純白の子守唄
成人向けではありませんが、15歳未満の方と、百合が苦手な方と、残酷な話が苦手な方には不向きな内容となっております。
◆ 蜜蜂の王国
自分は何のために生まれてきたのだろう。
名ばかりの家族のために必死に働き、短い人生をあっという間に終えていく姉。
一時の夢のためだけに生まれ、呆気なく果てて死ぬか、或いは、容赦なく家を追われて死んでしまう兄。
それが我ら蜜蜂の大人。
彼らを見つめていると、大人になりたいだなんて、とても思えなかった。
女王というものが大変なのも分かっている。母の気苦労と責任を見ていれば、自分もああなりたいだなんて口が裂けても言えないものだ。
働き蜂にとって、人生なんて短いものなんだ。
不本意にも大人になってしまった時に、すでに私は死を迎えるかのような気分で、姉たちより仕事を教わっていた。
姉妹の中には働かなくていい兄弟を羨むものもいたが、兄弟のなかには己の儚さを知り、ただただ虚しい人生に辟易している者もいた。
私はどうだろう。
女として生まれたものの、子を成すこともなく、家族のために働いて死ぬだけの存在として生まれたことを、私自身どう捉えているだろうか。
実は、よく分からない。
虚しいという気もしたけれど、その時その時に課せられたことをそつなくこなせるのなら、それで満足な気もした。
どうせいつかは死んではしまう。ならば、せいぜいこの一生を、女王のためにでも使ってみよう。
淡々とした日々になりそうだけれど、それはそれで面白いこともあるかもしれないじゃないか。
開き直ってみれば、世界はそれなりに明るいものだった。
代々の女王が崇める月の女神はこの森のどこかでひっそりと暮らし、私たち儚い虫の全てを支える土壌を守っているそうだ。三十年ほどかけて成長し、月が満ちれば姫児を産み落として死んでしまう生き神様。
神様でさえそうなのだから、世の中はそういうものなのかも知れない。
ならばこの儚い夢のような世界で、せいぜい生まれてきた快感を一つでも多く味わっていこうではないか。一つでも多くの楽しみを知っていこうではないか。
私の仕事は慣れれば悪くないものだった。
花を見つけてきてダンスしたり、花との秘め事で手に入れた蜜を仲間に渡すだけ。そのどれもが慣れてしまえば耽美なほどで、愉しいとさえ思えるものだった。
特に花との秘め事は、恥ずかしいほどに熱が入る。
「へえ、そんなにいいものなら、私も採集係になりたかったよ」
そう言ったのは、倉庫番を任されている同世代の仲間。私が集めてきた蜜をいつもいつもせがんでくる少女っ気の抜けない大人の蜂。蜜蜂という名前の通り、彼女が守るのは甘い蜜の倉庫。私以外にも多くの仲間と濃厚な口づけを交わし、目には見えぬ蜜というものを倉に貯蔵すべく加工する。
習っていない私にはできない芸当だ。
私にできるのは花を見つけて誘い込み、蜜吸いと呼ばれる秘め事によって首尾よく蜜を奪い去ること。そうして私の体内に入った蜜の一部が消化せぬうちに住まいへ戻ることこそ、私の役目。
倉庫番との口づけもまた、蜜吸いに匹敵するほどの火照りをもたらすものだ。
「羨ましいものだよ。君たちは自由に飛び回って、たくさんの綺麗な花たちとあんなことやこんなことを――」
「でも危険も多いんだよ? 君も知ってるでしょ? あの子が食べられちゃったこと」
言葉を遮りつつそう言うと、倉庫番の少女のような顔がさっと青ざめていった。
嫌なことを思い出させてしまったかもしれない。
「そう……だったね」
反省するような口調で、倉庫番は肩を落とし、すぐさまその目を私に向けた。
「君も気をつけて……私のところにまた蜜を持ってきてよね。無事に帰ってこないと、許さないんだから……」
ずっと住まいで待つこの仲間が危険でないわけではない。倉庫に貯められた蜜を狙う輩が、この住まいへと攻め込んでこないとも言えないのだから。
それでも、何かに囚われて死ぬ可能性は、私の方がずっと高い。だからと言って、この倉庫番を前にあからさまな泣き言を吐き出すつもりもなかった。
もう蜜を含まぬ唇で彼女の頬にキスをすると、私はその場を立ち去った。求めるのは新たな蜜。大人になりたくなかった私が、ただ闇雲に生きるために求める代物。
私を待っている花たちを求めて、飛び立った。
「それが貴女の溜め息の理由?」
純白の肌に不可思議なルビーの目。命奪う雪を思わせるような風貌でありながら、芯から暖めてくれるような温もりと共に、その美しい女性は妖艶な眼差しを私に向けた。
彼女の名前は知らない。けれど、私も彼女も知り合ってもう一ヶ月は経っていた。
この一ヶ月で築き上げた私たちの関わりは、すでに果てしなく深いものになっていた。虫や花の世界にとって、一日自体がとてつもなく重たいのだから仕方ないだろう。
彼女は花。野生花と呼ばれる精霊。たくさんの蜜を抱えて虫の訪れを待っている美しい花の女性。
嫌々大人になった私が生まれて初めて蜜吸いをした相手だ。不慣れな私を優しく導き、この神聖な儀式の素晴らしさを直接的に教えてくれた人生の先輩でもある。
