1289 「黄昏」
胸騒ぎが収まらない。
聖剣使いヤドヴィガ・ポポリッチは、形容できない不安を抱えていた。
彼女が今いる場所はセンテゴリフンクスの街中。
ついさっきまで辺獄種との戦いを繰り広げ、戦況が落ち着いたので一息入れる為に街に戻って来ていたのだ。 今の所は問題なく、グノーシスや別口で要請した戦力が到着するまで充分に持ち堪えられる。
彼女自身、グノーシスが人間以外の種にあまりいい顔をしない事は人伝ではあるが聞いていたので、進んで手を組みたいとは思っていないかったがこの終わりの見えない消耗戦を打開する為には必要と割り切っている。
それよりも別大陸にいる聖剣使いに対して彼女は期待していた。
ハイデヴューネ・ライン・アイオーン。 どのような人物かは知らされていないが、ヴァーサリイ大陸でアイオーン教団と言うグノーシスから分離した組織を率いている聖女と呼ばれる存在だそうだ。
ヤドヴィガは聖女と聞いて胡散臭いと感じていたが、何の得もないのにわざわざ見ず知らずの国や他者の為に体を張れる点だけは尊敬に近い念すら感じている。
少なくとも自分が彼女の立場ならこんな危険なだけで見返りが小さい戦いに参加できるだろうか?
――考えてみたが内心で首を振る。
恐らく難しい。 余程の大金を積まれても素直に首を縦に振る事はできないだろう。
話を持って来られても「そっちの揉め事なら自分で処理しろ」と冷たく追い払うかもしれない。
ただ、何らかの形で騙されて連れて来られた可能性もあるので、清廉潔白な聖人と考えるのは早計かもしれないが。
それでも来てくれる事に感謝しかない。
ヤドヴィガはこの都市唯一の聖剣使いで、全ての者達の希望を一身に背負っていた。
聖剣使いが居れば勝てる。 聖剣使いこそ我等の希望。 そんな煽り文句でセンテゴリフンクスの者達は必死に折れそうな心を支えていた。
そんな中、自分が死ねばどうなるのか? 言うまでもない。
絶望だ。 戦意を奮い立たせている者達の大半はもう立ち直る事も出来ずに逃げ出すかもしれない。
少なくとも纏まる事は不可能になる。 聖剣使いになってしまった以上、逃げるつもりは毛頭ないが、この立場は豪胆な彼女をしても重たい荷物だった。
そんな荷物を全てではないが肩代わりしてくれる存在には感謝しかない。
どんな人物なのだろうか? 聖女と呼ばれる程の人物なので、自分と違ってお上品な人かもしれない。
話は合うだろうか? 上手くやれるだろうか? まだ見ぬ聖女の事を考えていると少しだけ気持ちが落ち着いた。 それでも嫌な胸騒ぎは完全に払拭できない。
――一体、何を恐れているんだい……。
ヤドヴィガは自らにそう問いかける。
辺獄か? いや、違う。 それに関しては聖女の助力で解決できるかは何とも言えないが改善はする。
グノーシス? それも違う。 不安要素ではあるが少なくとも辺獄が片付くまでは味方だ。
ならばこの不安の正体は何なんだと考えると答えは自ずと導き出される。
あの男だ。 先日街で遭遇した男。 見慣れない魔物に乗った奇妙な男だった。
聖剣は所有者の危機に反応して警告を発する。 まだ付き合いは短いが、警告の感じでどの程度危ないのかは何となく察する事は出来た。 大抵は警戒すればいいとそこまで深刻に考えるような段階ではなかったが、今回ばかりは話が別だ。 あの男に関しては「危ない」ではなく「逃げろ」だった。
ヤドヴィガにはさっぱり分からなかった。
見た感じそこまで危ないようには見えず、会話しても不愛想ではあったが不自然なものは感じなかった。 少しだけ目――眼差しが気になったが、それだけだ。
個人的にはあの熱量を感じない視線に好印象を抱けず、不快と言うよりは不気味さを感じていたので近寄りたくない人物――その程度の認識だ。 だが、聖剣の警告を受けてからとにかく嫌な感じがする。
「……まったく、どうしちまったってんだ」
そう呟き、意味のない思考を脇にどかす。 念の為、街の上役には伝えておいたので、監視が着く事になり妙な行動を起こせば知らせが届くようになっている。
何があっても対処はできるだろう。 そう考えて無理矢理思考を明るい方向へと持って行った。
この戦いが終わったらどうしようかといった考えは聖剣を得た以上、少し難しいかもしれない。
元々、纏まった金が手に入ればこの世界を旅して様々なものを見聞きし、それを歌にして語って聞かせる吟遊詩人になるのが彼女の夢だった。 今回貰える報奨金で目標の金額に達するので片付いたら旅に出ようと考えていたのだが聖剣使いとなってしまった事により目論見が崩れてしまったのだ。
あれば便利な代物ではあるが付いて回るしがらみが多すぎる。
グノーシスが欲しがっているといった話を聞いていたので、可能であれば売り払ってもいい。
自分の手に余る代物だ。 だから、全ての清算を済ませれば旅に出よう。
ヤドヴィガは目を閉じて見知らぬ土地を歩く自身の姿を想像して小さく笑う。
そんな日が来ればきっと楽しい毎日になる。 彼女はそう信じて疑わなかった。
――そんな来るはずのない未来を夢想して。
センテゴリフンクスからやや南。
辺獄の領域フシャクシャスラからの侵食から世界を守る為の最前線。
そこでは日夜、辺獄種の襲来に対して多くの者達が戦っていた。
聖剣使いであるヤドヴィガの参戦により士気も戻り、状況は上向きになっている。
そして増援の目途も立ち、反抗作戦の立案もされていると聞く。
こんな生活とはおさらばだ。 前線を維持している者達はそう信じていた。
――それが現れるまでは。
時刻は夕暮れの黄昏時。 そろそろ夕食の準備でもと考えている者達の前でそれは起こった。
空間の亀裂がメキリと軋むような音を立てて広がったのだ。
何だと疑問を抱く事さえ、彼等には許されなかった。
何故なら次の瞬間にはゆっくりと訪れつつあった夜の闇よりも深く、昏い一条の光が薙ぎ払うように最前線を吹き飛ばしたからだ。
そして空間の亀裂が弾け、穴と化した。 向こう側の景色はこの世界を覆う黄昏よりも尚、濃い停滞した世界――辺獄だ。 そして穴から一人の男が闇を凝縮したかのような禍々しい剣を真っ直ぐに向ける。
左右に割れた刃に魔力が満ち、ついさっき彼等を襲った闇色の光線が再び現れた。
希望を抱いて戦っていた者達は絶望を抱く暇もなく、自身に何が起こったのかすら理解できずに闇に呑まれて消滅した。
誤字報告いつもありがとうございます。
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