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魂のモチーフ

作者: 三角

 彼女が死んだ。

 もって一年と宣告されてから、ほぼ一年ちょうどに彼女は死んだ。

 病魔と闘っているとき、彼女はやせ細り、燦然と美しく輝いていた目も光を失っていったが、笑顔だけはいつもと変わらなかった。

 このまま、治るのではないか。彼女の笑顔を見ていると、そんな風に思うことすらあった。

 だが、世の中そううまくはいかない。

 彼女は、この世を去ってしまった。

 今、僕は歩いている。

 彼女が去ったこの世界を、歩いている。

 時刻は午前二時。丑三つ時といわれる時間帯。

 彼女が亡くなり、葬儀がすんだあとから、僕は毎晩のようにこの時間に散歩に出かける。

 そうすれば、彼女に会えそうな気がするからだ。

 毎晩毎晩、僕は小声で彼女にささやきかけながら歩いている。

 どこかにいる? 僕の声は聞こえてる? 君からは僕の姿が見えたりしているのかな?

 そんな風にして、僕は夜の中を歩いていく。

 彼女が亡くなった寒い季節は終わり、もうすぐ夏が来る。彼女が好きだった夏が。

 僕は今日も夜歩く。

 いつかは彼女に会えると信じて。



 一 裸の男


 天気予報が梅雨の終わりを告げたその日。つまりは、夏の始まりの日といえるその日に、僕は夜の散歩で一人の男と出会った。

 住んでいるアパートを出て、一軒家が建ち並ぶ住宅街を抜けて、大通りへ出る。コンビニの明かりを横目に歩き、坂を下ると、自動車のディーラーがある。その前に、裸の男が立っていた。

「こんばんは」

 僕がそう声をかけると、裸の男は一度無表情にこちらを見つめた後、笑顔で「こんばんは」と返した。

「あの、どうして裸なんですか?」

「この方が涼しいでしょう? いいですよ裸は。これが人間本来の姿なんだって実感しますね。こんなに心穏やかなのは初めてだ」

 裸の男は大きく伸びをしながら言った。

「というか、驚かないんですね、あなた」

「え?」

「いや、だって裸の男がいたらふつうは驚きません? 変態だとかなんとか言って」

 言われてみればそうだ。なぜ疑問に思わなかったのだろう。

「なんででしょう」

「いや、私に訊かれてもね」

「わからないんです。ここ最近、いや、ある時から、僕は感情をどこかに置き忘れてきてしまったようで」

「感情を置き忘れた?」

「ええ」

 裸の男はこちらをじっと見つめている。穏やかで優しい目をしていた。

「そうか、それはよくないな」

「よくない?」

「それはね、死んでいるのと同義ですよ。いや、大袈裟かな。自分にも当てはまることだから感情的になっているのかもしれない」

 裸の男は自動車のディーラーを見つめる。

「私ね、ここで長く働いていたんですよ。そこそこ成績もよかったんですよ? これでもね」

「やめてしまわれたんですか?」

「ある時、ふといやになってしまって。私は、なぜこんな生活をしているのだろうと。みんなそんなこと思っている、それを我慢しているのだと言われるでしょうが、私はどうしてもその疑問を打ち消すことができなかった」

 裸の男が苦笑する。自分を嘲っているようにも見えた。

「有休をもらって、旅に出たりもしました。でもダメだった。いろんなことも試しました。それでもダメだった。そこで、ようやく気付いたんです。私は、私の心はもう死んでしまったのだと。仕事が嫌だとか、そういうことじゃなかった。そんなものはとっくに通り過ぎていた。職場に復帰して、仕事をこなしながら、私は決めたんですよ」