彼女は私を早くも気に入り、いつだって訪れを歓迎してくれる。最初は緊張していた私も、いまではすっかり彼女の虜だった。彼女の温もりは花の中でもひときわ心地いい。それに、時々綺麗な歌声を聞かせてくれるのも大好きな理由の一つだ。
柔らかな膝を枕に寝そべりながら、私はため息混じりに返答した。
「君は自分が生まれてきた理由、考えたことないの?」
案の定、彼女は困惑した表情を見せた。
生まれてきた理由なんて考えるわけがないだろう。これまで接してきた花達は皆、私の事を風変わりだとからかうように笑ったものだ。または、女王という確かな主に守られた居場所を持っている者特有の余裕から来るものなのだと分析する者までいた。
言われてみれば確かに、花たちにとってみれば女王という存在は恐ろしく頼れるものだろう。
月の森に暮らす野生花の暮らしは甘美なだけでは済まされない。この女性だって、何度か危ない目にあったことがあるのだという。彼女たちの蜜を求める者の中には乱暴な者もいるのだ。その者たちは花がいくら泣き叫んだとしても、蜜吸いを止めず、ついには枯らしてしまう。
私が当てにしている花の中には、もう枯れてしまったと噂される者もいる。大人になってそう長く経つわけではないのに、その数は一人ではない。
犯人は大抵決まった種族の者だ。
――胡蝶。
その種族名を思い浮かべ、何度か見かけたその姿を思い浮かべた。
善人というわけでも、悪人というわけでもない。彼らは私たち蜜蜂と同じように、この森に住んでいる虫だ。それ以上でも、それ以下でもない。
ただし、胡蝶には我々と違う特徴がある。
それは、一目見ただけであらゆる者を魅了してしまう恵まれた容姿だ。
私も胡蝶の血を引く者を何度か見かけたことがある。羽化する前の彼らはさほど目立つわけではない。幼子の愛らしさは持ち合わせていても、それ以上踏み込んだ美しさを持ってはいない。だが、蛹として眠り、羽化した後の美しさは息を飲むほどのものだ。
初めて大人の胡蝶をこの目で見た時、私もまたその美しさに息を飲んだものだった。
彼らには美しい花たちを魅了する力すら持っているらしい。そうであっても不思議ではなかった。だって、彼らはライバルであるはずの私さえも一瞬で魅了してしまったのだから。
働き蜂の姉たちに聞けば、私と同じように胡蝶に魅惑されたことがある者は大勢いた。女としてその美しさに憧れたり、嫉妬したりする者が多かったが、中には生まれ変わったら胡蝶ではなく花になって彼らと蜜吸いをしたいと願う者もいた。
そう、胡蝶はあらゆる者を惹きつける。
誰もが胡蝶の魅惑に敵わず、誘いを断れなくなってしまう。そんな己の魔性に早くから気付く彼らは、悪魔のように成り果ててしまう者が多いのだ。
その悪魔と成り果てた胡蝶の一人によって、今、私の頭を撫でてくれているこの花の女性は囚われたことがあるらしい。
「私が生まれたわけは、誰かと蜜吸いをして種子を受け取り、子供を産むためだけよ」
淡々とした口調で花の女性は言った。
私には経験できそうにない御役目の話。
種族の繁栄という点では、彼女の言葉は何一つ間違ってはいないのだろう。私が聞きたかったのはそういう事ではなかったのだが、仕方ないだろう。
彼女は疑問になんて思わないのだから。
「もう何人か子供は産んだの。でも、きっとまた産む事になるでしょうね。その時は貴女の運んだ種の子だといいわね」
直接的な言葉に思わず身体が火照った。
こんな事で恥ずかしがるなんて、まだまだ私は大人になり切れていないのかもしれない。そもそも、大人になりきれる日が来るのかも分からないのだけれど。
まどろんだ空気の中、ふいに彼女の手が私の唇に触れた。
途端に広がったのは甘い味。先程存分に貰ったせいか、あまり濃厚ではないのだけれど、それでも安心感のある素晴らしい味だった。その味に酔いしれる私を抱き寄せると、彼女はそっと指を離し、唇を重ねてきた。
蜜吸いは虫が一方的に花の蜜を吸うだけではない。花が虫の心を捕える為に、自らの蜜を流しこむときだってある。
私より長く生きているこの花の女性は、その技に長けていた。
蜜の味で頭の中が真っ白になっていく前に、彼女は唇を離した。
「どう? 少しは気分が楽になった?」
訊ねられて、私は口籠る。
蜜を与えられれば、難しい事はあまり考えられなくなる。この甘さに酔いしれ、快感の上に漂っていることしか出来なくなってしまう。
――けれど、これでいいのかもしれない。
私は何故生まれたのか。
そんな事をどれだけ考え、どんなに高尚な答えを得られたとしても、私の立場は変わらないし、毎日の仕事も変わらないのだから。
分からなくてもいい。そう思うと少しだけ気が軽くなった気もする。
「うん」
そっと笑みを返し、私はふと空を見上げた。
動けぬ木々の生い茂る森の上空。照りつける太陽の傾きを見つめた。そろそろ、帰らねばならない時間だった。唄をまだ聞いていないのは残念だけれど、また明日来た時に頼めばいい。
