ウサギとカッコウ
「明日から、パパと一緒に暮らすから」
高校を卒業したその夜。卒業祝いの食事の後、そう言った私を向かいの二人は筆舌しがたい顔をして見ていた。
「何を言っているの、灯里」
たっぷり一拍置いて、震える声でママが言う。四十を前にしてまだまだ若々しい容姿をしている。事実、「灯里ちゃんのママ、お姫様みたいだね」と物心ついた頃から言われ続けてきた。少女のように純粋で、残酷で可愛らしい女の人。
「だから」
ママの額から流れ落ちた冷や汗には気づかない振りをした。
「私、パパと暮らすの。この家を出て」
「灯里、冗談はやめてちょうだい」
「本気だよ」
私はこの日をずっと待っていた。
努めて冷静な声を出す必要はなかった。心の中は十八年間溜め込んできた想いで熱いぐらいだったけれど、頭は不思議と冴えていた。
「大学はちゃんと行く。特待生だから、学費の心配はしなくていいよ」
ダイニングテーブルに置かれた、カップの中身が少しずつ冷めていく。ミルクティーが一つに、ホットコーヒーが二つ。
「灯里、僕達は学費のことなんて気にしていない。それは、君も分かっているだろう?」
「そうだね」
ミルクも砂糖も入っていない、漆黒の液体をゆっくりと二口分飲んでから、お父さんは苦味をたっぷり含んだ声でそう言った。私と同じ、色素の薄い瞳がじっとこちらを見ている。いまさら暴かれて困ることなどない。視線を逸らすことはしなかった。
ガチャン。カップとソーサーがぶつかって思いのほか大きな音が鳴る。震える指では上手く支えることができなかったらしく、テーブルに黒い地図が描かれる。ママの顔色は白かった。
「灯里、どうしたの。どうしてそんなことを言うの」
「ごめんね。ママ。私ずっと決めていたの」
出来うる限り、優しい笑顔を心がける。けれど、ママの顔色はより白くなった。
誠実で優しい父親に、いつまでも若く美しい母親、都内で有数の女子大に合格した娘。絵に描いたような幸せな家庭だろう。ママはずっとそれを疑うことなく信じていた。彼女の中では、愛娘はまだまだ自分の手の中にいる予定だったのだ。
夕食はとても美味しかった。料理が趣味のママが、腕によりをかけて私の好物ばかりをテーブルいっぱいに並べてくれた。それから急転直下、私以外の誰が今の空気を予想できただろう。
「僕を、お父さんと呼び続けたのと、君の決断は関係があるのかい?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
香水智志が、私の父となったのは今から十三年前。恐る恐ると、大切に抱き上げられた腕を覚えている。当時須々木聖美だったママはその光景を涙目で見ていた。彼らは、ある一人の悲しみを無視した。
「いやよ、灯里。そんなのいや」
「ごめんね」
口先の謝罪でいいならいくらでも重ねられる。けれど、望む答えはあげられない。
「聖美、落ち着いて」
取り乱し始めたママの小さな肩にお父さんが腕を回す。その瞬間、ママは私のママではなく、お父さんの妻になった。だって、表情が全然違う。娘の私から見ても、守ってあげたくなるような、そんな気持ちになる。大好きな、私のママ。
「君は、僕達を許してはいなかったんだね」
「そうだね。お父さんがそう思うならそうなのかもしれない」
「・・・そうだね」
ママがあからさまに傷ついた目をした。お父さんの眉も顰められる。リビングの時計の針の音だけがチクチクと響いて、心をチクチクと触る。
実のところ、許す・許さないの問題ではないと思っている。そう答えた方が、納得してもらえるかと思っただけだ。頭ごなしに反対されるなら、相手側で腑に落ちる答えを見つけてもらう方がずっといい。
普段考えないようにしていても、罪の意識があるのは隠しようもない事実だ。彼らにも、――私にも。
「お父さん、誤解しないでね。私はお父さんもママも、好きだよ。比較して、決めたわけじゃない」
「うん。ありがとう。僕も君が大好きだよ」
「うん、分かってる」