「なにを、ですか?」

 裸の男は答えなかった。ただじっと店を見つめている。

「こうして見ていると、愛着があったんですな。嫌なことのほうが多かったが、私はここが嫌いではなかったのかもしれない」

 裸の男はこちら見て、言った。

「君の感情はきっと、まだ近くに転がっていると思うよ。早く探しに行ったほうがいい。私のように、完全に見失ってしまう前にね」

 裸の男が、僕の先に続く道を指さす。

「さあ、行きなさい。君はここにいるべき人じゃない」

 裸の男に言われるがまま、僕は歩き出した。

 少し歩いた後、振り返ってみる。

 男はもういなくなっていた。



 二 スーパーの前の親子


 裸の男と別れてから、僕はまた歩き出した。

 ひたすらまっすぐ歩き続ける。すると、大きなスーパーが見えてきた。日中は人通りが多いこの場所も、深夜はとても静かで、どこか不気味にすら感じる。

 駐輪場近くに置いてある自販機で飲み物を買おうとした時、角から飛び出してきた子供にぶつかった。

「すいません!」

 ぶつかり尻もちをついた子供を助け起こそうとした時、僕と子供の間に中年女性が割って入る。

「すいません、深夜だからと油断していて……お怪我はありませんか? ほら、お前も謝りなさい!」

 どうやら、親子のようだ。だが、どうしてこんな時間に。

「僕は大丈夫ですので。というより、なぜこんな時間に?」

 母親の目が泳ぐ。何かを言おうとしているが、言葉が出てこないらしい。

「お父さんと鬼ごっこしてるの」

「鬼ごっこ?」

 ちらりと母親を見る。顔が青ざめており、唇が震えている。夏だというのに、まるで冬の寒さに凍えているかのようだった。

「こんな時間に鬼ごっこ?」

 僕は子供の方に視線を落とし、訊いた。

「うん。今日はお父さんずっと寝てて、どうしたのってきこうとおもったんだけど、お母さんがダメだって。お父さん疲れてるからって。でも、ずっとずっと起きないんだ。それで、どこか病気なのかもっておもって、救急車呼ぼうとおもったんだけど、それもお母さんがダメだって。それでね、今日はね、鬼ごっこの日なんだって」

「それはお父さんが言ったの?」

「ううん。お母さん」

 僕は母親の方に視線を戻した。

 先ほどまでのなにかに怯えていたような表情は消え、目には憎しみにも似た強く鈍い光が宿っている。唇は震えを止め、かわりに歯ぎしりをしている。

 まるで、悪鬼のように感じた。あまりにも恐ろしい表情。人にこんな表情ができるものだろうか。

「どうされたんですか?」

 自然に、そんな言葉が出てきた。

 母親はあっけにとられたようで、表情が崩れた。

「あの……」

 急に、怯えの表情に戻る。ころころと感情が切り替わる。まるで、スイッチで喜怒哀楽を操る人形のようだ。

「この子の話で、その、悟られたのでは……」

「悟る? ああ、すいません。僕はある時を境に物事を深く考えたりするのが苦手になってしまって。なにか失礼なことをしましたか?」

 母親の表情が哀れみに変わり、続けて穏やかな表情に変わる。本当に、ころころと感情が変わる人だ。疲れはしないのだろうか。

「そうですか……それはそれで幸せなのかもしれませんね。何かを感じて生きていくことは時に苦痛ですから。幸せだと思っていたことが、不幸に変わった時、もっと考えればよかった。私は自分勝手でした。この子のことを思って、そう考えていたけれど、結局、私はこの子を自分の罪の理由づけにしかしていなかった」

 言葉を重ねながら、母親の表情はどんどん穏やかになっていく。

「不思議な方ですね。失礼な言い方ですが、まるで魂がなくなってしまったみたい」

「自分でもそう思います」

「なぜ、そんな風になったのですか? よければ聞かせていただけませんか?」

「彼女を亡くしたんです。それからというもの、心にどこか穴があいたように感じると言いますか、自分でも気付かぬうちに、何かが自分の中から落ちてしまったような感覚なんです」

 母親は子供をなでながら僕の話を聞いていた。子供は眠くなったのか、先ほどからしきりに目をこすっている。

「そうですか……羨ましいです。私も、そんな風に愛する人と一緒にいることを幸福だと思えていた時期があったから……いえ、今となっては、本当にそうだったのか怪しいですが」

 母親は僕の方をまっすぐ見つめ、言った。

「ありがとうございます」

「なにがですか?」

「いえ。ただ、お礼が言いたかったんです」

 母親が自販機で飲み物をおごってくれるというので、お言葉に甘えた。

「では、もうお行きになったほうがいいです。きっと、ここはあなたのいるべきところじゃないですから」

 そうして、僕はまた歩き出した。

 しばらく歩いてから振り返ってみると、親子が手を繋ぎながら歩いていくのが見えた。



 三 夢の残滓と放浪者


 親子と別れ、ひたすら歩く。

 汗が服を濡らし始めた。一度コンビニに寄って涼んでから、また歩き出す。

 トンネルを抜け、公園を抜け、駅にたどり着く。

 始発もまだなので、改札へ通じる道はシャッターで閉ざされている。

 僕はシャッターに背をもたせて座った。こうして座っていると、歩いているときよりもはるかに涼しく感じる。

 目を閉じる。大きく深呼吸し、耳をすませた。

 色々な音が聞こえる。こうして耳をすましていると、音には輪郭があるのだということがわかる。遠くに聞こえるトラックの走行音。散歩する老人の引きずるような足音。どの音にも、形のようなものがある。