蜜による気だるさに抗いつつ起きあがると、花の女性の手が止まった。
「帰るの?」
短く問われ、私は頷く。
すると、彼女は少しだけ寂しげな表情を見せた。
「そう、気をつけてね」
優しい言葉が温かかった。
私の心配をしてくれる人なんて、倉庫番かこの女性くらいだろう。二人もいる時点で恵まれているのかもしれないと思うと、尚更、嬉しくなる。
「ありがとう、君も、乱暴な胡蝶には気をつけてね」
そう言い残して去ろうとしたその時、ふと、女性が私を呼びとめた。
「待って――」
振り返ってみれば、彼女は眼を泳がせ、言葉を探している。
――何だろう。
首を傾げる私をしばらく見つめた後、彼女は静かに首を横に振った。
「御免なさい、何でもないわ」
諦めたのだろう。そうと分かる表情だった。
「この辺りには蜘蛛の巣がいくつかあるらしいから気をつけてね」
結局、そんな忠告だけに留まってしまった。
◆ 月下美人の女性
結局、今日も言えず終いとなった。
若くて瑞々しい姿の蜜蜂の背中を見送りながら、私は人知れず悔やんでいた。
名前も持たぬ蜜蜂。女王陛下が産んだ沢山の卵の中から孵った独りに過ぎない女。子を産むことも出来ず、王国の為に沢山の者と蜜吸いをして食糧を運ぶ仕事をさせられている彼女。
蜜蜂という者はだいたい似通った姿をしているものだ。
胡蝶とは違って目を見張るほどの美しさはないけれど、その代わり、胡蝶にはないような繊細な触れあいをしてくれる者たち。魅了して花を支配してしまうのが胡蝶であるけれど、蜜蜂たちは飽く迄も対等に私たちを扱ってくれる。
――それに。
私は個人的に蜜蜂と言う種族の者に思い入れがあった。
昔、私がまだ花開いたばかりの頃、胡蝶の一人に言いくるめられて囚われてしまった時の事だ。どんなに懇願しても、枯れ果てるまで蜜吸いを止めないつもりであっただろうその胡蝶の娘に、私はろくな抵抗一つ出来なかった。意識も薄れ、このまま死んでしまうのだろうと絶望しかけたその時、私と胡蝶の間に割って入ったのは、一人の蜜蜂だった。
胡蝶を追い払ったその名もなき蜜蜂は、助け出した私にすぐさま蜜吸いを要求してくるようなことはせず、体力が戻るまで安全な場所に匿ってくれたのだ。その後で、十分、私の体力が戻った頃を見計らって蜜吸いに至った。その時だって、常に私の体調を労わってくれるような人だった。
あの時から、私は蜜蜂に恋をしていた。
でも、その蜜蜂はもう何処にもいないらしい。
――彼女は死んだのよ。お節介の向こう見ずだったから。
残酷な事実をもたらしたのは、かつて私を枯らそうとした胡蝶の女だった。
私にとっては恐ろしい再会を果たした理由は、その胡蝶が私を探していたから。どうやら彼女こそがその蜜蜂の死んだ理由であったらしい。
蜜蜂の最期の頼みで私に言葉を伝えに来たのだ。
――本当に馬鹿な人。花蟷螂に捕まって死ぬだけのわたしを助けようだなんて。
伝える事を伝えた後で、涙を堪えながらそんな事を言っていた彼女の顔は今でも忘れられない。
――本当に馬鹿な人よね。わたしにはどうしても助けてあげられなかったのに。だから、放っておいてって言ったのに……。
美しい顔を歪ませながら、彼女はいつまでも涙を堪えて蜜蜂を罵った。
それからしばらく、あの胡蝶も見ていない。別の虫が持ってきた噂によれば、彼女によく似た胡蝶が、美しく風変わりな雰囲気の花の女に手を引かれ、何処かへと連れ去られていくのが目撃されたらしい。それ以降、彼女の消息は分からない。
きっと死んだのだ。
どんな最期であれ、目撃されないのならばそれ以外にないだろう。
虫の最期なんてそういうもの。
それでも運のいいものは生き延びる。私もまた運のいい一人だったらしい。長く生きれば思わぬ出会いを果たしてしまうものだとつくづく思った。
それが、今去っていった彼女。
蜜蜂が蜜吸いに訪れる事なんて珍しくはない。彼女が生まれた王国の者だって、これまで何度か来た事があった。けれど、彼女は初めて会った時から忘れられない存在だった。
似ている。
姿だけではない。話し方と雰囲気。違うとすれば、少しだけ弱気な所だろうか。だが、それでいい。それで十分だ。私の恋した蜜蜂は勇敢さで死んでしまったのだから。
でも、弱気だからといって長生きできるわけではない。
働き蜂はただでさえ短命なのだ。彼女とも別れる日が来るだろう。私が先か、彼女が先かというだけ。それを思うと切なかった。
――どうして生まれてきたのか。
あの子が残して言った質問がふいに頭に浮かんだ。
考えたことがないわけではない。
かの蜜蜂の死を聞かされた時、胡蝶の噂を聞いた時、私は何度もその意味を探り、そして諦めた。蜜を与え、種を受け取り、子を放つことだけが私の役目。そう結論付けるのが一番楽だった。
生まれた意味なんて分からないままでいい。
ただ、私は出来るだけ長くあの若い蜜蜂と話したかった。