私の頑固さを、お父さんはよく理解している。ママはそれをお父さんに似たと思っているけれど、私はパパ譲りだと思っている。外見がもらえなかった分、きっと内面だけでももらえたのだと、そう信じている。
私がパパと呼ぶ男の人、須々木国之。かつてママの夫だった人。私を慈しみ、愛してくれたパパ。私のために身を引いた、私の初めてのパパ。
「聖美、灯里の自由にさせてあげよう。もう子供じゃないんだ」
「あなた・・・」
ママは、まだ諦めがついてないみたいだったけれど、私に根競べをする気はなかった。こちらに譲る気なんてないのだ。結局は折れてもらうしかない。そして、その説得係はお父さんに委ねる。
「こちらから、ご挨拶をしなければいけないね」
「大丈夫、私から言ってあるから」
拒絶を込めて強く言うと、お父さんはそれを正しく読み取ってくれた。皮肉な話だけれど、パパの心情を一番分かるのがお父さんなのは間違いない。同じ男としてのシンパシーなのだろうか。
「・・・分かったよ。時間を空けよう。君からよろしく伝えておいてくれるかい?」
「うん。私も連絡するね」
「待っているよ」
お父さんはママの肩を抱いたまま、残りのコーヒーを飲み干した。私も冷たくなってしまったミルクティーを一気に飲み込む。一番美味しいタイミングを逃してしまったミルクティーは、砂糖の人工的な甘さだけを口の中に残した。
自室に戻って準備をしようにも、持っていく荷物は驚くほどなかった。もともと物欲はほとんどない。困らない程度の衣服と、ノートパソコン、申し訳程度の化粧品類、携帯電話と財布、私の必需品は拍子抜けするほど少ない。大学の教科書を買うのも入学式以降だ。ノート類もそのときに一緒に買えばいい。
きっとこの部屋は、いつ私が帰ってきてもいいように清潔に保たれるのだろう。ここは香水灯里が始まった場所。そして、それ以前の場所にいた私へ想いを馳せる。
幼稚園に通っていた私の記憶を、ママは忘れてしまうことを期待したようだが、そうはいかなかった。笑うのが下手だけれど、どんなに仕事で疲れていても寝る前の読み聞かせを欠かさなかったパパの声を、頭を撫でてくれた硬い手のひらを、私はしっかりと覚えていた。突然パパと離れ離れになって、当時はよく分からなかったけれど、残された記憶を疑問に思うようになるのにそう時間はかからなかった。お父さんは、私に偽らず教えてくれた。何故パパとママが別れ、お父さんとママが再婚したかを全部。子供に話すには時期が明らかに早かったが、それは間違いなくお父さんの美徳の一つだと思う。
香水家は、智志と聖美が再婚してできた家族だ。そして、私の遺伝子上の両親も、智志と聖美の二人である。つまり、世間的にも、遺伝子的にも、現在の香水智志、聖美、灯里の三人は正しい家族なのだ。――私は、パパの血を引いていない。どんなに私を愛していても、ママが結婚前にパパを裏切っていた事実をしても、パパに私の親権はなかった。
パパとママは、ママが私を身篭ったことが分かって結婚した。順番は少し違ったけれど、周りから見ればその結婚は幸せそのものだった――その直前まで、聖美に二人の愛してくれる男性がいたことを除いては。それが、国之と智志である。すでに社会人だった国之の堅実さと、当時大学生だった智志の頼りなさを天秤にかけ、聖美は国之を選んだ。彼女はお腹の子の父親は、国之だと信じていたのだ。
そして何の問題もなく幸せに時間が過ぎ、私が五歳になったとき、聖美の前にかつての恋人、智志が現れた。智志はずっと聖美を愛しており、その気持ちは再会したときにも変わっていなかった。元々、嫌い合って別れた二人ではない。母であることに慣れ始めていた聖美にとって、智志の熱烈な告白はさぞ甘く響いたのだろう。彼女の天秤はまた動き出した。
ここで国之のフォローをするなら、彼は聖美を娘の母としてだけでなく、己の妻として、女として惜しみもなく愛していた。それは聖美にも痛いほどに分かっていた。
