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結論的に言えば、母は、やはり、死んでいた。父が発見したときには、既に硬くなりかけていたのだ。常に冷静な口調で、斜に構え、嫌味や皮肉を言うことを生き甲斐にしているのではないかと思えるほど感じの悪い父が、珍しく動転して電話をかけてきたので、こちらから連絡する手間が省けた。
僕は泣いた。母を思って泣いた。しかし、あたふたする父が可笑しかった。受話器を持つ僕の顔は、恐らく笑っていたはずだ。夢の中では、まるで役に立たなかった父。電話口でも、やはり役に立っていなかったから、可笑しくて仕方がなかった。
「あり得ないですよね!」
と健成の死を笑顔で語った博美と似たようなものだ。いや、僕の場合は過去を回想して笑っているのではないから、なおさら質が悪いかもしれないが。
ともかく、動転した父の不明瞭で支離滅裂な説明を継ぎ合わせると、どうやら母は自殺をしたようだ。死亡推定時刻を知るには解剖でもするしかないだろうが、恐らくは僕が荒唐無稽な夢を見ていた朝の五時前後だろう。いったいどうやって死んだのだろうか。
僕は、夢の中で篠崎が発した、運命権という耳慣れない言葉を思い出していた。母はきっと、その運命権を行使したに違いない。しかしそれは何故だろう? 母は恐らく、布巾を使って烏賊の皮は上手く剥けると思うが、責任だの権利だのという語とは無縁で、物事を深く考えない人だった。学も無く、すぐに、
「そういう難しいことは解らない」
などと話もよく聞かないうちから耳をふさぐタイプだったから、もちろん、運命権などという小難しい単語は、最期まで思いつきもしなかっただろう。母の〈解らない〉は、
「何が正しいかなんて、誰にも分からないじゃないですか!」
と酔っ払いの戯れ言を装いながらも確固たる自信を内に秘めて放たれた、朗子の台詞とはわけが違う。母はほんとうに何も解らず、解ろうともせず、考えることすら拒否しているのだ。もし目の前で吉富が〈上履き論〉についての演説をはじめたら、両耳に人差し指を突っ込んで、殺虫剤を噴きつけられた台所のゴキブリのように逃げまどったかもしれない。常にそういう人だった。解らない解らないと泣き喚く鬱陶しいゴキブリ。
そして僕が夢の中で、母ではなく青木秀次が死んだことにした──篠崎に「死んだ」と言わせた──のは、別に彼を内心で憎んでいたからではない。むしろ、彼を三枚目から二枚目、そして一枚目の食パンへと復権させてやりたかったのだろう。
留年を繰り返す秀次を退学処分にした学校に、彼が腹を立てるのは逆恨み──あえて今風に言うなら逆ギレ──だ。学校は勉強もできず努力もしなかった秀次に恨まれる筋合いなどはなかった。とはいえ、せっかくスプーンを振り回して暴れたのに大して注目されなかった彼は、少しかわいそうだった。本来なら、床で踏みつけられる三枚目の食パンから、せめて二枚目くらいには昇格できるチャンスだった。ところが、〈あり得ない〉特攻玉砕をした健成のおかげで、秀次の天下はほんの一瞬で終わってしまい、〈スプーン男〉というキャッチフレーズを付けてもらっただけだ。車椅子で対向車と正面衝突をして死ぬような人間に、インパクトでは敵うわけがなかった。あんまりだ──僕は声を出して言った。あんまりだ。
スプーン事件に巻き込まれていた僕は、彼に冷たい言葉を放ったものの、多少は同情していたのかもしれない。だからせめて僕の夢の中では、インパクトのある終焉を迎えさせてやりたかったのだろう。もっとも、こんな後付けの解釈は誰にでもできるし、所詮は夢の話だ。真面目に論じるのは馬鹿馬鹿しい。
結局そうやって、時には面白おかしく、時にはしかつめらしい顔をして、語り合ったり演説をぶったりしながら漫然と生き続ける僕たちは、誰もが三枚目の食パンなのかもしれない。愚にもつかない曖昧な抽象論で正義を振りかざし庶民の善意を勝手に裁く吉富。自らのレゾンデートルを性的嗜好と混同して世の中と必死に戦い続ける朗子。恋人の愚行と無謀な自決を笑顔で語りながら指輪に縛られて身動きがとれない博美。幼なじみの馴れ合いと経済的優越に胡座をかいて温厚というオブラートに包まれた傲慢さを撒き散らす篠崎、由、秀次。そして、父を嘲りながらも父譲りの中途半端なシニカルさの色眼鏡を用いてしか周囲を見渡すことのできない僕。
それならば──。
それならば、運命権などという小難しい単語に興味はなくても、自分の最期を自分で決めた母のほうが、少しはマシだろう。無免許運転で両足切断の事故を起こし、勝手に特攻自決をした健成も、三枚目の食パンとして生き延びてしまった僕たちよりは、胃の中でドロドロになる資格は具えているかもしれない。嫉妬や羨望──は、あまり感じないが。
もっとも、二人とも、大して考えもせずに自殺を決行してしまったことを、今頃〈あの世〉で後悔しているかもしれない。死ぬべきじゃなかった、などと。後悔先に立たず。
それにしても〈あの世〉という場所を訪れるには、電車や車椅子というのは、果たして相応しい乗り物なのだろうか。東武伊勢崎線? 坂道を駆け下る車椅子?
それが相応しいかどうかは、僕にもよく判らなかった。
僕は悲しくなかった。
それよりも、早く、詳しいことが知りたかった。ほんとうに自殺なのか。何時頃、どうやって、どうして、死んだのか──。
そう。僕は、自分の予知夢が当たったことに、とても満足していたのだ。
そして、その予知夢が、より正確であった、という裏付けが欲しかったのだ。
今夜は、羊を数えることなく眠れそうだ。
〈完〉