たとえ彼女が王国にとって……女王陛下にとって、大勢の子供の一人に過ぎなくても、私にとっては違う。遥か昔に風のように去ってしまった人の幻影。既に閉じてしまった夢の続きへと誘う案内人のようなもの。
今の私にとってはそんな存在だった。
分かっている。彼女はあの女性ではないのだ。私を助けてくれた勇敢な蜜蜂ではなく、声と雰囲気が似ているだけの気弱な働き蜂に過ぎない。
それならそれで、よかった。
彼女の事をもっと知りたい。初めて会った日以降、彼女とは何度も会話を重ねてきたけれど、まだ知り尽くせていない気がした。もっと共に過ごし、もっと話したい。
こんなに一人の虫に関心が高まるなんて、あの女性以来のことだった。
多ければ一日に十人ほどが蜜を貰いに来る事もある。
どんなに隠れていても、私の身体に流れる蜜の香りは風に乗って運ばれ、虫たちの敏感な鼻を刺激してしまうらしい。
その為、あのお気に入りの蜜蜂を送り出した後も、私は一人の胡蝶の相手をする羽目になっていた。
羽化したばかりの娘。少女と呼んでもよさそうな容姿。美しいのは同じだが、私を殺そうとまでしたあの胡蝶とはあまり似ていない。好奇心が無駄に高くて何処か危なっかしい彼女は、そう長生き出来ないだろうと薄々ながらも感じさせる。
だから、私はこの少女には余り深入りしないようにと自分に言い聞かせていた。
そうしなければ別れの時が辛くなる。年長者として蜜吸いを優しく指導し、他所に放つだけの花として接しなくてはと思わざるを得ない。それなのに彼女の方は妙に私に懐き、どんな場所に隠れていても見つけ出して蜜をせがんで来るのだ。
そんな胡蝶が今、私の腕の中にいる。必死に私の身体に吸い付き、蜜を吸っているのだ。きっと他所ではあまり蜜を吸えていなかったのだろう。大して濃くもないはずの蜜にさえ酔いしれるほど、彼女は飢えていた。
私の方は至って冷静だった。
蜜吸いは花にも多大な快楽をもたらすはずのものだけれど、この胡蝶は未熟である分、自分が酔いしれるので精一杯になってしまう。その上、胃も小さいのか私が枯れてしまうような心配はない。だから、いつだって私は意識を乱されることなく、一方的に酔いしれていく彼女を観察する事が出来た。
気を抜けば可愛いらしく思ってしまう。
ある意味で危険な存在には間違いない。
「美味しい?」
そう訊ねると、胡蝶の少女は潤んだ目で私を見つめた。
何もかもあの失踪した胡蝶とは違う。そこが辛うじて相手を出来る特徴でもあったし、不安なところでもあった。きっと彼女ならば簡単に花蟷螂に騙されることだろう。私に初めて近づいてきたときだって、遠慮も警戒もなく飛び込んできたのだから。
「美味しい……。お腹空いてたの……。今日は一人も捕まえられなくて……」
「だからって前みたいに飛び込んで来ては駄目よ。貴女のような子を誘いこんで食べてしまう人はいっぱいいるのだから」
「うん……」
諭したところであまり意味はないだろう。
一応は頷いたけれど、今の少女は蜜吸いから得られる快楽を受け止めることで精一杯だ。再び外の世界へと飛び立てるまでにはまだ時間を要するだろう。胡蝶の全身を指で触りながら、私は静かにかの蜜蜂との身体付きの差を感じていた。
この森には虫を食べる虫や花が幾らか存在する。
そのような肉食者たちは自分以外の虫であれば何だって食べる者なのだが、とりわけ胡蝶は好まれるらしい。その理由は見た目の美しさが大きいが、豊満でバランスのいい身体付きと食み心地であるのだと聞いたことがある。
愛らしい胡蝶を捕えた肉食者は、わざと止めを刺さずにぎりぎりまでその時間を愉しむらしい。
胡蝶の魅惑が逆に作用し、肉食者たちを狂わせてしまう為であるとか。
私を枯らそうとしたあの胡蝶もまた、そんな末路を辿ったのだろうか。そして、今、腕の中にいるこの胡蝶もいずれは――。
少女を撫でていた手が止まり、思考も止まる。
末路の残酷さで言えば、蜜蜂だって変わらないし、私も同じようなものだろう。
花の末路の多くもまた寿命なんかではない。乱暴な虫によって蜜を吸い尽くされることだ。かつて私を枯らそうとしたあの娘のような性格の者に見つかれば、今度は間違いなく殺されるだろう。あの時助けてくれた蜜蜂は何処にもいないのだから。
そうだとしても、あまり怖くはなかった。
誰よりも長く生きたいだなんてもう思わない。顔見知りが消えていく感覚をこれ以上、味わいたくはないのだ。出来る事なら、あの若き蜜蜂よりも先に死にたい。この胡蝶より先は無理にしても、あの若き蜜蜂には私よりも長く生きて欲しい。
「姉さん、どうしたの?」
手を止めたままじっとしていたからだろう。
胡蝶の少女が不安げに私を見つめていた。
「具合悪いの? 大丈夫?」
その問いに思わず笑みが漏れた。
そんなわけない。この胡蝶が吸っていった量なんて、他の者が吸っていく量の半分にも満たないのだから。それなのにそんな心配を私に向けるのがおかしくて、私は胡蝶の少女を抱きしめた。
深入りしてはいけないと思っていても、肌を重ねる回数が増えれば増えるだけ難しくなっていくものだ。
「大丈夫よ。ちょっと考え事をしていただけ」