彼女も苦しんだのだろう。けれども、彼女には智志を強く拒絶することができなかった。成長する娘の容姿が、夫に似ていないことも、彼女の気持ちを強く揺らした。娘の薄い鳶色の瞳も、栗色の髪の毛も、ある一つの事実を指し示しているように感じた彼女は、ある検査をする。DNA鑑定、父子鑑定である。彼女に期待がなかったとはいえない。――その結果は、智志との血の繋がりを示すものだった。
彼女は深く後悔した。開けるべきではないパンドラの匣に手を出してしまったこと、かつての選択を誤ったこと、結果的に一人の人間を騙してしまったことを、強く。そして、彼女は一人で抱え込むことに耐えられなかった。彼女は、智志にそれを打ち明けた。その選択をした時点で、聖美の心はすでに決まっていたのだろう。本当の家族だったと分かった二人が、一緒になりたいと願うのは当然の結果だった。
それまで聖美は、許されてきた女性であった。自身が両親に慈しまれ、友人に恵まれ、異性に愛され、明るく優しい道を当然に歩いて生きていた。その経験が、彼女をこのように形成した。――かくして、真実を告げられた国之も聖美を許した。それどころか、涙ながらに謝罪する智志すら、彼は許した。「気の済むまで自分を殴ってくれていい」、智志のその言葉にも、苦く笑って首を横に振った。自分こそが異物なのだと、彼は感じたのだ。
智志は「僕がいなければよかった」、そう言って泣いた。自分が聖美と再会しなければ、須々木家は、血の真実を知らずに幸せに暮らしていけただろう。それが彼の罪。
聖美は、言葉にならなかった。国之を愛していたのも、決して嘘ではない。常人には信じがたい話ではあるが、彼女は二人を同時に愛せた。それが彼女の罪。
そして私の存在は、智志と聖美に格好の口実を与えてしまった。血の繋がりという、動かしがたい事実は、私がいるかぎり無視できないものだった。実の父親と母親と一緒に暮らした方がいい、国之は娘のためを思って、全てを飲み込んで、頷いたのだ。彼に愛されていたから、彼に孤独を選ばせた――それが、私の罪。
私の家族の成り立ちを、誰かに話したことはない。話せばきっと、ママの不誠実さやお父さんの(既婚者に迫った)行動を非難されることだと思う。私だって当事者でなければ同じように感じる。けれど、私がママを嫌うことはないし、お父さんを嫌うこともない。まず、ママとお父さんがいなければ私はこの世に生まれていない。そして、ママがパパを選んでいなければ、私はパパと出会えていない。一つのボタンを掛け違えただけで、私とパパは無関係だったのだ。パパを傷つけて、(自業自得と言われるだろうが)ママもお父さんも傷ついて、それでも私は須々木灯里として、香水灯里として存在できてよかったと思っている。そう思うと、嫌うことなんてできない。私は家族を愛している。
それと同じぐらい、これ以上ずっと一緒にいられないとも思う。家族で笑い合うたび、一人を選んだ、パパを独りにできないと私の心が叫ぶのだ。ママ譲りの傲慢さを持つ私は、私こそが彼と一緒にいなければならないと、当然のように思う。それを、十八になるまで――高校を卒業するまでずっと待ったのだ。誰にも文句を言わせないように、学業を怠らず特待生の資格も取得した。
「そうだ。これも持っていかないと」
ベッドの横のカラーボックスの一番下。もう滅多に開けることのないそこに、随分くたびれたぬいぐるみが入っている。小さい頃構い倒しすぎた結果、ほぼ灰色になってしまった白ウサギ。赤色のボタンの瞳だけが、ほとんど傷もなく当時のままだ。――子供心にお父さんの前で出してはいけない気がして、奥深くに仕舞っていたパパにもらったぬいぐるみだ。ママにもお父さんにも言えない悩みや秘密を、吸い取ってくれていたこの子も一緒に連れて行こう。
パパの声は誰が聞いていたのだろう。ふと、一緒に暮らしてくれるようお願いという名の決定事項を報告するつもりで電話したときを思い出す。連絡先は携帯電話を買ってもらったときに嬉しくてすぐに交換した。ちなみに、私の誕生日以外パパからかかってくることはない。受験勉強中にかけると怒られてすぐに切られた。だから、合格発表の当日にかけた電話は随分久しぶりだった。記憶と変わらない、低めのかすれたハスキーボイスが懐かしかった。
