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初恋

つぎに会うときは

作者: 白木心露

 燦々と降り注ぐ真夏の日差し。夏休みに突入してもう二週間、雨が降ったのはたったの一日だけ。それも夕立で一時間くらい降った程度だ。

 そして今日も気温は30度を優に超えている。数字だけですでに暑いのに、蝉の大合唱がそれに拍車をかけるから、体感温度は40度くらいなんじゃないだろうか。

 そんな炎天下の中、少し大きめのバッグを背負いひたすら自転車を走らせる。

 行き先は学校のプールだ。


「鬼あちぃーが!」


 いまさらどうにもならない嘆き。それでも声に出さないと仕方がないくらいの暑い。いくら自転車で走っているとはいえこの猛暑だ。どれだけ風を切ったと体に吹きつけるのは熱風でしかなく、気休めにすらならない。

 ただ、この地獄を潜り抜ければ極楽のプールが待っている。そのことを思えば自然と自転車を漕ぐスピードは上がっていく。

 夏休み本場の8月上旬。この頃の平日はラジオ体操をして朝ご飯を食べると、その後は小学校のプールに直行するというのが日課だった。

 親は仕事に行って家には誰もいないからすることがないし、そもそもエアコンが壊れているからとにかく暑い。

 プールにさえ行ってしまえば時間も潰せてしばらくは暑さから解放されるから一石二鳥だ。まぁ、遊び疲れて帰りに再び地獄を見ることになるけれど、それを差し引いても十二分に行く価値はある。

 自転車を走らせること数十分。ようやく小学校の校舎が見えてきた。ゴールを目前にして僕はさらにペダルを強く踏みしめるのだった。


「あーもぉ、ガチしんどいって‼」


 やっとのことで駐輪場までたどり着くと、あんまりの体力の消耗具合に思わず大声をあげる。それこそ、熱血コーチに徹底的に追い込まれたアスリートのような感じだ。

 上がりきった呼吸を整え、バッグから1リットルの水筒を取り出すと、何も考えず蓋を開けて一気飲み。水筒の中で氷がカランと音を立てて飲み口のところに引っかかる。キンキンに冷えた麦茶がその隙間をすり抜け口内、そして喉を潤しながら胃に注がれていく。この感覚がたまらなくいい。


「うまっ!」


「すでにTシャツはびちゃびちゃじゃーし、ビールの宣伝みたいな声は出しとるし、もープールに入ってきたんか裕二(ゆうじ)?」


 不意にお茶がおいしくなくなるような声がして振り返ると、同級生の井上(いのうえ)が少し呆れ気味の笑みを浮かべていた。

 それにしても開口一番に中々ひどい言い草。


「どーせ家が近場の井上にはわからんて。このクッソ暑い中チャリをぶっ飛ばしてきたしんどさなんて」


「いやぁ、わかりたいとは思わんからええわ」


「コンニャロー」


「ごめん、ごめん。そう怒んなって」


 水筒の蓋を閉めながら言い返すも簡単にかわされてしまった。

 井上とはいつもこんな調子だ。どんなに口で言い合ったって勝てやしない。


「そうそう、そういえば裕二。今日の降水確率70%になっとるけど、カッパは持って来とんか?」


「ガチ?」


 井上にそう言われてハッと西の空を眺める。山の向こう側に浮かぶ大きな入道雲。確かにこれは一雨来そうだ。

 これはうかつだったな。このところ全くと言っていいほど雨が降らなかったから完全に油断していた。

 そうは言ってもこの雲の動きだと、雨が降るのは夕方くらいになるだろう。だったら少し早めに切り上げて帰れば何とか雨に遭遇しなくて済むかな。

 プールを少しでも長く満喫したいがためにそんな予測を立てたのだけど、どうやらその予測は短絡的な発想だったみたいだ。プールに入る頃にはまだ西の彼方にあった入道雲は二時間もしないうちに活発な雨雲へと発達。そして突然の大雨をもたらしたのだった。