「そうなの……?」
いまだに不安げに私を心配する胡蝶の少女の頬を撫で、私は言い聞かせる。
「そうなの。それよりも貴女、今の私みたいに外で考え事なんてしては駄目よ。油断は命取りなんだから」
すると少女は焦れったそうに私の愛撫をはねのけた。
「そんなの分かってるよ。いつまでも子供じゃないもの。今日だって、胡蜂をからかってやったんだから」
「胡蜂……?」
蜜蜂とは違って好戦的な精霊。あまりその姿を見たことはないが、一番近くにある彼らの王国は、この辺りにある蜜蜂の王国と冷戦状態にあるらしい。いや、そんなに対等な話ではなく、胡蜂の好意で蜜蜂の女王陛下は生かされているのだと噂されていた。
いずれにせよ、あまり関わらない方がいい輩に違いない。
「駄目よ、そんなことしちゃ。彼女たちは危険な人達なのよ?」
「だって、向こうから先にからかってきたのだもの。もともと狙いはわたしじゃなくて、他種族の蜂だったみたいだし」
「他種族の蜂……?」
「あれは多分、蜜蜂ね」
息が止まりそうになった。しかし、胡蝶の少女はそんな私の様子にも気付かずに続ける。
「たくさんの蜜蜂が連れ去られていたわ。戦があって一つの王国が滅ぼされてしまったみたい」
――連れ去られて……王国が滅ぼされて……。
この子は……この胡蝶の少女は無駄な嘘をつくような性格ではない。その目で見た光景を何気無くそのまま語るような子。きっとその光景も、確かに起こったことなのだろう。
この辺りにある蜜蜂の王国なんて、一つだけだ。
つい数時間前に送り出したあの蜜蜂の若者が生まれた王国だけ。
この子は嘘を言っていないだろう。けれど、信じたくはなかった。
「……そんな……嘘よ」
「嘘じゃないわ。本当にこの目で見たんだから」
「だって、胡蜂の女王は蜜蜂の女王を襲わずにいたのに……」
「その辺り、わたしにはよく分からないのだけど、確かよ。だって、胡蜂たちが言っていたもの。早く蜜蜂の女王を連れ出さなくてはって」
では、本当に――本当にあの蜜蜂の王国は滅ぼされてしまったのだ。恐らく、私と別れた直後に。
わなわなと恐怖が込み上げて来て、私は思わず少女の肩を掴んだ。
「ねえ、教えて。胡蜂に囚われていた蜜蜂にはどんな娘がいた……?」
「どんな娘って言われても……」
困り果てる少女の表情に、ふと我に返った。
ああ、分かるはずがない。この胡蝶が自分と蜜を交わす事もないような蜜蜂の顔なんて、いちいち覚えているはずがないだろう。
けれど――。
「姉さん、どうしたの? どうして悲しそうなの?」
心配そうな胡蝶の少女に上手く答えてやることも出来ず、私は両手で顔を覆った。
蜜蜂の一生にとって王国は大前提となる居場所。その居場所を崩壊させられれば、生き残れたとしても虚しいだけだ。私の恋したあの若い蜜蜂の未来は、私が恐れていたどんな未来よりも残酷なものとなってしまったのだ。
けれど、せめて。
せめて、私は願った。彼女が胡蜂に捕まっていませんように。どうにか逃げ切り、もう一度私の元に訪れてくれますように。
胡蝶の少女に見つめられながら、儚い望みを女神に託しながら、私は遠慮もなく涙を流し続けた。
◆ 王国の崩壊
倉庫番に蜜を渡す際、私はいつものように少女っ気の抜けない友に蜜吸いの話をした。
初めて蜜吸いというものを教えてくれた女性の話は、彼女にとっても興味深いものであるらしい。それもそうだろう。彼女は一度も倉庫を離れたことがないのだ。数多の採集係と口づけを交わし、蜜を受け取って加工することで一日が終わってしまうのだから。
「いいなあ、一回でいいから私も花と蜜吸いをしてみたい」
「じゃあ、今度一緒に外に行ってみる? 倉庫番なら他にもいるわけだし」
軽い気持ちでそう言ってみたのだが、倉庫番はあからさまに嫌な顔をして首を横に振った。
「駄目よ。そんなことしたら女王陛下を失望させてしまうわ。それに、こうして話を聞かせて貰えるだけでも満足しちゃうしね。……まあでも、次にまた蜜蜂に生まれるのなら、今度は採集係になりたいかも」
なるほど、単なるぼやきに過ぎないというわけか。
きっと彼女は大人になることに恐怖など抱かなかったのだろう。確かに、蜜蜂の子供はあまり多くの事が出来るわけではない。自由に動くのも億劫だし、大人たちに喰わして貰わねば死んでしまうかもしれない。あくせく働く大人をずっと目にしていれば、自然と自分も働きたいと思うようになるし、その結果、母に感謝されるのだったら悪い気もしない。
それでも、やっぱり彼女とも私は違うようだ。
きっと倉庫番は自分が生まれた意味なんてあまり考えない事だろう。考える暇もないほど、働くのに必死なのだろう。
とはいえ、私も暇で仕方がないというわけではないはずなのだけれど。
延々と思考を巡らせていると、倉庫番がすっと立ちあがった。
「さて、と。今貰った蜜も加工しなきゃ。君もそろそろ次の花のところに行ってあげなよ」
諭されるように言われ、私も立ちあがる。
