27 「駆除」
僕――ハイディは目の前の元婚約者を見る。
彼女はこちらに視線を向けつつも意識は戦場全体を見ているようだ。
時折、視線が僕の後ろ――彼と彼女の配下が戦っている方に向いている。
彼の事が気になるのだろうか?
そう考えると別人になってしまったという実感が胸に寂寥感を湧き上がらせる。
少なくとも僕は彼女を愛していた。
彼女は僕を愛していてくれていたのだろうか?
彼は言った。「お前は裏切られた」と。
僕は信じられなかった。
少なくともズーベルとファティマは僕の人生において最も長い時間を共に過ごした家族だ。
長い時間をかけて培った絆があると僕は信じていた。
だが、結果は見ての通りだ。
ファティマはどういう訳か僕達に攻撃を仕掛け、僕はともかく彼を傷つけようとしている。
明らかに敵対行動だ。
彼も彼女達を「敵」と認識している。
結局、僕自身もこうなる事は薄々察していたのかもしれない。
信じられないではなく、信じたくなかっただけなのだろう。
僕はこの数日間の事を思い出す。
意識が浮上した時の衝撃は忘れられなかった。
軽い体。高い声。低い身長。
そして、目の前に現れた彼。
彼――もう1人の僕自身。
僕が死んだ後、僕として蘇生したという彼。
顔つきなどは毎日鏡で見ている自分自身だったが、身体つきや内面は大きく変わっていた。
特に内面に関しては本当に僕なのか?と思えるほどの変化だった。
感情の起伏が乏しい。
ズーベル達に裏切られた事実や死んだ事さえも淡々と他人事のように語っていた。
もしかしたら、あの後に彼は語らなかった辛い事があったのではないだろうか?
変化した体格については彼は語ってはくれなかった。
僕は彼に酷い運命を強いてしまったのだろうか?
そう考えると胸が痛くなった。
最初は体格が良くなって羨ましいなんて思っていた自分を殴りたくなる。
彼はああなってしまうほどに苦労をしたのだ。
そう考えると自分自身の不甲斐無さに怒りが込み上げてくる。
だから、僕は僕にできる限りの事を彼にしようと思った。
彼は僕を遠ざけようとしている節があったが、もしかしたら僕の事を気遣っていてくれたのだろうか?
道中、何度かリリネットとして生きろと言われたが、あれも僕の事を考えてくれての事だったんだろうか?
ファティマ達の事はまだ、割り切れない。
割り切れないが、僕の所為でこの世界に放り出してしまった彼を守る。
この世界で辛い思いをさせた彼を助ける。
彼は迷惑に思うかもしれないけど僕なりに責任を取ろう。
そのために、彼の障害になるファティマを降す。
自分の気持ちは脇に置こう。
片手でククリを構えながら相手の出方を見る。
もう片方の手は開けている。
指輪を使うのに邪魔になるからだ。
前の持ち主は、この魔法破壊の指輪の他に上位の魔法道具を複数所有していた。
身体能力を大きく向上させ、徐々に傷と体力を癒す指輪。
これがあったから彼とまともに戦えていたと言っても過言ではないだろう。
最後に、魔法の詠唱を一部肩代わりしてくれる指輪。
事前に魔力と使用したい魔法のイメージを送っておけば、詠唱の際に陣のイメージを送ってくれる。
感触としては3~4割ぐらい短縮できる。
自分自身の経験と肉体の経験と知識。
その3つが今の自分の総合力を大きく引き上げてくれるのを感じる。
それだけあれば充分だ。
僕は体を脱力させて、余計な思考を閉じる。
軽く息を吐いて強く地面を蹴って前へ。
ファティマは魔法で大量の氷柱を作って飛ばしてきた。
遅いうえに狙いが甘い。
量は多いが狙いが大雑把すぎる。
僕は飛んでくる氷柱を縫うように躱しながら前へ。
ファティマは氷柱で僕を捉えられないと悟ったのか、今度は巨大な氷塊を作って落としてきた。
無駄だ。僕は指輪の能力を解放。魔法を破壊。
氷塊は何もなかったかのように消滅。
足を緩めずに更に距離を…詰めようとして横に飛ぶ。
僕のいた場所を何かが通り過ぎた。
恐らくは風系統の魔法だろう。
今度は後ろに飛ぶ。
足元から氷柱が僕を貫こうと生えてきた。
着地。今度は上から氷塊。
指輪で破壊。
氷柱の連射。不規則に走りながら回避。
風の刃。地面を転がって躱す。
ファティマの眉が吊り上がる。
今度は巨大な水の塊を作り出した。
射出。速度もそう速いものではなかったので問題なく躱せる。
だが、近づいてきたところで塊が破裂した。
水を全身に浴びる。
ファティマの口の端が笑みの形を作る。
…そうか、ファティマの狙いは…。
気が付いた時には全身が冷気を孕んだ風に呑み込まれていた。
私――ファティマ・ローゼ・ライアードは目の前の虫を駆除するために広範囲の魔法を放ちました。
魔法発動の際に巻き上がった氷の欠片や砂で視界が利きませんが、流石に死んだでしょう。
鬱陶しい虫でした。いえ、虫だからこその鬱陶しさでしょうか?