 当然、プールも強制終了。傘や合羽といった雨具を持っていなかった僕は、学校の下足室で雨宿りをする羽目になった。


「井上ぇ、今何時?」


 雨が降り始めてから一時間くらいが経ったくらいだろうか。僕は井上に時間を尋ねる。


「1時半くらい……」


「ふーん……なんか全然止みそうにねぇのがええが」


 一向に止む気配を見せない雨。雨宿りを始めた頃には小さかった水溜まりがかなり大きくなった気がする。


「どーする?」


「俺は傘を持っとるけぇ問題ねーけど、それじゃあ裕二が一人になるじゃろ?」


「まぁ、そーなんじゃけどさ……」


 どうやら僕に気を遣って一緒に雨宿りをしてくれているみたいだ。

 それでも井上は家が近くだし、僕とは帰る方面が違う。雨で足止めを食らっているとはいえ、どうせ帰るときは一人になるし、井上がいないと嫌だと喚くほど僕もガキじゃない。


「先帰ってもええよ」


 これ以上待たせるのもなんだか悪い気がしたから、少し雨が弱まってきたタイミングで先に帰るよう促す。


「裕二はええんか?」


「別にええって」


 訊き返す井上に短いく言い切ると彼はそれ以上何も訊かずに、


「そっか。じゃあ、お先にぃ……」


 と軽く残して帰っていった。


「そうは言ったもののどーしよっかなぁ」


 弱まったと言ってもまだ合羽も着ずに雨の中を自転車で帰るにはまだ少し雨が強いように思う。


「はぁ……」


 自分以外誰も居ない下足室に響き渡るひと際大きなため息。

 いったい何時になったら帰れるんだか。

 ポツン、ポツンと屋根の端っこから落ちる雨水の雫を一滴ずつ数えながら時間を潰し、それにも飽きると今度は雨に煙る遠くの山をぼんやりと眺めていた。

 それでもいい加減時間も時間だし、そろぼち帰ろうか。

 そう思った僕は小走りで駐輪場まで行き、自転車の鍵を回す。

 ガチャッと音がして自転車のロックが解除されたちょうどそのとき、女の子の声がした。


「あのぉ、もしよかったら傘……使う?」


「えっ!?」


 振り向くと右手に大きなビニール傘を持った女の子がもう片方の手で折り畳み傘を差しだしながら立っていた。

 あんまりに唐突だったからどういう反応をするべきか困った。たぶん今の僕の表情を例えるなら、豆鉄砲で撃たれた鳩のような顔というのが一番ぴったりだと思う。


「えっと……いいの?」


 よくわからないまま、とりあえず借りてもいいのかと尋ねるとその子は無言で頷く。


「また雨が降ったら返してね。校門のところで待っているから」


「……アリガト」


 その子が去り際に放った一言。それはとても意味深で僕の心の中に留まった。

 雨の向こうへと進んで行く彼女の姿が見えなくなるまで、ただ茫然と眺めているだけだった。


 長谷川初季(はせがわうぶき)――――借りた折り畳み傘の柄の部分にはそうプリントアウトされたシールが貼ってあった。

 確か同級生にそんな名前の子がいたっけ。何回かクラスが一緒になったこともあるけど、いつも本か窓の外ばかりを眺めていてほとんど接点なんてなかった。だからただ単に『珍しい名前の子がいるな』くらいにしか思っていなかったし、まさかこんなところで傘を借りることになるなんて考えもしなかった。

