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葛西に住んでいた僕は、日本橋で銀座線から東西線に乗り換える。博美は、東武伊勢崎線の終電に間に合うかどうかをしきりに気にしながら、とりあえず日比谷線に乗り換えるため銀座駅で先に降りた。僕は別れ際に、
「もし終電を逃しちゃったら、携帯に電話しなよ」
と博美に言った。ずいぶんと飲んだせいもあり、大して考えもせずに発した言葉で、電話が来たらどうするのかというのは、何も考えていなかった。そのうえ、葛西駅からマンションまでの暗い道で、間抜けなメロディの着信音が近所迷惑な大音量でGパンの尻ポケットから聞こえてきたとき、僕は博美に発した言葉を既にすっかり忘れていたのだった。
「やっぱり終電ありませんでした。竹の塚までしか行かれません。どうしましょう」
ノイズ越しの博美の声は、ひどく心細いものに聞こえた。実際は、電車の中からなので、周囲に配慮して小声で話しているだけだったのだろう。
僕は、うーん、と言いながら数秒の間に、さっき、電話しなよなどと言ったことを思い出し、そして後悔した。面倒くさい。しかし何らかの解決策を提案しなければならない。
結局、今からクルマで迎えに行くから、竹の塚駅で待つようにと伝えて、電話を切った。
飲酒運転で警察に捕まるのも事故を起こすのもごめんだ。僕はつくづく後悔した。何故、電話しなよなどと言ったのか。何故、タクシーでも拾って帰れと言わなかったのか。ほんとうに、つくづく後悔した。生きた女の乳の存在も忘れて、つくづく後悔した。
ガムを噛み、ペットボトルのジャスミン茶を飲み、雨にもかかわらず窓を開けて、僕は新車で買ったばかりのオペルを走らせた。少しでも酔いが醒めるように、少しでも酒気が車内にこもらないように、無駄な気遣いだとは思いながらも、やらないよりはマシだろうと自分に言い聞かせた。
電話で竹の塚という駅名を久しぶりに聞いて、高校時代に付き合っていた千穂のことを思い出していた。僕は、酔って終電を逃してしまった博美を迎えに行くためではなく、千穂に会いに行くためにハンドルを握っているような錯覚に陥った。環状七号線から日光街道へ右折する頃には、酔いはすっかり醒めていたが、これから千穂に会えるのだという錯覚は、事実をしっかりと理解しながらも、なかなか脳裡から消え去ってくれなかった。生まれて初めてのセックスが上手くいかず、千穂と二人で途方に暮れた高校二年の春休みを思い出した。最終的に目的を果たすことはできたのだが、長い時間、全裸で過ごしたため、翌日には二人とも風邪を引いてしまったのだった。
竹の塚駅のロータリーにぽつんと立っていたのは、当然、千穂ではなく博美だった。小柄で目尻の下がった千穂の姿を思い描いていた僕は、背が高くて〈やたらと乳の大きい〉博美が佇んでいるのを見つけると、ようやく現実に戻ることができた。しかし、甘い追憶の幕切れが博美のせいのような気がして、彼女が助手席に座ると、僕は八つ当たり気味に、
「このクルマ、先週納車したばかりでね。最初に助手席に乗せるのは、好きな女の子にしようと思ってたんだけどね」
などと言ってしまった。自分から電話しろだの迎えに行くだの言っておきながら、こんな嫌味を彼女にぶつけるのは理不尽だったが、しゃべりはじめると止まらなくなって、
「せめて、彼氏のいない女の子だったら、少しは楽しいドライブになるんだけど」
と余計な一言まで付け加えてしまった。博美は、ごめんなさい、とほんとうに申し訳なさそうに謝った後、
「でも、どうして彼氏がいるって知ってるんですか?」
と僕に訊いた。
「その左手の薬指。ずいぶん年季が入ってるみたいだから、長続きしてるんだろうね」
気まずくならないで会話が続けられたことを内心で博美に感謝しながら僕が言うと、
「ああ、これ──」
と彼女は左手を自分の目の前に広げながら、長いと言えば長いかもしれません、と独り言のようにつぶやき、俯いた。
あまり話したくない、という意思表示のようにも見えたので、僕は博美に自宅までの道順を訊くと、黙ってクルマを発進させた。
「彼、実は死んじゃったんですよねー」
走り出すとすぐ、博美は口を開いた。
「え?」
僕は驚き、次の言葉が出てこなかった。どういうことなのか、詳しく聞きたいような気もするが、竹の塚から八潮までの十数分で終わるような話だとも思えない。しかし、僕の逡巡をよそに、彼女は簡潔に、業務報告をするような淡々とした調子で語りはじめた。
「自殺したんです、三年前。無免許でバイクを運転してて、ガードレールにぶつかって、手術で両足切断して──その半年後、何もかもめんどくさくなったって」
「それで、自殺?」
