459 「殴打」
続き。
広間に入って来た男の姿はカンチャーナの記憶になかった。
彼女の基準に照らし合わせれば中々いい男ではある。
大柄な体に腰には剣。 その顔からは表情が抜け落ちており、何を考えているかは窺い知れない。
だが、カンチャーナには目の前の男の考えが手に取るように分かる。
何故なら世界中の男は自分を愛しているに決まっているから、目の前の男も自分に会いたい気持ちが抑えられずにここまで来ているのだと言う事が分かり切っていたからだ。
そう考えて彼女は小さく笑う。
なんて可愛いのだろう。 わざわざ自分に会いにここまで一人で来るなんて。
カンチャーナは嬉しくなって目の前の男に何かご褒美を与えなければと考えた。
「よく来てくださいました。 私はカンチャーナ。 皆に愛を与え、世界に愛を広げる国を作る女王にして女神」
迎え入れるように両手を広げる。
「さぁ、こちらへ。 あなたも愛を求めているのでしょう? 私が与えましょう。 蕩けるような時間をあなたに与えましょう。 そしてあなたも私と共に世界に愛を広げる為に力を貸してください」
男は何も答えずに無言でカンチャーナの下へとずかずかと歩み寄る。
それを見てカンチャーナは上機嫌に笑みを浮かべたがその表情が僅かに陰った。
理由は男の足だ。 靴を履いており、土足でここまで来たのが分かる。 その為、綺麗に清掃された床に汚い足跡が付く。
それが若干彼女の気に障ったが、思い直して表情を取り繕う。
部屋の奥にある柔らかい寝台から身を起こし、男を誘う。
男は寝台にある程度近づいた所で足を止める。
「どうしたのですか? さぁ、こちらへ」
カンチャーナは手招きするように手を差し出すが男は動かない。
内心で訝しみながらも彼女は寝台から抜け出して男へ近づく。 抜け出す直前に男が左腕を持ち上げかけたが気が付かなかった。
「さぁ――」
動かない男へとカンチャーナはしなだれかかろうとして――
「臭い」
次の瞬間、男の拳がカンチャーナの顔面に突き刺さり彼女の体が錐揉みしながら吹き飛んで、壁を突き破って外へと飛んで行った。
男――ローは小さく嘆息してカンチャーナが吹き飛ぶ際に開いた壁の穴を蹴り広げて外へと飛び出す。
彼がカンチャーナの手前で足を止めた理由は単に彼女が臭かったので、その悪臭の元に近づく事が躊躇われたからだ。 仕掛ける前にちょうど寄って来たのでこれ幸いと殴り飛ばして外に追い出した。
一瞬の浮遊感と共に落下しローは着地。 室内に比べ屋外は開けているから臭いは薄いので、不快気に顰めていた表情がやや和らぐ。
視線は地面に叩きつけられたカンチャーナへと向かっている。
彼は小さく眉を動かす。 頭を粉砕するつもりで殴ったのだがなと内心で呟きながら腰の魔剣を抜く。
「……あ、が?? なん?……で?」
起き上がろうとしているカンチャーナの脳裏には殴られた上に建物から突き落とされた際の全身打撲の痛みは勿論あるが、男に手を上げられたという事実が彼女に取って衝撃だった。
少なくとも男である以上、今の彼女に何かできる訳がないと思っていたからだ。
そもそも男が自分に逆らえること自体が天地がひっくり返る事以上にあり得ない。
目の前の男が自分に惚れていない事が、カンチャーナには欠片も理解できなかった。
思う。 だってそうでしょう? 私の愛はどんな男にも通用するしどんな男も私の愛を受け入れるようにできている筈でしょう? 私を愛さない男がいるなんてありえない。
そんな事実は間違っている。
子供の癇癪のような怒りが彼女の内からふつふつと湧き上がった。
同時に彼女の全身から立ち昇る権能の効力が増す。
「さぁ、こちらに来て私の愛を受け入れなさい」
ふらふらと立ち上がりながらそう言う。
ローは無言で左腕を一閃。
狙いは首。 不可視の百足がカンチャーナへと襲いかかる。
直撃の瞬間、カンチャーナは苦痛で膝が落ちる。
それは偶然だった。 結果、百足は彼女の頭上を通り過ぎた。
「――ひっ!?」
頭上を通り過ぎた死の気配を察した彼女は思わず悲鳴を上げる。