 それにしてもかわいい花柄の傘……。どうせならさっきのビニール傘でもよかったのに。

 帰り道、折り畳み傘の模様を見て純粋にそう思った。

 人から借りたものにケチをつけるのはさすがによくないと思うけど、それでもちょっとピンクの花柄は……。

 あまりこの傘を差しているところを他の人に見られたくなかったから、少し自転車を押すペースを上げて帰路を急ぐ。


 傘を借りてから一週間。再び空は絶好調で雨は降らず、とうとうプール解放も最後日も迎えた。

 あれから一応あの傘を持ってきてはいるのだけど、約束の雨が降らないから返しようがない。


「裕二、今日は入らんのんか?」


 プールサイドのベンチに座ってボーっとしていると、井上がプールから上がってきた。


「今日って雨降るか?」


「あっ?」


 僕の問いかけに井上は目を丸くする。

 無理もない。学生が夏休みに雨を期待するような理由なんてまずないから。


「ホラ、この前みてーに雨降ったらかなわんじゃろ?」


「今日は雨降らないっていってたと思うけどな」


「そっかぁ」


 井上の返答に僕は声のトーンが少し下がる。


「そんなに雨が降って欲しかったんか?」


「いやぁ、別にぃ」


「変な奴」


 適当なことを言ってごまかすが、内心では降って欲しかった。なんたって雨が降らないことには初季に傘を返せない。それに――――。

 まぁ、降水確率が0%だったとしてもあくまで天気予報は予報であって決定事項ではない。もしかしたら、ってとこもある。だからここはそれに期待するしかない。

 そうやってまた変な期待をしたんだけど、結局雨は降らなかった。このところ気象現象に裏切られっぱなしだ。日照雨(そばえ)でもいいから降ればよかったのに。

 降らなかった以上、その日はあきらめて帰るしかなかった。

 あの約束は約束じゃなかったのかな。次の雨が降ったときなんていくらなんでもアバウトすぎるし、完全に遊ばれてただろうか。


 それから二日後のお盆初日。この日は朝からよく雨が降っていた。

 天井からは雨が瓦を叩く音が聞こえ、玄関先では雨どいから勢いよく雨水が流れ落ちている。待ちに待った長雨だ。


 〝また雨が降ったら返してね″


 確かにあのときあの子は、初季はこう言っていた。

 ただ、本当に来るなんて確証も無いし、行ったところで待ちぼうけをくらうだけかもしれない。こんな雨の中、学校の前で待ち続けるなんて馬鹿みたいだ。それでも来たら嬉しいなって期待を持って学校に行ってみることにした。

 ザーッと降りしきる雨の中、カッパを羽織って三十分ほどの山道を自転車で走る。家から国道沿いの自転車道に出るまではしばらく舗装されていない道が続くため、小さな石に乗り上げたり、小さなへこみを通過するだけで自転車全体がガタガタと揺れ、前かごに入れている借り物の折り畳み傘が飛び跳ねる。


「あっぶね」


 ひと際大きく飛び上がったのを落とさないように片手で抑えながら先を急ぐ。

 未舗装路を抜けて自転車道に出たとき、雨が一段と強くなった。


 (やっぱり来ないだろう。今日はもう帰るべきだ)


 心の中の天使が僕にそうささやく。

 全く、天使っていうのは自分にとって都合のいいことしか言わない。天使がそんな調子だから何度も帰ろうかと考える。でもその都度、『初季が待ってるかもしれない』って思うと行かずにはいられなかった。

 僕自身、なんでこんな約束に固執してたのかはわからない。でも、もしかしたら相手が女の子だからそれで少し浮かれてたのかもしれない。仮に傘を借りた相手が井上だったとしたら多分ここまでしようとは思わなかっただろう。

 学校の正門へと通じる細い坂道をのぼっていると、正門のところに人影が見えた。

 ひょっとして……?

 少しペダルを漕ぐスピードを早めた。近づくにつれてだんだんその人影はハッキリとしてくる。この前と同じビニール傘、そこから透けて見える三つ編み。間違いない初季だ。


「長谷川!」


 僕が自転車越しに名前を呼ぶと、その子もハッとこちらを振り返る。


稲水(いなみず)くん。やっぱり来てくれたんじゃあ」


「そりゃあ、約束を破るんは人間的にどうか思うし」


 僕ははにかみながらそう言った。

 あぁ、異性と話すのってこんなに緊張するものなんだな。今まで何気なく話してきたけど、なんかすごくどぎまぎして言葉がうまく出てこないや。


「そうだよね。でも、本当に雨の日に来てくれるなんて思わんかった」


 初季は初季で少し恥ずかしそうな笑みを浮かべながらそう言う。


「傘ありがとう。でーれー助かったわ」


「お役に立てたんなら何よりじゃぁ」


 僕は初季から少し視線を逸らしながらナイロン袋で包んだ傘を渡すと、彼女はさっきの恥ずかしそうな笑顔から一変して満面の笑みでそう返してくる。

 意外だ。さっきの笑顔でもそうだけど、時々見かける初季はどこか遠くを眺めていて、名前くらいしか印象に残らないくらい地味な子だとしか思っていなかったのに、こんな笑顔を見せることだってあるんだな。

 ダメだ、もう直視できない。なんで傘を渡すだけでこんなに緊張するんだよ。


「それじゃーけど、どうして俺に傘を貸そう思ったん?」


 雨の日に返しに来てという意味深な約束もそうだけど、そもそもどうして僕に傘を貸してくれたんだろうか。そこが一番気になってた。


「なんか、単純に困っとるんじゃないかなぁ思ーて」


「じゃ、じゃあ、雨の日ってのは?」


「それも気まぐれ。なんとなく雨の日の約束ってロマンチックじゃない?」


 本当にそれだけの理由なんだろうか。もっと別の理由があったんじゃないだろうか。でも、仮にそうだったとしても訊いたところで話をはぐらかされるのは目に見えていたからそれ以上そのことについては訊かなかった。