「はい。馬鹿なことやって、大怪我して、勝手に死んだ。どうしようもないです、彼」
博美は笑った。そして彼の大げさすぎる自殺の経緯を、何故か楽しそうに語った。
「彼、あたしの目の前で死んだんですよ。ウチの大学から渋谷に歩いていくと、駅の手前に急な下り坂があるじゃないですか。あそこで、車道を勢いよく車椅子で走り下りて、坂を上ってくる対向車に正面衝突して死んだんです。あり得ないですよねー」
思わず僕も笑った。〈あり得ない〉なんて、流行りの言い回しで軽妙に語られては、笑うしかなかった。テレビのバラエティ番組で、ゲストのアイドル歌手が面白くもない話をする。司会のお笑いタレントが大げさなツッコミを入れる。話したとおりの文字が、大きく画面に踊る。まるでそんな調子で、博美は恋人の死を語った。僕にしてみれば、そんな軽妙さ自体が、あり得ないよ、とツッコミを入れたくなるような不自然さだったが、悲しみをごまかすため、という感じでもなかったので、ここは笑う場面だったのだろう。
「彼、タケナリっていう名前でした。〈健やかに、成長する〉って書いて、健成。彼にも、彼のご両親にも悪いけど、なんか可笑しくないですか? 全然、健やかじゃないし、成長もしないんですよ、もう──」
博美の乾いた笑いが涙声に変わり、言葉が途切れた。僕は何も言えなかった。
その事故──性質としては〈事件〉と言うべきかもしれない──は、どの新聞にも大きな見出しが踊ったからよく憶えていた。実はその年、もうひとつ〈若者による怪事件〉が起こり、舞台は両方とも渋谷だったし、もうひとつのほうは、僕も関わっていたのだ。
〈やたらと乳の大きい〉博美の恋人である健成の、特攻隊ばりに派手な〈あり得ない〉自殺の二ヶ月ほど前のことだ。僕が珍しく出席していた人格心理学の講義の最中、教室に男が乱入して、手に持った銀色に光る〈何か〉を振り回し、わけの分からない叫び声を上げながら暴れ回った。ちょうどその頃、渋谷では刃物男による通り魔事件が話題になっていたせいもあり、女子学生の多くが悲鳴を上げながら教室の出口に殺到し、ちょっとした混乱になった。偉そうに講義をしていた老教授は、大口を開けた間抜け面で教壇に立ちすくみ、人格心理学という学問が、現実に対しては無力な〈机上の空論〉であるという証明をしていた。机上の空論。ありていに言えば、意味がない、役に立たない、ということだ。
僕は、かつて一世を風靡した、ザ・ドリフターズのコメディ番組を思い出していた。冒頭のコントの落ちで〈ドリフ見習い〉というテロップとともに若い芸人がブルース・リーのような雄叫びを上げながら登場し、ステージを駆け回り、何もかもがめちゃめちゃになる、あのシーンに似ている気がした。あの〈ドリフ見習い〉を志村けんだったと勘違いしている人が多いが、それは違う。彼はすわしんじだ。面白くもない名前。すわしんじ。
しかし、のんびりとドリフターズを回想している場合ではなかった。乱入男は、こともあろうに高校時代の同級生だった。僕は、こんなところで〈正義の味方〉を演じなければならないことにうんざりしながら仕方なく立ち上がり、彼の許へ歩み寄った。男の手首を背後から掴み、銀色の〈何か〉の動きを止め、耳元で声をかけた。
「秀、久しぶりだな。憶えてるか」
「あ?」
驚いた表情で振り向いた青木秀次は、数年前と同じ、色白でぶよぶよとした顔だった。
「前川……前川朔か?」
「ああそうだ。憶えていてくれたか。でもお前、なにやってんだ」
「俺はこの学校が嫌いなんだ。幼稚園からずっと通ってたのに、高校を卒業させてくれなかった。大学にも上がれなかった」
「それはお前の頭が悪いからだろう? 金持ちのぼんぼんの、ただの甘えじゃないか」
「黙れ。お前に何が解る」
「解らないし、解りたくもないね。意味のない行動をする人間は、軽蔑するだけだよ」
僕は別にそんなことは思っていなかったが、無駄な言い争いを続けるのは、思ってもいないことを言うよりも面倒くさかった。そして、周囲の男子学生や騒ぎを聞きつけて教室にやってきた大学の職員が〈色白でぶよぶよとした顔の〉秀次を取り押さえてくれたので、僕はその場を彼らに任せて席に戻り、ノートを鞄に突っ込んで教室を出た。どうせ今日の講義はもう終わりだろう。もはや人格心理学は机上の空論なのだ。ところで、ザ・ドリフターズのコメディ番組では〈見習い〉乱入の後は女性アイドルが下手な歌を披露すると決まっていたが、秀次が去った人格心理学の教室には、そんな演出はもちろんなかった。
その後数日は、状況説明を求める学生課や警察から何度も呼び出しを受け、結局、僕は面倒な時間を過ごさねばならなかった。