そういえば今日はまだあの白い花の女性としか蜜吸いをしていない。次は誰を当てにしようか。そんな事を考えつつ倉庫番に一旦別れを告げようとしたその時、ふと遠くから奇妙な声が聞こえた気がした。
城の入り口付近だろうか。この倉庫がある場所からそう遠くはない。
気のせいかと一瞬思ったものの、倉庫番もまた表情を変えてそちらを見つめた。
「何かしら?」
そう言い終わるか終わらないかの内に、乱暴な足音が聞こえてきたので、私は思わず腰より下げていた短剣を抜いた。
現れたのは、蜜蜂の姉妹の一人。
だが、彼女は一心不乱にこちらに走り、大声で叫んだ。
「大変だ……! 侵入者……! 攻められて――」
錯乱している。無理もない。何故なら、彼女の肉体は見るも無残なほどにぼろぼろにされていたからだ。血だらけで傷だらけ。どうにか逃げてこちらに危険を知らせに来たのだ。
「侵入者……?」
倉庫番が目を丸くしている前で、彼女はついに力尽きてしまった。
何が攻め込んできたのか。答えはすぐに訪れた。この姉妹を追いかけて侵入者が三名ほど、私たちの元へと迫ってきていたからだ。
その姿を一目見て、私は息を飲んだ。
「胡蜂……っ!」
私たちよりもずっと力のある王国の者たち。
しかし、腑に落ちない。彼女たちが何故、此処を攻め込んだのだろう。我が王国と彼らの王国はお互いの存在を認めたうえで長年平穏を保ってきた。我らの母が彼女たちの女王陛下に気に入られていた為だ。同じ魔女同士、共に長生きをしている仲。ただの虫ではない二人の間には、蜜蜂と胡蜂という種族を越えた絆があったはずだ。
それなのに、何故。
茫然とする私たちに向かって、胡蜂の女戦士たちは言い放つ。
「まだ此処にもいたか。大人しく我らに従って貰おうか」
「何を……言って……」
倉庫番が怯えている。彼女を庇うように前に立つと、胡蜂たちは眉を顰めた。
「その短剣を捨てろ」
一番前にいる一際目立つ胡蜂が私に言った。
「そこに倒れている姉妹のようにはなりたくないだろう? 武器を捨て、我らと共に来るんだ」
「そうはいかない。此処は私たち蜜蜂の王国だ。私たちが動くのは女王陛下の為だけだ。お前たち部外者の命令なんて聞けるか」
意気込んでは見たものの、私も震えてしまいそうだった。
相手は胡蜂なのだ。長年、胡蜂なんて脅威だとも思っていなかったけれど、他所では胡蜂は蜜蜂を食べることもあるらしいと聞く。この女たちと戦って勝つには、こちらには倍以上の仲間の数が必要なのだ。それなのに、ここにいるのは私と倉庫番だけ。
内心怯えているのが分かるのだろう、胡蜂の女たちはにやりと笑むと何やら顔を見合わせ、もう一度、私たちへと鋭い視線を向けた。
「その女王陛下の為でもある。気の毒だが、お前たちの女王は既に我らの手中にある。お前たちの王国も今日で終わりだ」
「女王陛下が……?」
悲鳴のような声で倉庫番が嘆く。
私に至っては言葉すら出なかった。母が彼らの手中に? それはつまり、女王を守っていた全ての姉妹が負けたということではないのか。一体いつの間に。どうして。
「君たちの女王は私たちの女王に手を出さないんじゃなかったのか……?」
絶望と共に呟くと、胡蜂の一人はふと表情を和らげた。
「ああ、そうだったね。だが、それはもう昨日までの話だ。状況が変わったんだ。心配せずとも君たちの女王陛下を殺したりはしない。此処ではなく我が王国で一生過ごして貰うことになったのだ。その方が安全だからね」
「そんなの、女王陛下の御意志なわけないわ!」
倉庫番が泣き叫ぶ。
その通りだ。王国が終わってしまうなんて、そんなことを女王に生まれた者が望むわけない。
しかし、胡蜂たちの眼差しは何処までも冷酷なものだった。
「そうであろうと、お前たちの女王は我らが母に逆らえない。これからは我らが母の庇護の元、ただの魔女として生き長らえるだけの余生を送ってもらう」
「そんなの酷い。女王を何だと思っているんだ!」
我が王国の顔を愚弄された怒りが込み上げ、短剣を握る手に力が籠る。
しかし、その怒りのあまり私が飛び掛かりそうになる前に胡蜂たちは一斉に槍を私に向けてきた。
「さて、お前たちの女王の話はそこまでだ。本題に入ろう」
嫌にねっとりとした言い方で彼女たちは私たちを見つめる。
「お前たちには二択やる。ゆっくり考えて選ぶといい。一つは、武器を捨てて大人しく降伏し、生きたまま我らが王国に来ること。もう一つは、此処で我らと戦い、死に絶えてから我らが王国に来ること」
倉庫番が答えに詰まり身を竦めている。
いきなりの詰問に私もまた一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「ついて行ったらどうなるんだ……」
やっとのことでそう訊ねれば、胡蜂はにやりと笑って答えた。
「我らの女王が囲うのはお前たちの女王だけだ。この先、女王ではなくなるあの魔女には国民など必要ない。お前たちには我らの王国の貯蔵庫に行って貰うことになるだろうね」
それは、つまり――。