 それからしばらく世間話をして、話題が尽きたころにお開きにした。つぎは新学期に会う約束をして。

 不思議な子だな。長谷川初季って。ただの引っ込み思案だとか人見知りとはちょっと違う気がする。なんかこう、独特の世界観みたいなのがあるんだろう。


 小学五年生の夏、雨の日の出会い。この突然の出会いが一生の宝になるのか、それとも――――。


           ◇    ◇    ◇


 あのバケツをひっくり返したような雨が降っていたあの昼下がり、僕は初季と出会った。

 本当に人の縁ってどこで繋がるか全くわからない。それまで、彼女とは全くと言っていいほど接点が無く、同じ学校に通っていながらまるで違う学校に通っているかのような距離感があった。にも関わらず、あの出会いからあと一ヶ月でちょうど二年になる。

 あれ以来急接近した僕と初季はしょうもないことから大切なことまで、ことあるごとに約束を交わしていた。


 終礼の後、学級日誌を仕上げていると初季がニコニコしながらやってきた。


「ねぇ、稲水くん」


「どしたん?」


「今度さ、部活終わりにでも星を見に行かん? 天の川って今頃がちょうど見ごろなんじゃって」


「ん~、そーなぁ。明日は部活が早終わりじゃけぇ、それでもよかったら」


「うん。わかった。じゃあ明日。約束じゃけんね!」


 即決で約束を取り決めると、初季は嬉しそうに教室を出ていった。


「にしても裕二、いつの間に長谷川なんかと仲良くなっとったんなぁ?」


 初季が出ていってすぐ、後ろの席で待機していた井上が話しかけてくる。


「じゃーから五年の夏休みじゃってゆーとるじゃろ」


「羨ましいのぉ」


「別に付き合っとるわけじゃないけん」


「ほーん」


 井上とも相変わらずこんな調子だ。すぐにちょっかい出してくる。

 正直言って今の日常にもう満足しきっている。こんな日常がずっと続くんだって、信じて疑ってなかった。



「裕二、来月から東京に行くことになったけん」


「は?」


 夏休み一週間前の金曜日、突然父さんにそう告げられたときは頭が真っ白になった。父さんがいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。いや、理解できなかったというよりは脳がその言葉を受け止めることを拒否していたのかもしれない。


「なんで急に東京なん?」


「しょーがねーじゃろ。転勤命じられてしもーたんじゃから」


 受け入れたくない運命。どうしようもない現実。どうして神様はいつもそうなんだろうか。人が順調に進んでいるときに限ってそれをぶち壊そうとする。本当にイタズラ好きの迷惑極まりない人だ。


「むこうの中学校にはもう手続したけん。来週中に友達にサヨナラを言うんで」


「……」


 そのとき父さんの言っているサヨナラがとても残酷に聞こえた。

 僕は友達になんて言えばいいんだろう。井上や初季に僕、なんて言えばいいんだ。


 その日の夜、転校の話ばかりが頭を過って全く眠れなかった。眠れなかったから何度もサヨナラを言うシミュレーションをした。井上へのシミュレーションを50回、初季へのシミュレーションを100回。井上は辛うじて言えたけれどやっぱり初季にだけはどうしても言える気がしなかった。


 そして踏ん切りがつかないまま最後の一週間が始まる。


「稲水くんどしたん? なんか顔色が悪いで」


 早速初季に異変を感じ取られてしまった。


「え、あ、そう? ちょっと寝不足じゃったけん、たぶんそれじゃーて」


 せっかく初季の方から訊いてくれたのに僕は適当なことを言ってごまかす。本当に何を考えてるんだか。自分で言うのが苦しいなら訊かれたときに言うしかないってのにみすみす自分からそのチャンスを潰してる。


「そうなん? まぁ、あんま無理したらおえんで」


 初季はなんか腑に落ちない顔をしながらもそれ以上深くは訊いてこなかった。


 ごまかしごまかしで完全に言うタイミングを見失ってしまい、気がつけば木曜日。あと二日で言わなきゃいけないと思うと随分と追い詰められた感がしてなおさらブルーな気持ちになってしまう。