虫の死骸を確認したら、ロートフェルト様を捕らえるとしましょう。
ああ、ロートフェルト様。
もう少しで愛しいあの方が私だけの物に…。
初めて会ったのは幼い頃でした。
金の髪に整った顔立ち。そして全てを慈しむかのような微笑み。
私は表情にこそ出さなかったものの一瞬で恋に落ちました。
彼は隣に居ると常に私の事を気遣ってくださいました。
そこまで大事にされると女として悪い気はしませんでしたし、彼は常に真剣でした。
あの様子では、私が隣に居なくても私の事を思ってくださっているのでしょう。
私も彼とならいい家族になれると、信じていました。
家同士の繋がりとしてもこの婚姻は悪くなく、正に誰もが幸せになれる素晴らしい関係でしょう。
…でも、私は満たされながらも心のどこかで少しの物足りなさを感じていました。
それを自覚したのは、数年前のある日。
私がお父様に買っていただいた帽子が風に飛ばされて木に引っかかったのをロートフェルト様が取りに登った時でした。
ロートフェルト様は帽子を回収する事ができましたが、誤って木から落ちてしまいました。
私は慌てて駆け寄ります。
彼は「大丈夫だよ」と言って必死に痛みに耐えながら笑みを浮かべました。
それを見て私が感じたのは……子宮が痺れるような愉悦でした。
彼が私のために苦しんでいる。
その事実だけで私の中は言いようのない多幸感に満たされたのです。
私が彼に求めていたのはこれでした。
それからというものの私は彼が私のために傷つき苦しむように立ち回ってきました。
ズーベルの所為で領地の経営が上手く行かず苦悩している事も存じておりました。
私に心配をかけたくなくて必死に笑みを浮かべている姿はその…はしたないですが、とても興奮しました。
それにしてもあんな欲望に濁った目をした男を傍に置くなんて、ロートフェルト様は何を考えていたのでしょうか?
それとも気が付かなかったのでしょうか?
だとしたらそれすらも愛おしいです。だってそうでしょう?
あの方は私が居ないとそれすら見抜けないのですから。
やはり彼は私と共に歩みお互いを満たし合う関係になれますわ。
私は強くそう確信していました。
…ですが。
ズーベルがロートフェルト様を処分したと聞いた時は焦りました。
愚かな男でしたがここまでとは…。あの男の度し難さは私の予想を上回っていました。
私はすぐに人を雇って、調査と捜索をしましたが見つかりません。
日数もそれなりに経過し、私の心に諦めが芽生え始めた時にようやく見つかりました。
経緯は不明ですがアコサーンで身を潜めていたようです。
所用でアコサーンへ向かったズーベルが偶然発見し、再度始末しようといかがわしい連中と接触したところで私の所に報告が来ました。
阻止しようとしましたが、報告が上がった時点で事態は既に動いた後でした。
その後、ズーベルの下に報告に来た連中から、ロートフェルト様に返り討ちに遭った事を知りました。
流石はロートフェルト様。
あんなゴミみたいな連中に負ける訳がありませんでしたね。
生き残りもゴミみたいな連中でしたが、有用な情報を持っていました。
ロートフェルト様が生きてこちらに向かっている。
ああ、嬉しい。ようやく私の所に戻ってきてくれるのですね。
私は出迎えと悲しい誤解を解くための戦力を準備をして、ロートフェルト様を待っていました。
移動時間を考えるともう少しかかると思いましたが、私に会いたくて急いできてくれたのですね?
再会したあの方は随分と姿が変わっていましたが、愛しい方を間違えるはずがありません。
ですが、色々とお辛い事もあったのでしょう。
言葉遣いがとても下品になっていました。
そして悲しい事に私の言葉が上手く届いていないようです。
ですが、ロートフェルト様であるならば私は一向に気にしません。
ああなってしまったのもズーベルの行動を読み切れなかった私の落ち度。
時間をかけてゆっくりと治療するとしましょう。
私は配置した駒達にロートフェルト様を拘束させようとしましたが、驚いた事に彼は数体ですが撃破してみせました。
正直、これは予想外です。
ロートフェルト様の技量はよく知っていたので精々1体に少しの損傷を与える程度で押さえ込めると思っていました。
使用した魔法といい、しばらく見ないうちに随分と成長したようですね。
愛する殿方の成長はとても喜ばしい事です。
ですが…ですが、気に入らない事が1つあります。
何ですか? その途中で割り込んできた虫は?
将来を誓い合った仲? 身も心も捧げる?
何を仰っているのか理解できませんね。
ですが、何でしょう? このドス黒い気持ちは。
今まで生きてきて5指に入るほどの不愉快なものが湧き上がってきました。
ロートフェルト様、私の気を引くためにそんな虫を傍に置いているのでしょう?
…とは言え、不愉快だった事には変わりはありません。
虫とは言え、時間を共有した相手です。
恐らく情が移ってしまってお情けで傍に置いているのでしょう?
ご安心ください。その虫は私が駆除して差し上げましょう。
ロートフェルト様は駒に押さえさせて、私は虫の駆除に専念します。
魔法で攻撃しますが、虫だけあって次々と躱されてしまいました。
不愉快な事に虫の動きは速く、点攻撃では捉えきれません。
悔しいですが範囲攻撃に切り替えます。
水球Ⅱで、体を濡らした後に吹雪Ⅱで氷漬けを狙いました。
虫は吹雪に呑まれたのが見えました。
あれなら氷漬けで死んでいるか、生きていても動けないでしょう。
視界を戻すために風の魔法を詠唱します。
死骸の確認もありますが、ロートフェルト様の方が見えないのは何かと都合が悪いのです。
「…っ!?」
私は咄嗟に横に動きます。
次の瞬間には私のいた空間を光る物が通り過ぎました。
あれは虫が持っていた剣?
剣に気を取られたのは一瞬でした。
意識を前に戻すといつの間にか虫が私の目の前で腰から剣を引き抜いて振りかぶっていました。