真意を受け止めるや否や、私はすぐさま倉庫番の腕を握った。私たちだけで女王を助けるなんてもはや不可能だ。王国が滅ぶ未来は避けられないだろう。となれば、もはや私たちに出来る事は、私たち自身の未来を守ることだけ。
短剣を構えたまま、私はじっと胡蜂たちの動きを見張った。
そんな私の反応に、胡蜂の一人が笑みを深めた。
「やっぱり、殺されるのは怖いよな。でも、安心して。苦しませたりしない」
来る。
その空気を読んで、私は倉庫番の身体を引っ張って動きだした。相手は三人。逃げるだけで精一杯だろう。手に握る短剣は相手の命を奪うものではなくて、飽く迄も逃げ道を作るためだけのもの。ただ真っ直ぐ逃げ道を目指して、私は走った。
しかし、行動も虚しく、足元は崩されてしまった。
胡蜂の一人に倉庫番の片腕が捕まえられてしまったのだ。あと少しで逃げ道に到達するという時だった。倉庫番の身体ごと引っ張られ、私は慌てて握る手と踏ん張る足に力を込めた。
「放せ!」
そう叫んだところで放してくれるわけもない。
倉庫番が痛がっている。
そのくらい強い力で胡蜂は引っ張っているのだ。彼女たちにとってみれば、ここで倉庫番の身体が千切れたって別にいいのだろう。
でも、駄目だ。手を離すのだけは。
「御免、私、役立たずで……」
その時、倉庫番が私に言った。
「君だけでも、逃げて」
身体の力を抜き、抵抗を止めた。その途端、胡蜂の強い力に負けて、倉庫番の腕が私の手からするりと離れていってしまった。
――そんな。
逃げ道には私だけ。
倉庫番は胡蜂に抱かれたまま震えている。もう彼女が解放されることはないのだろう。貯蔵庫に連れこまれた後の事なんて、想像もしたくない。
それでも、倉庫番の目は、私だけを見つめていた。
「逃げて……」
当り前の世界。有難みすら実感もなかった住まい。そんな場所であるはずなのに、どうしてこんな事になってしまっているのだろう。
「早く逃げて……!」
倉庫番の叱咤のような叫びに押され、私はその場に背を向けて逃げた。情けなくも、逃げるしかなかった。
捕まった倉庫番がどうなるのか。
ただ逃げるしかない自分はどのくらい情けないのか。
深く考えている余裕もなく、私は闇雲に出口を目指した。倉庫から出口まではそう遠くなかったはずなのに、この間が恐ろしく長く感じる。どうやら本当に我らが王国は崩壊してしまったらしい。所々に残るのは血痕で、時折、見たくもない肉片のようなものが落ちている。きっと胡蜂と戦って散っていった姉妹の遺したものだろう。
しかし、はっきりとした遺体は見つからない。生きている者は勿論、あんなに居た兄弟姉妹たちの気配すら感じられない。
「一匹逃げたぞ!」
背後から大声が聞こえ、行く手で何やらざわついた音が聞こえた。
間違いない。出口も塞がれている。女王をはじめ全ての蜜蜂を運び出した後で、倉庫のものまでを殻にするためだろう。まだまだ胡蜂たちは沢山いるらしい。
それでも、突破するしかない。
食べられるなんて絶対に嫌だった。
そして、やっと出口は見えてきた。やはり、数名の胡蜂が待ち構えている。彼らには私の姿が何に見えているのだろう。彼女たちともあまり変わらぬ外見をしているというのに、ただの肉の塊にでも見えるのだろうか。だとしたらなんて恐ろしい人たちなのだろう。
でも、その恐ろしさに身を竦めている場合ではない。
「そこを退けっ!」
短剣を握りしめて私は叫んだ。
初めて叫んだに等しい、魂からの怒声と共に、私は胡蜂たちの待ち構える出口へ――限りなく狭い未来への逃げ道へと飛び込んだ。
――ああ、せめて最期にあの女性の子守唄は聞きたかった。
そんなことを思いながら。
◆ 純白の子守唄
そういえば、今日はこの唄を歌ってあげなかった。
そんな後悔を胸に抱きながら、私はもう何時間も同じ唄を歌い続っていた。
少女の頃から慣れ親しんだ子守唄。母より教えられ、私も子供たちに教えた子守唄だ。
けれど、この唄は私にとってただの子守唄ではない。初めてこの唄を褒めてくれたのは、母でもなく、我が子たちでもなく、今は亡きかの蜜蜂だったのだ。
そして、もう一人、この唄を気に入ってくれた者がいる。
名もなき蜜蜂の若者。
初めて彼女に蜜吸いを教えた時、その快楽に呆気なく溺れてまどろんでいるのを撫でながら、何の意図もなしに歌ったところ、思いがけずその心を捕えてしまったらしい。
以来、彼女との蜜吸いの後はたびたびこの唄を歌ってあげたものだった。それなのに、今日に限って私は歌いそびれてしまったのだ。
帰る場所を失ってしまった彼女のために、私は唄を歌い続けた。探してくると申し出た胡蝶の少女は今頃何処にいるのだろう。無理をしなくたっていい。私の恋した蜜蜂が生きている可能性なんてほぼ無いだろう。
日も落ちる頃になれば、蜜蜂の王国に起こった悲劇はあらゆる種族の者たちに噂されるようになっていた。突然の秩序の乱れに恐れを成す者もいれば、人生とはそういうものなのだと明日は我が身を疑う者もいた。どちらにせよ、彼らのほぼ全ては他人事に過ぎないのだと思っているだろう。