「なぁ裕二、トイレ行こうで」


「おっけー」


 二限目が終わってすぐ、井上がトイレに行こうと誘ってくる。僕はいつものようにふるまいながら彼の背中についていった。


「裕二お前、なんか隠しとるじゃろ?」


 やっぱり井上も感づいていたみたいだ。

 用を足していると、何の前触れもなく尋ねられた。


「やっぱ、井上はごまかせれんなぁ……。俺、二学期から転校するんじゃあ……」


 シミュレーションでは散々笑顔で言う練習をしたのに、全然笑顔でも何でもない。手洗い場の鏡に映る僕の顔はこの世の終わりみたいな顔していた。


「ははーん。なるほど」


 井上の反応は思ったのと違って随分と落ち着いていた。これじゃシミュレーションと全く逆じゃないか。


「そりゃあ、しんどいな。でも死ぬわけじゃねんじゃけぇ、またどっかで会えるがな!」


 ポン、ポンと肩を叩きながらそう言う井上の声が優しすぎて思わず目尻が熱くなる。


「泣くなって。お前、男じゃろーが。しんどいじゃろうけど、長谷川にもちゃんと言っとくんで」


 井上にそう言われてようやく伝える気持ちになれた。


「稲水くん、話しってどしたん?」


 まだ何も知らない初季の顔を見るとやっぱり言うのをやめようかさえ思う。でもここで言わなかったら僕絶対後悔するだろうから。


「俺……転校すること、に、なったんじゃ……ごめん」


 外国語を暗記して言ってるわけじゃないのに、ごくごく普通の日本語をしゃべってるのにどうしても言葉に詰まる。


「……そう。でーれー遠くへ行っちゃうんやね」


 一瞬で全部を悟ったみたいだ。あきらめともとれる言葉をもらす初季。


「ずっと一緒にどこまでも行けるって思ったんじゃけど……」


 どうすることもできないやるせなさ。僕は一体どうすればよかったんだろうか。こんなことになるんだったらあのとき約束をすっぽかせばよかった。


 しばらく続いた沈黙。廊下の向こうの方からは放課後を満喫している他の学生たちの無邪気な声が響く。


「ゆーて、また会えるって」


 井上に言われた言葉を今度は僕が初季に言う。

 本当は泣きたいくらい辛いけど、今は少しでも笑っていたかったから、一生懸命頬の筋肉を持ち上げて笑顔を作る。


「俺さ、長谷川のことが好きじゃったけん……つぎに会うときは結婚しよ」


「うん。約束!」


 このとき僕は人生最大の約束を交わした。いつか絶対戻ってきて必ず。そしてそのときは訊けなかったあのことも――――。


           ◇    ◇    ◇


「裕二、式はいつ挙げるんだ?」


「8月の12日だよ」


 また、暑い暑い夏がやってきた。

 今でも時々、初季や井上のことを思い出したりすることがある。

 あれからもう11年。すっかり方言も消えてしまい、あの頃も記憶も薄らいでしまった。

 東京は何もかも進むのが早くって、あの頃の何十倍も早く生きているように思う。

 初季が結婚したと風の噂で聞いたときには、少しだけ安心感を覚えた。それと同時に寂しさも感じるようになった。たぶんその正体は、あの頃に戻れないんだっていう喪失感と安心感を抱く自分に対する虚無感なんだろう。

 確かにあの頃初季とは特別仲が良かったような気がするし、それこそ恋心だって抱いていたかもしれない。でも、それにしたって結婚だなんて何だか馬鹿げた約束をしたな。最近そんな風に感じるようになった。

 あの頃は、あの人間関係が特別だと思っていたけど、東京に来たら来たで、僕自身何か変わったかと言えば別段そんなわけでもない。新天地で人間関係を再構築して、そのまま高校いって、大学いって、就職して――――相も変わらない人生をこれからも歩いていくんだと思う。

 とはいえ、結局一番訊きたかったことを訊けずじまいに終わってしまったのは心残りだ。

 でも、今彼女が幸せならそれでもよかったのかもしれない。約束は果たせなかったけど、それで僕に固執して初季の人生が狂ってしまうくらいならいっそリセットしてもらった方が僕としても楽だ。

 お互い約束を失くしてしまったこの世界で、それでも僕たちは生きていく。


 ――――ただ、もし来世(つぎ)に会えたらな……今度こそ――――


                                         《FIN》



この物語に最後までお付き合いいただきありがとうございました。

今回は自分の所属している文芸部の本に掲載した作品を修正したモノをアップロードさせていただきました。

この物語は楽しんでいただけたでしょうか?

地方が舞台ということで方言で会話文を書いたのですが、自分がわかる方言が地元の方言しかなかったので、岡山弁で書きました(本当は熊本弁で書きたかった)。

まだまだ作家としては三流以下ですが、今後とも自分の作品にお付き合いいただければ幸いです。


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