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 ――禍因はこいつだな――

 ユキは憎悪の念を込めて冷淡な声で言い放つ。足元には闇の手が獲物を求めて蠢いていた――


 ――九郎は男性宅の庭の散策に飽きた時、というよりユキに見放されても一人強がって勝手に行動したのが過ちだったと気付いた時――、家を囲った塀の上部がピカッと光り、遅れてズンと短い落雷音。雷鳴が余韻を残す。

 その音に敏感に反応した九郎は反射的に身をすくめ目を閉じた。腹の底に響いてきた音は九郎の体に染み付いている。奴か。奴がとうとう本気で怒ってきたかと覚悟した九郎は薄めを開けて周囲を見渡すが何も変化は無かった。


「なんだ、脅かすなよ」

 と、投げ捨てるように言い終わるや否や、その落雷の本来の意味を思い出した。

 ユキが九郎を懲らしめる時に落とす事以外に別の使用方法がある。本来、そちらが正式な使用方法だったのだが、九郎のあまりにもいい加減な態度に見兼ねた結果の制裁目的での使用が主になっていた事で、当の本人はユキが放つ落雷の正しい意味をすっかり忘れてしまっていた。


「あ。オレを呼んでるのか」


 ――何かあったら雷を落とすから来い。それが合図だ――と、いうユキの言葉を思い出した九郎は慌てて男の家を出た。

 あの音を聞くと嫌な思い出しか無いため行動も迅速になったが、九郎は肝心の落雷が落ちた位置を見ていなかった。

 ユキはどこにいるんだ?場所を特定する方法を九郎は考えた。が、全く思いつかない。落雷という瞬間的に発生する現象を合図に選んだユキに対して、九郎に一切の発言権は無く、いつも九郎は微生物の如く扱われ彼の立場は空気のように無きに等しい。だが、それが言い訳の理由には当然なるまでもなく、取り合えずオレなりの努力を見せてやろうと九郎は決心し、ユキが住宅地へ向かったのをすっかり忘れていた九郎は、勘を頼りに住宅地へと駆け出した。

 長い足は大きく回転して軽やかに地面を蹴った。一歩のストロークが大きいために跳ねるように走っている。風圧で頭髪が針のように尖ってはしなる。あっという間に男の家が背後から消えると、暗闇に慣れていた目は道の中央で鎮座していたユキを捉えた。 

 ユキの白い体は淡く発光し闇にぼんやりと浮かび上がっていた。ユキは前を向いたまま耳を微かに動かし、その動作で九郎が来たことを察した。

「遅い」

「よお。化け猫」

 全力で駆けて来たにも関わらず息一つ乱していない九郎は、ユキの横に立つと精一杯の皮肉を言った。

 ユキの光る体から発せられたジリリという嫌な音を聞き、数時間前に落とされた落雷の記憶が蘇った。そして、今日はもう化け猫って呼ぶの止めよっかな――、と胸の中で呟いた。


「少々面倒な事になりそうだ」

 ユキが言った。何が?と惚けた調子で九郎が真横に座っているユキを見下ろすと、丸型の郵便ポストが視界に入った。街路灯の足元に設置されている、所々に赤いペンキが剥がれた丸型ポストは焦げた臭いを漂わせながら煙を上げていた。ユキはこの丸型ポストを標的に落雷を落としたのだ。九郎はポストを見て少しばかし同情した。

「今、女の家で暴れているんだ――主が。おそらく女に絡ませた闇の手が消えている事に激怒して荒れているんじゃないか?それがただ動揺して暴れているだけならまだ楽なんだが――。どちらにしろ、まぁ奴が出てくるのを待つとしよう」

 九郎が適当に、あっそうと言って女の家を探したが、その家が何処だか覚えていなかった。

 ガラスが派手に割れる音がした。間を置かずに木が折れる音、陶器が割れる音が連続して鳴った。

「おいおい、めちゃくちゃ暴れてるじゃねぇか。まだ家の中におばさんいるんだよな?大丈夫なのか?」

 近くで音がするが特定する事の出来ないでいた九郎だが、玄関扉が開いていた場所を見つけ、そこから明かりが漏れているのを確認した時、ユキが落ち着いた口調で言った。

「大丈夫じゃないだろうな。もうすでに女は主に捕り込まれたのかもしれないし、或いは主が来る前に目覚めてどこかに非難したのかもしれない。その辺りは――もう、どうでもいいんだ九郎。女の事はもう――今は問題にするべきじゃない」