その瞬間に彼女は心底理解した。 目の前の存在は自分を殺そうとしていると言う事に。
「ど、どうして! どうしてぇ! なんで私の愛を受け入れないのよ! 私を愛さないのよ!」
権能を手にしたとしても元は奴隷。
操っている四方顔の剣士達の様に精神的に鍛えている訳でもなかった。
その為、彼女の精神は弱く、唐突に現れた死の恐怖の前に容易く理性を決壊させる。
「私、輝いているでしょう!? 私、可愛いでしょう!? 私、美しいでしょう!? 私、魅力的でしょう!? だから! 世界中の男は私に惚れるに決まっているでしょう!?」
ローは心底白けたといったように息を吐く。
「お前程度の顔と体の女なら世の中に掃いて捨てるほどいるし、魅力など感じない。 そもそもお前の吐く息が臭いから近づくだけで不快だ」
ローは吐き捨てるようにそう言った。
その口調は淡々としており、誇張抜きでお前は不快だと雄弁に訴えていた。
カンチャーナはそれを聞いて目の前の男が何を言っているか理解できず、思考が真っ白になる。
魅力など感じない。
お前程度の女など掃いて捨てるほどいる。
臭いから近づくだけで不快。
その言葉の意味が彼女の脳裏に浸透するまで僅かな間を要した。
ローは掃いて捨てるほどいると評したが、カンチャーナという娘は非常に美しい娘で、男の欲望をそそる体躯に容姿。
このまま歳を重ねれば匂い立つ色香を放ち数多の男を虜にしただろう。
――だが――
彼女の目の前にいる男からすればカンチャーナと言う女は鼻が曲がる程の悪臭を放つ糞か腐った汚物程度の認識でしかなかった。
ローの態度で彼の考えをカンチャーナはほぼ正確に理解した。 してしまった。
そこで彼女が抱いたのは真っ赤な怒り。 これまで理不尽に奪われ続けた人生、訪れた転機。
これからは全てが彼女の思い通りに行くはずだ。 いかなければおかしい。
全ての男が自分に惚れないのは間違っている。
その怒りこそが彼女に新たな力を与えた。
身の内にある悪魔から力が流れ込んで来るのを感じる。 同時に彼女に秘められた新たな力が目覚めた。
使い方は理解できる。 カンチャーナはローを睨みつけて新たな権能を行使。
自分を愛さない男の存在を彼女の矜持が許さない。
よってその認識を歪める。
彼女は高らかに叫んだ。 その力の名を。
「『Λοωε ις γιωεν γενεροθσλυ』!!!」
恐らく『色欲』の権能に最大級の適性を持つカンチャーナだからこそ使いこなせる能力であり、彼女の全身全霊を傾けた最大級の愛。
愛されたいと願う彼女の願いを一点に収束させた慕情の蟻地獄。
一度効果範囲内に入ればどんな男でも彼女を愛さずにはいられない男殺しの最大にして最強の権能。
その色香に絡め取られた男は愛の牢獄に囚われ――
「――え?」
不意に彼女の視界がくるくると回る。
次いで衝撃。 頬に当たる地面の感触と冷たさを感じながら唐突に起こった外界の変化に戸惑う。
何が起こったのかさっぱり理解できない。 本当に唐突に地面に倒れて――
「――っ!?」
違う。
自分の身に起こった事に気が付いて彼女は悲鳴を上げようとしたが口から出るのは微かな息だけで、音として空気を振るわせることも敵わなかった。
地面に接している視界の端に何かが見える。
それは――首のない体。 服装からそれが自分の体だと気づくのにそう時は要らなかった。
な・ん・で? ど・う・し・て?
急速に薄れて行く意識の中、彼女は問いかける。
訳が分からない。 私は皆に愛される女神じゃなかったのか?
それが間違っていない事は確信している。 だって今まで上手く行ってたじゃない。
だというのにどうして? どうしてあんな訳の分からない男が現れる?
どうして男なのに自分の愛を受け入れない。 分からない分からない。
近寄って来る足音を聞きながら彼女の疑問は着地点を見いだせず、その意識は――消え失せた。
誤字報告いつもありがとうございます。
女性の容姿に率直な感想を述べるのは主人公の嗜み。




