ポニーテール
ふわりふわりと目の前で揺れる黒髪。
梨香は結んでもらったばかりのポニーテールを鏡に映して確認中。
散々いろんな角度から眺めて満足したのだろう。
満面の笑顔だ。
「パパに見せてくる」
言うが早いか、駆け出していった。
まったく誰に似たのだろう。
毎朝、鏡の前に陣取って、おめかしに夢中な我が娘。
幼稚園児だからって馬鹿にはできない。
心は立派な女の子なのだ。
自分のあの時代を思い浮かべようとしたが、どうも上手くいかない。
ふと目を向けた鏡の中には、疲れきった自分の顔。
目尻の下に指を這わせ、再度ため息をついた。
皺が増えているような気がする。
肌の張り艶だって感じられない。
確かにもう三十歳も間近だけど、いつの間にこんなにも老けてしまったのか。
まったく嫌になる。
嫌になると言えばあの男。
梨香が一生懸命話しかけているのをコーヒー片手に、「うん、うん」と空返事。
スーツ姿のズボンを引っ張る手に、ほんの少し目を落とし、また新聞に視線を戻した。
「ねーパパ、聞いてるの?」
ついに梨香が拗ねたように声を荒げた。
男はちらりとわたしを見て一言。
「あっ、ほら、ママが呼んでるぞ」
呼んでねぇーつーの。
面倒になるといつもこれだ。
「なぁにーママ? なんか呼んだ?」
梨香はバカ正直にわたしの元に駆け寄ってくる。
男は今がチャンスとばかりにかばんを掴み、
「じゃ、行ってくるぞ」
梨香の頭をポンと軽く叩き、玄関のドアを潜り抜けていった。
「パパ行っちゃったね」
寂しそうに呟く梨香の背中を押し、
「ほら、梨香も早く準備して。幼稚園、遅刻しちゃうよ」
急かすように、「ダッシュダッシュ」と足踏みをした。
「だっしゅだっしゅー」
笑いながら駆けていった梨香が、幼稚園バッグと黄色い帽子を手に戻ってきた。
小さな手を握り外に出た瞬間、目の前を幼稚園バスが通り過ぎていった。
「ママ、早く早く」
梨香がわたしの手を強く引っ張り、
「だっしゅーだっしゅー」
口ずさみながら元気いっぱい走り出す。
バスは10メートル程先で停まり、エプロン姿の若い先生が笑顔で手を振っていた。
「梨香ちゃんおはよう」
先生の言葉に、
「先生、おはようございます」
きちんとお辞儀を返す梨香。
外に出ると真面目なんだよな、こいつは。
どるるるるん、と音を響かせ、ゆっくりとバスは走り去っていった。
これで一日の朝は終了。
あとは炊事洗濯……まぁ、わりと自由な時間。
時間はあるけど特にやることはない。
やることはあるけど、やる気が出ない。
まるでダメ。
毎日こんな繰り返し。
「つまんない人生だな」
口に出して呟くと、本当にそんな気がしてきた。
旦那は仕事に行き、娘を幼稚園に送り出し、わたしは1人取り残される。
この家に。
リビングのソファーに座って、ぼんやりとワイドショーを眺めた。
世の中を賑わせているニュースや芸能人同士の恋の話が続く。
恋か……そんなときめき、ずいぶんしてないな。
二十三歳で結婚して、一年後には梨香が生まれて……あの頃はまだ毎日新鮮だったような気がする。
別に旦那のことは嫌いじゃない。
それなりに好きだし、梨香のことも愛している。
ただ、何かが足りない。
スパイスの足りない、子供用のカレーを食べているみたい。
「梨香連れて、どっか行っちゃおうかな」
ポツリと呟いたそんな時、カランとテーブルの上のグラスが音をたてた。
溶けた氷の衝撃で、二層になっていたアイスティーがゆっくりと混ざり、茶色がぐるぐるとうごめいていた。
それを眺めているうちに、いつのまにか眠ってしまったようだ。
次に目を開けた時には、スーツ姿の旦那がテーブルに頬杖をついてわたしを見ていた。
「お、起きた? おはよう」
現実が飲み込めず壁の時計に目をやり、まだお昼過ぎだとわかり安心した。
「びっくりさせないでよ。何してるの、こんな時間に?」
「たまたま近くを通りかかったからさ。一緒に昼飯でも食おうと思って。でも、おまえ気持ちよさそうに眠ってたから」
「そっか。じゃ、何か作るわ。簡単なものでいい?」
起き上がって何気なく頭に手をやると、違和感があった。
あれ、わたし髪の毛結んだっけ?
不思議に思っていると、旦那が言った。
「邪魔そうだったから束ねたぞ。上手くできなかったから自分でやり直せよ」
照れくさそうに笑う旦那を、久しぶりに愛おしいと思った。
キッチンに立ち、戸棚のガラスに映ったわたしの顔には、梨香のような笑顔が張り付いていた。
そしてそのそばには、ふわりふわりと揺れる、ちょっと形の悪いポニーテールがある。
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