 だが、どれだけ目を閉じ、耳をすませても、一番聞きたいものを聞こえなかった。

「失礼」

 声がした。目をあけると、ホームレスとおぼしき男性が僕を見ていた。

「なんでしょうか」

「いえ、突然こんなことを言うのはおかしいと思われるかもしれませんが、よろしければ、あなたを絵に描きたいのですが」

 ホームレスの男性は申し訳なさそうに言った。

「なぜ僕を?」

「久々に見えたんです」

「見えた?」

「はい。曇ってしまったと思った私の目に、久しく見えなかった不可視の輪郭が見えたのです」

 なんだか少し興味がわいたので、僕はホームレスの男性の願いをきくことにした。

 なにか指定はあるかと聞くと、そのまま座っていてくれればいいと言った。

 男性はボロボロのスケッチブックと短い鉛筆を取り出し、絵を描き始めた。

「あなたのような人に出会ったのは、二度目です。まあ、一度目は間接的にですが」

「というと?」

「魂をどこかに置き忘れてしまったような人、とでも言いましょうか」

 また魂か。今日は妙にその言葉を聞く。

「私は学生時代留学して絵の勉強をしていたんです。そこで絵を教えてくれた師匠が、絵描きとして大成できるか否かの分かれ目は、魂と出会えるかだと言っていたんです。正直、意味はよくわかりませんでした。留学を終え、帰国してから少しずつ名も売れてきましたが、正直大成というまでにはいかず、私は焦っていました」

 しゃべりながらも男性の手は止まらない。静かな夜に、鉛筆がスケッチブックを走る音が響く。それが少し心地よく感じた。

「ある時、同期の個展を見に行きました。どれもよい絵でしたが、正直、一気に心を持っていかれるような作品はなかったんです。でも、同期の絵描きは、とても幸せそうの顔をしていて。気になったので、私は訊いてみたんです。なにかいいことでもあったのかと」

 一瞬だけ手が止まった。

「彼は言いました。絵描きとしての才能のなさには絶望したと。だが、自分は一生に一度出会えるかというようなモチーフを見つけたのだと。彼は、その絵を見せてくれました。なんてことのない絵でした。個展に出すようなものではない。ただ、絵描きなら誰でもあの絵を見て涙を流すはずです。そこには、魂があった」

 男性の目が潤む。一筋の涙が、汚れた頬を流れた。

「それは、彼が才能という壁にぶち当たり、悩んでいるときに出会ったという、ある人物の絵でした。彼は言っていました。抜け出た魂を見たのだと。自分はこれを絵にしなくてはならないと直感が告げたのだと。そうして、その完成した絵は、ほかならぬその人のための絵なんだと。これが、自分の最後の作品ななのだとも言っていました」

 気が付くと、空が青くなりはじめていた。夏の日の出は早い。

「彼は言葉通り、画家を辞めました。私は彼に嫉妬しました。私も見つけたい。こんなモチーフを見つけたい、描きたい。そうして、絵にだけのめりこんでいるうちに、ここまで落ちぶれてしまいました。でも、ようやく見つけることができた。これが、絵描きである私の、最後の仕事です」

 そう語る男性の目からは、涙がとめどなくあふれてきていた。

「今なら師匠の言っていたことが分かります、一生に一度の魂のモチーフ。その出会いが、自分のこれからを教えてくれるということなのでしょう。ありがとうございます。私はようやく筆を折ることができる」

 男はスケッチブックから絵を切り離し、僕に渡した。

 その絵をみた瞬間だった。

 僕の中に、熱い何かが込み上げてきた。

「これが、私に見えた、あなたが落としてしまった魂です。そろそろ、始発が出る時間ですね。もう帰ったほうがいいですよ」

 男性が話している声が、遠くに聞こえる。

 とめどなく感情があふれ出て、思考も言葉も形をなさない。

「さあ、しっかり立って、歩き出してください。ここは、あなたのいるべき場所じゃない。ちゃんと、拾った魂を自分の中に戻してください」



 四 魂の在処


 あれから数か月。僕はもとの生活に戻っていた。

 その間に、近くで全裸の男が自殺したというニュースや、家庭内暴力に耐えきれず夫を殺した妻のニュースを見た。

 たった一日の出来事とは思えない、濃密な夜だった。丑三つ時にさ迷い歩くのは、幽霊だけではないのかもしれない。

 魂を亡くした者もまた、夜歩くのではないか。

 亡くしてしまったものを見つけるために、あるいは、もう戻らぬものを目に焼き付けるために。

 あの絵描きに礼を言いたくて、同じ時間に何度か駅を訪ねたが、結局一度も会えなかった。

 僕は今、趣味で絵を描いている。

 あの絵描きが言っていたような、不可視のものを見つける才能なんてないのかもしれないが、それでも、僕は絵を描き続けたいと思う。

 そうして、できれば、あの夜であったような人たちの救いになる絵を描ければとも思っている。

 スーツに着替え、僕は家を出る。

 額縁に飾ったあの時の絵を見て、僕は言う。

「じゃあ、行ってくるよ」

 それは、シャッターにもたれ、死んだような目をしている僕の肩に手をのせ、変わらぬ笑顔を見せる彼女の絵。僕が落としたと思っていた大切なものは、ずっと身近にあったのだ。


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