騒ぎの最中には気が付かなかったのだが、秀次が振り回していた銀色の〈何か〉は、カレーライスなどを食べるときに使う大きめのスプーンであったことを、翌日の新聞で知った。校舎の地下にある学生食堂から持ち出したらしい。〈スプーン男、大学で乱闘〉〈退学処分を逆恨みか?〉などと興味本位な見出しが並び、〈色白でぶよぶよとした顔の〉青木秀次は、一夜のうちに有名人になってしまった。〈スプーン男〉という、彼にとって全く有り難くもないキャッチフレーズの流行とともに、先割れスプーンを振り回しながら乱闘を模倣する小学生なども現れて、給食が一時的に取りやめになった学校まであった。事態の成り行きのあまりの馬鹿馬鹿しさに、僕は生きる気力がおよそ二年五カ月分くらい減退するのを実感せざるを得なかった。スプーン男。あんまりだ──僕は声に出して言った。
僕は、渋谷と表参道の間にあるミッション系の一貫校に高校受験を経て入学し、幼稚園からエスカレーターを上がってきた〈色白でぶよぶよとした顔の〉秀次と同じクラスになった──彼は成績が悪くて留年したため、その後の交流はなくなってしまったが。
〈色白でぶよぶよとした顔の〉秀次の家は、学校の目の前で酒屋を営んでいた。渋谷から皇居へ向かう国道沿いの一等地に七階建ての自社ビルを構え、一階が酒屋、二階から五階までをテナントとして貸し、六階と七階を自宅として使っていた。大通りを横断するだけの通学で、歩いて二分とかからないはずだが、彼はいつも遅刻をしていた。
僕と秀次は、勉強を真面目にやらない者同士ということで、多少は話が合った。もっとも、僕はどちらかというと教師に対して反抗的で、授業中の教室で喫煙をするなど傍目にも解りやすい非行を当時は好んだのだが、秀次は単に〈出来の悪いお坊ちゃん〉で、外界に対する悪意や敵意は特に感じられなかった。彼との交流が長続きしなかったのは、そういうタイプの違いも原因だったかもしれない。
解りやすい非行少年と、出来の悪いお坊ちゃん──馬鹿馬鹿しい取り合わせだ。
ある日、当時熱心に聴いていた人気ニューミュージックバンドのメンバーの一人と、知り合いのつてで会えることになり、同じくそのバンドのファンであった友人を誘い、渋谷駅を挟んで学校と反対側に位置するスタジオに行くことになった。池尻大橋という駅のそばで、表参道寄りにある学校から歩いて行くには少々遠かった。しかし、都心の私立高校に無理して入学した庶民の家庭の息子であるがために貧乏だった僕たちは、一円でも節約したく、定期券が使える範囲の外に電車で行くのはどうしても避けたかった。そこで放課後、秀次の家で自転車を借りることにしたのだ。
自転車は一台しかなかったので、二人乗りで人通りの多い渋谷駅周辺を走り抜けた。今思えば、旧式の自転車に野暮ったい少年が二人乗りをして、空気が抜けてつぶれかけたタイヤを軋ませながら繁華街を走る様は、さぞかし見苦しい光景だっただろう。
そうやって世話になって以降、学校の近所であるのをいいことに、放課後の溜まり場として、秀次の家を訪ねるようになった。しかし彼は場所を提供するだけで、一緒になって馬鹿騒ぎをすることはなかった。都合の良い溜まり場の大人しい提供者だった。
そんな〈色白でぶよぶよとした顔の〉秀次がスプーンを振り回して大学の教室に乱入するという茶番劇の主役を演じた年に、博美の恋人である健成が、特攻隊ばりに派手な〈あり得ない〉自殺をしたのだ。忘れるはずがない。あまりに馬鹿げている。あり得ないよ!
博美が大学に入ったのは健成が死んだ後のことだ。志望校を選んで受験に備える、という常識的な流れから考えると、恋人の死の直後に、彼の死に場所からほど近い大学を受験すると決めたことになる。僕には、そんな博美の心情が理解できなかったが、それを問いただす時間はなかった。そろそろ彼女の家が近くなり、入り組んだ住宅街の路地で、博美は僕に右左折の指示をしなければならなかったからだ。もう涙声ではなかった。
シートベルトを外すための赤いボタンに触れた彼女の左手には、薬指のリングが見当たらなかった。怪訝そうな僕の視線に気づくと、
「気が利かなくてすいませんでした」
と言い、微笑んだ。
「何が?」
「彼氏がいない女の子だったら、前川さんも、ドライブが楽しめたのに。指輪、最初から外しておけば良かったですよね」
「あ、いや、なんか、話したくないことを話させちゃったみたいで、ごめん」
博美の大人びた気遣いに戸惑いながら、僕は、それだけ言うのがせいいっぱいだった。
「ありがとうございました。助かりました」
小雨に濡れながら手を振ってくれている博美をバックミラー越しに見やりながら、彼女のバランスを欠いた対人感覚に、僕はひどく混乱していた。死んじゃったんですよ、あり得ないですよね、と話す笑顔。タケナリという名前と死の不条理に抗議する涙声。
千穂のことなど、もうすっかり忘れていた。