 ユキの非情な意見に九郎は食いついた。

「おいっ!なんでだよ?せっかく助けてやったのにどうでもいいって事はないだろ?そもそもお前が助けろって言ったくせに。あのよぉ、おまえはほんと冷たいよな」

 九郎の言葉にそうだな、と認めてから、

「そうだな、それじゃ仮に――主から女を守るために私たちが慌ててあの家に飛び込んだとしようか。そして女が先程と変わらずに廊下に倒れていたとしよう。おまえならどうする?」

「どうするっておまえ。助けるしかないだろ?」

「そうだな。助けるためにわざわざ闇の手を食い千切ったんだからな。でも、もし主が私だったらそこに罠を張るぞ。そして今度こそおまえを捕らえるだろうな。」

「――――あ」

「闇の手を払ったくらいだ、その女を助けたいという気持ちを利用するのが常套だろう。罠がさっきのアレとは限らないが、なんらかの仕掛けを拵えて待つだろう。さらに焦燥感を募らせるため、わざとああやって派手な音だして暴れるぞ。そうする事で選択肢を狭める事になるからな」

 ユキは淡々と語った。九郎はユキの講釈を聞き終わるとショウショウカンって何?と聞き返したが無視された。

 「我々を足止めした術を思い出せ。あんな気が狂ったような業をやるような奴だ。何を企んでいるかなんて分からないだろう?だから――今はあそこから出てくるのを待つんだ。あの家から主が現れた時は九郎、――――化けて退治しろ」


「――いいのか?」

「おまえの出番だ。準備しておけ。もうこの土地には我々と主しかいないのだからな」

 ユキの言葉を受けた九郎は胸元に収めてある奇妙な形をした骨を手繰り寄せ、口に咥えた。骨の先端に付いていた刃物のごとく鋭利な石は弱った街路灯の光に照らされて淡い紫色や藍色に変化しながら鈍い輝きを反射させた。


 ――音が止んだ。唸るような声と、みしりと板が軋む音。間も無く玄関から何かが弾き出された。


 それは風を切る音を伴い玄関から飛び出ると、低い弾道を描いて地面に叩きつけられた。尚も勢いが止まらずに地面を転がり、やがて停止した。九郎とユキは一目見てそれが助けた女だと悟った。道に投げ出された女は動く事なく地面に果てている。九郎はギリリと咥えた骨を強く噛み締め、眉間に皺が寄ると鋭く研ぎ澄まされた犬歯が威嚇した。


 女の家から――黒い影が姿を現す。


 家の中から漏れた光を背に黒いモノがのろりと現れた。――あの老婆の家から猫を運んでいった男だ。腕をだらりと下げ背を丸め無気力に歩き、女のもとへと擦り寄る。

 男は黒い物体をズルズルと引きずっていた。その音からかなりの重さを感じられた。 

 街路灯の明かりで引きずられた音の正体が、老婆の庭で飼われていた太った猫だと判明する。男の腹から闇の手がうねりながら伸び、漆黒の帯に繋がれた猫は意思無くただの塊となって引き摺られていた。

 男の横顔が街路灯に照らされる。皮膚は艶が無くて乾き青ざめ、闇に侵された目は全体が黒く濁り不気味な眼光を放っていた。男は立ち止まり、身震いし胎の底から吼え猛然と女に襲い掛かろうとした瞬間、――男の体に電気が走った。男は反射的に体を硬直させると顔を上げて電流が流れてきたを見た。


 そこには九郎とユキが立っていた。


 落雷を放ち帯電しているユキは白く輝き、微塵足りとも動かなくなった女を見ていた。九郎は鬼の形相で男を睨みつけていた。

 男は表情を変えずに九郎を見やる。真冬でないにも関わらず男の口から白い息が吐き出されている。九郎は男から視線を逸らすことなく腰を落とし身構えると、男も呼応するかのように同じ態勢になり身構えた。男は二人との距離を計りつつもまだ女を狙っているようだった。その張り詰めた空気を感じ取ったかのようにユキの体からパチッと電気の弾けた音が生じた。それに反応した男は女の心臓めがけて飛びついた。


