第三話
その日は七月初めの天気のいい日でございました。
年中無休の碁会所でしたが、今日は臨時休業の張り紙を店頭に張り、白いカーテンを閉めていました。
お客様から碁石がべたつくと苦情があり、すべての碁石を洗うことになったのでございます。この日お爺様は用事がおありで、お出かけになっていました。
裏庭に洗濯用の大きな盥を出し、洗濯板と固形石鹸で石鹸水を作り、碁会所にある碁石を全部入れて、たぶん五千個ぐらいあったと思いますが、トミさんと私とそれから書生の田川君が手で揉んで碁石を洗いました。私の小さい手では大した数の碁石はつかめず、お手伝いにあまりなっていないようでございましたが、石を揉んで洗っていると碁石が指をすり抜けて、白く濁った石鹸水の中から生き物のように飛び出して来て、私たちを驚かせ、みんな声を上げて笑い合いました。
洗い終わると、今度はすすぎです。トミさんは慣れた手つきで盥を傾けて、汚れた石鹸水を捨て、流れ出る碁石を田川君がザルで受けました。
きれいな水を盥に張り、碁石を全部入れました。盥の底に沈んだ白と黒の碁石は、まだらに重なり合いとても綺麗で、私はその中で行水をしたくなったのでございます。
まだ行水をするほど暑い日でもなかったのですが、私はお爺様が不在なのを良いことに、トミさんにお願いしました。トミさんはちょっと考えていましたが「しょうがないわねぇ」と言って許してくれました。
私は服を脱ぎパンツ一枚になり盥に座り込みました。水はそれほど冷たくはなく、碁石を掬おうとすると、ジャラジャラと小気味よい音を立てて逃げ回ります。
すると田川君が「寝てごらん、碁石を体にかけてあげるよ」と言いました。私は何と面白い遊びだろうと感心し、水は半分ほどしか入っていなかったので、顔だけ出して盥に寝そべりました。
田川君は、いたずらっぽい目で碁石を掬い私の体にふりかけ始めました。私も自分でふりかけてみましたが、体が動くと石は滑り落ちてしまうのです。私は体をじっと固くして「もっとやって」とせがみました。するとトミさんも面白がって一緒になって私に石をふりかけました、浜辺の砂遊びのように。
こうしてじっとして居ると、碁石は水よりも冷たくひんやりしていて、氷が指に張り付くように、私の柔らかい肌に碁石が吸い付いたように感じました。そして、あらかた碁石で覆われた自分の体を眺めているうちに、私は不思議な感覚に陥ったのでございます。
私の体にびっしりと張り付いた碁石が私を守ってくれるような感覚、固い鎧を身につけたような、それは、アキレスが冥界に流れる川の水につかり、強靭な肉体を手に入れて無敵になったような、芳一が体中をお経で埋めて幽霊を追い払う霊力を得たような不思議な感覚でした。
私の体は力がみなぎり、はち切れんばかりでした。見るもの全てがくっきりと精細に見えだし、私の思考速度は加速して、周りの時間がゆっくりと過ぎてゆくようです。すべての形、すべての動きが、私には手に取るように把握できました。
誰にも止められない、誰にも傷つけられない金剛力を授かったのでしょうか。
その時私は、せねばならない、やるべき事に気が付いたのでございます。今なら、きっと出来るに違いないと。
私は内を蝕む厄災、お母様を苦しめるあの病魔を退散させようと、手にした碁石に念を込めて、飲み込んだのでございます。ざわめきが聞こえましたが、私は臆せず更に碁石を飲み込みました。すると喉の奥から熱いものが飛び出して来て、むせて咳き込んでしまったのでございます。咳をすると、体の碁石がハラハラと剥がれ落ちました。あわてて口を押えましたが、誰かの手が私の手を払いのけ喉の奥まで指を差し入れてきました。苦しくて更に咳き込むと体の碁石は弾かれるように全て剥がれ落ち、私はそのまま気を失ってしまったのでございます。