胡蜂は恐ろしい。
だが、多くの蜜蜂が捕まったのならば、しばらくは飢えに苦しまないことだろう。悲しいことだけれど、犠牲となった蜜蜂たちに同情している者よりもずっと、その事実にほっとしている者の方が遥かに多かった。
月の森はどうしてしまったのだろう。
誰かが言っていた。
この森には危険な魔女がいるのだと。他の魔女たちを捕えて自分のものにして、どんどんその力を大きくしていっている者がいるのだと。そして、次に狙われたのが蜜蜂の王国を取りまとめる女王陛下であったのではないだろうかと。
真偽のほどは分からないけれど、胡蜂の女王は今まで踏み込まなかった領域にまで足を突っ込んでしまったのだ。
蜜蜂の女王陛下は……私の恋した蜜蜂たちの母親は、もうすでに胡蜂の女王の元に連れて行かれてしまったらしい。これからは女王陛下ではなくただの魔女として、胡蜂の城に幽閉されてしまうのだろう。そして、囚われの身となった魔女の子供達は、すべて胡蜂のための食糧にされてしまうらしい。残忍に思ってしまうけれど、強い者が弱い者を喰うのがこの森の掟。
私の愛した蜜蜂はどうなったのだろう。
彼女もまた残酷にも食べられてしまったのだろうか。
いや、そんなわけはない。確かな事が分からない限り、私はどうしても諦められなかった。彼女の生存への期待を捨てられないまま、無理をしなくてもいいと願いながらもあの胡蝶の少女が何かしらの手掛かりを掴んで帰って来ることを期待していたのだ。
だから、私は何度も歌い続けた。不思議と喉は枯れず、日が暮れても、途方に暮れることはなかった。
この歌声が好ましくない虫を呼ぶかもしれないという恐れはあまりなかった。ただ蜜蜂が、もしくは、彼女に関するものを手に入れた胡蝶の少女が、きちんと私の元に帰ってきてくれることだけを期待して、歌い続けた。
そして、もう何度目かの歌い終わりを迎えたかという頃になって、ようやく私の前に人影は現れた。
はっと我に返ってその人影を見つめたまま、私はしばし固まってしまった。
「お願い……」
人影を月の光がぼんやりと映し出す。
柔らかなその光に輪郭が浮かび上がり、表情と全身の様子が見えてきた。
「お願い、続きを歌って……」
ああ、なんということだろう。
そこにいたのは私が待っていた蜜蜂の娘だった。
急いで駆け寄り抱きとめてみれば、べっとりとしたものが私の衣服や肌を汚した。血だ。不快なんかではなかったけれど、その傷の酷さに息を飲むしかなかった。
無事でよかった、と言えるのだろうか。
その命が何処かへ逃げ出さぬよう、腕のなかに抱え込んでいるので精一杯なほどだった。
「唄が聞きたいの……」
朦朧とした意識の中で、蜜蜂は言った。ぐらりと力を失う彼女を抱きとめたまま、ゆっくりと私の膝の上に寝かせてやった。朝、こうしていた時には予想もしなかった状況だった。
仰向けに寝たまま、蜜蜂は私を見上げ、薄っすらと涙を浮かべていた。
「私……何も出来なかった……。母も兄弟姉妹も住まいも失って、一番仲の良かった友を見捨てて逃げてしまった……。死ぬのが怖い意気地なしだった……」
「意気地無しなんかじゃないわ。仕方無いことでしょう? だから、自分を責めないで、じっとしていて――」
必死な想いでそう言ってやると、蜜蜂は弱々しい笑みを見せてくれた。
「胡蝶の女の子がね……教えてくれたの……君が探しているって……そして、唄が聞こえて……」
そう言って、苦しそうに表情を歪める。
どうにかならないのだろうか。どうしたらいいのだろう。確かにここに彼女はいるのに、今にも遠くへ行ってしまそう。そんなのは、嫌だった。
「お願い……唄を聞かせて。君の歌声を――」
「分かった。歌うから……歌うから!」
だから、お願い――。
冷たいその手を両手で温めながら願う私に、蜜蜂は苦しみの中でもどうにか嬉しそうな表情を浮かべてみせた。
「ありがとう……うれしい」
今日はこの唄を歌ってあげなかった。
いつも蜜吸いの時は同じように膝枕をして歌ってあげていたのに。
小さく息を整えて、私は蜜蜂を見つめた。しっかりと支えていなければ今にも消え去ってしまいそうなその娘をしっかりと見守りながら、母より譲られしその子守唄で包みこんだ。
このまま時が止まってしまえばいいのに。
切なる願いを込めて、私は蜜蜂に音楽を与え続けた。周囲の様子なんてもはや何も見えない。蜜蜂もまたじっと私だけを見つめていた。
それは危険な森の中で行われる無謀な態度。
今の私たちの姿は、いや、私の姿は、どれだけ滑稽なものだろう。
それでも、私は止めなかった。彼女が欲しているのだから止められなかった。
どうか、この私の唄が、哀れな蜜蜂の癒しとなりますよう。そして、この私の蜜が、生死の境を歩む蜜蜂のせめてもの支えとなれますよう。
歌いながら懇願する私を、私の膝の上で苦しむ蜜蜂を、空に浮かぶ女神の化身はいつまでも静かに見下ろしていた。厳かな姿で、そして、何にも平等なその姿で,いつまでも、いつまでも輝いていた。