「合格したよ」
「おめでとう。そうか、灯里も大学生か」
「オジサンくさいこと言わないでよ」
「歳だけで見たら十分オジサンなんだ、仕方ないだろう」
「ふふ。それでね、お願いがあるんだけど」
「なんだ。入学祝いの催促か?」
「うん、じゃあそれでいいや」
「なんだ?」
「高校を卒業したら、パパの部屋で住ませてよ」
「それは、駄目だ」
「どうして? 部屋は余っているでしょう? あ、一緒に住んでる人がいるの?」
「いや、一人暮らしだが、それが理由じゃない」
「なに?」
「お前が、どんな目で見られるか、よく考えたら分かるだろう」
「パパと娘が一緒に住んで、何が悪いのかさっぱり分からない」
血の繋がりのない男女、といったことを気にしてくれたのだろうけど、私からしたらそんなの今更だ。世間的に見て確かにパパは四十過ぎの渋くて格好いい男性だけれど、私にとっては異性じゃない、家族だ。それはパパから見ても同じ。私がどんなに美人でも(例えであって、自分を美人と言っているわけではない)、娘以外の何物でもない。それを理由に断れるはずがないことは十分に分かっているだろう。
「聖美、――ママや香水さんも許可しないだろう?」
「一人暮らしするより許してくれると思うけど。というより、パパと住む以外の何も許してくれないよ」
一瞬納得しかけたのか、変な間があった。
「自宅から通えるだろう?」
「それじゃ不公平じゃない」
「不公平?」
「私ね、二十六ぐらいで結婚したいの」
「うん?」
「だからあと八年。今が十三対五。八を足すと、ちょうど、イーブンになるでしょう?」
「イーブン? 何と何がだ?」
「お父さんとパパが私と一緒に過ごせた時間」
「・・・お前が気にすることじゃないぞ」
「うん、気になんかしてないよ。私がそうしないといやなの」
パパが絶句しているのがスピーカーを通して手に取るように分かる。
「ね、いいでしょう?」
「・・・門限は今より確実に厳しくするぞ」
「別にいいよ。夕飯作って待ってる」
「アルバイトも制限する」
「家庭教師をする予定。もちろん女の子限定」
「恋人ができても、外泊なんて許さんぞ」
「学生中はそれでいいよ。まさか社会人になってもそれはないでしょ?」
「・・・」
「パパに必要なのは私用の部屋の掃除とちょっとした模様替え。それで朝昼晩の食事付き。入学祝いにしたら破格でしょう?」
断られるはずがないのは分かっている。頑固なのはお互い様だけど、アドバンテージは私にある。パパは最後、絶対的に私に甘い。
「香水さん達にちゃんと許可をもらいなさい」
「もらえればいい?」
「・・・ああ」
「分かった。じゃあ卒業式の次の日、六日に行くからね」
「許可を取って、だからな」
「大丈夫。ありがとう、パパ」
まぁ、実際許可を取った(というより無理やり許可をもぎ取った)のは前日だったわけだけれど、とりあえず約束は破っていないからオーケーだ。
ウサギは持っていくスーツケースに入りそうもないから腕に抱えていくことにしよう。さすがにぬいぐるみを抱えて電車に乗るのは恥ずかしいけれど、きっとお父さんかパパが車を出してくれるはずだ。挨拶に時間を空けるって言っていたから、お父さんとパパは明日会わない予定だ。それならパパにお願いした方がいいだろう。別に二人が不仲なわけじゃない。余計な気を回している自覚はあるけれど、今日までは香水灯里。明日からは気持ち的には須々木灯里だ。
もちろん、定期的に家に帰るつもりだから、これが一生のお別れじゃない。二人の誕生日はプレゼントを持って会いに行く。私の誕生日は状況を見て決める。
とりあえず今夜はママと一緒にお風呂に入ろう。その後でお父さんの肩を叩こう。三月五日、午後十時。親孝行には遅くない。
そして明日から、しばらくはパパの腰を踏むのだ。
「パパ、今日からよろしくね」
「ああ、よく来た」
頭を撫でた手は、やっぱり硬くて優しかった。