないんだけど」
エリは肩をすくめてみせた。
そんなあっさり言われても、僕はすぐには飲み込めなかった。
あいつ、というのは父さんのことだろう。
ということは、思念というのは父さんのエリに対する複雑な気持ちのことだろうか。
それに……
「なあエリ、最後ってどういうことだよ」
さっき、エリは確実に「最後」と言った。何が最後なのか。最悪の想像が脳裏を駆け巡る。
「ああ、それは、誠がこの世界に来られるのが最後ってことだよ」
エリは、僕の悪い予想が当たっていることをさらっと告げた。
「なんで、なんで最後なんだよ。今まではちゃんと毎日来れてただろ」
エリは、僕の手の中のカメラを真っ直ぐ指差した。
「そのカメラ。もう寿命だから」
「……は?」
「だから。もうすぐ使えなくなっちゃうの、それ。もう三十年くらい前のだし、しばらく使われてなかったから劣化してるんだよ」
「それとこれと、なんの関係があるんだよ」
声が震える。
そんなこと、僕は尋ねなくともわかっていた。
でも、何か問い詰めていないと今にも彼女が消えてしまいそうな気がして、そんな焦燥感が僕の喉を焦がす。
「大ありだよ。そのカメラが使えなくちゃ、こちらの世界には入れないでしょ?」
「でも、修理すれば」
「フィルムカメラを修理するのに一体いくらかかると思ってるの」
「そ、れは……」
僕はもう反駁することができなかった。
「他に何か手立ては……?」
「残念だけど、私の思いつく限りないよ」
「……なんで、そんなにあっさり言えるの。エリは僕に会えなくなっても構わないのかよ」
言葉にしてしまってから、キツい言い方になったことに気づく。
「構わなくなんかないよ。でもさ、私もこの世界も、『思い出』でしかないの。思い出は、思い出すほど忘れていくものでしょ? だから私も、忘れられるべきなんだよ、きっと」
エリは自嘲の笑みを浮かべた。
「──だ」
「え?」
「嫌だ。僕は、絶対にエリのこと忘れない。だから、」
もっと一緒にいたい。
そう言おうとしたが、できなかった。
突然、いつも通りだったはずの景色が色褪せはじめたのだ。空の遠いところから順番に彩がなくなり、セピア色に変わっていく。
「な……っ!?」
僕だけでなく、エリも驚愕しているようだった。彼女は焦りを滲ませて僕を見た。
「誠、もう行って! ここにいたら危ない!」
「でもっ……、エリはどうするんだよ」
「私はこの世界から出られないからいいの。さあ早く!」
「一緒に行こう! やってみなきゃわからないじゃないか!」
僕はエリに手を伸ばすが、その手に触れるのはいつまでも空気だけだった。
その時、空中を舞っていた巨大な透明の蝶が、僕たちの間に割って入るように降りてきた。
視界が遮られ、彼女の姿が見えなくなる。
「嫌だ! 僕はエリのことが──」
次の瞬間、僕は自分の意識がブラックアウトするのを感じた。
気を失う直前、エリの声が聞こえた気がした。
──じゃあね。
あれから二年半。
僕はとある美大のデザイン学科に入った。
最初の授業の日、僕は講義室を探して学内を歩いていた。
──こっちの建物じゃなかったかな。
そう思って引き返そうとした時、肩にドンッと強めの衝撃が走る。
「わ」
自分の至近距離で女性の声が聞こえ、同時に何冊かの本が足元にバサバサと散らばった。
「あ、すみません」
僕は反射的に謝り、床に落ちた本を拾い上げる。
「こちらこそごめんなさい、完全に私の前方不注意だったわ。本、拾ってくれてありがとう」
僕が本を差し出すと、その女性はにこっと笑ってそれを受け取った。
その声を、僕はどこかで聞いたことがあるような気がした。
「もしかして君、道に迷ってる?」
「あ、はい。デザイン学科の一年生の講義って──」
「ああ! それならそこの廊下の角を右に曲がって突き当たりの教室だね」
「ありがとうございます、助かりました」
女性は「いえいえ」とにこやかに言った。
「じゃ、頑張れよ、新入生!」
僕の肩をポンと叩くと、その人は僕を追い越して行ってしまった。
その後、僕は無事講義室に到着した。
適当な席に座ってしばらく待っていると、教室の前方のドアが開き、女性が入ってきて教壇に立った。
──あ、さっきぶつかった人だ。
活発そうな雰囲気のおかげでわかりづらかったが、改めて見てみると、僕の父親と同じくらいの年齢のようだ。
ふと、僕の脳裏にある光景がよぎった。
水平線に浮かぶ朝日。
廃墟となった橋。
寄せる波に足をつける少女。
一台の、古ぼけたフィルムカメラ。
まさか。まさか。まさか。
無意識のうちに目を見開いて動揺する僕などお構いなしに、彼女は話し出した。
「少年少女よ、ようこそデザイン学科へ! 私は教授の富川絵里です。一年間よろしく!」
彼女は、ポニーテールを揺らして微笑んだ。