「九郎!」

 ユキの掛け声に呼応するように九郎の咥えている骨の先端に嵌まっていた石が激しく輝きだした。

「フン!」 

 九郎は首を右から左へと素早く振りぬく。骨の先端で輝く光は九郎の動きをそのまま倣う。九郎は光を操り空中に線を刻むように、光は闇の中で軌跡を描く。

 そして九郎の目の前に真一文字の光線が出来上がった。

 光芒はその軌跡を保ったまま宙に留まる。煌々たる一筋の光の両端に九郎はすかさず手を差し入れる。空中に浮かぶ光線を掴むと、地に向かって一気に引き裂いた。

 大気が振動し、耳を(つんざ)く高周波音を発しながら光は下に向かって割け広がり、一瞬にして九郎の目の前に光の幕が出来上がった。

 揚々と輝く幕に九郎は躊躇無くその身を投げ入れた。


 光はより一層強い輝きを放つと幕の中から眩い光に包まれた犬が飛び出した。

 光輝く犬は空中で一回転すると、男の眼前に颯爽と降り軽く歩調を刻む。男は己の半分にも満たない大きさの光の幕から現れた得体の知れない犬に対し変わらずに敵意をむき出しにする。輝く犬も男を睨みながら軽やかに歩調を刻む。光が跳ねる。

 やがて犬の体を纏っていた光は、それぞれが細かい粒子となり、体を離れて華麗に闇の空へ舞うと、しゃぼん玉が弾けるように消えていった。

 その中から漆黒の体毛を纏った犬が姿を見せた。

「九郎!」

 ユキが叫んだ。

 黒い毛の犬はユキの声に反応し前方に傾けピンと立てていた耳をユキに向け、低く唸った。それが九郎の返事であった。

 暗闇に混ざった体。不思議な石の力で、黒々とした毛の犬に化けた九郎は、それはそこに居るだけで不吉な象徴になり得るといっていい存在感であった。

 九郎は臆すること無く不気味な容貌に変貌した男を見上げた。黒犬と化した九郎の背後では光の幕が細かい粒子となりばらけ、空中に散々と弾け散ろうとしている。ユキは光の消え行く先に立っている黒い犬を視野に捕らえると叫んだ。

「九郎!そこに転がっている猫を引き剥がせ!」

 ――ガァルルルッ!

 九郎が咆哮を上げた。一足飛びで男の懐に入ると地面を強く蹴って男の足元に転がっていた膨れた猫に牙を向けた。だが男襲ってくる九郎に目を向けることなく、俊敏に腰を落として低く構えると腹から伸びている闇の手を両手で掴み腕を大きく回し遠心力で猫を宙に放り投げた。

 猫が浮き上がる際にジャッと地面が擦れる音と空振りに終わった九郎の地面に着地する音が重なる。九郎は続けざまに猫へと襲い掛るが、男は後ろに跳んでかわし九郎との距離を離した。

 男は腹から伸びている闇の手を掴むと、宙に浮いていた威嚇する河豚のように丸々と膨張した猫を強引に引き寄せ、猫を襷掛(たすきか)けのように肩にぶら下げ、猫を自らの背後に隠した形になった。

 九郎は耳を前に立て、鼻に皺を寄せ、腹に響く低い声で唸り男を睨んだ。それに誘発されるかのように男の腹に絡まっている闇の手が騒ぎ出す。

 うねうねとうねっていた闇の手が大きく脈を打つ。段々と強く波打つ度に黒い帯は太く厚くなっていく。

 突然、男が前のめりになり体を震わせ苦痛の形相で呻き(うめき)だした。肩に掛けていた猫がぼとりと落ちた。男の眼窩から全体が黒く変色した眼球が剥き出た。

 ――オオオォォオオォォ

 額に何本もの血管が浮き出て、歯茎という歯茎から赤黒い血が滲み出し口からこぼれて喉を赤く染めていく。

 着ていた灰色のスウェットがみるみる膨れ生地の限界を越えようとした時――、甲高い叫び声と共に男が大きく仰け反る。体が一瞬にして膨らみ、パンと乾いた音。同時にスウェットの灰色の生地と男の肉片が細々と飛び散った。

 破裂した生地がゆらゆらと地面に落ちる。弾け飛んだ肉片がぼとぼとと地面に落ちる。

 男が大きく背を反らした反動で猫が宙に浮く。

 九郎の目にはその光景がスローモーションのように映っていた。

 空気が凍てつき、世界が変わった。どこかの街路灯の電球が割れる。

 肉片が地面に落ちる音が止んだ時、またどこかで電球の割れる音がした。

 男は虚ろな様子で立ち尽くしていた。頭の先からつま先まで漆黒に染まり、脂肪を含んだ肉片は弾け散り、筋肉の繊維と骨だけになった針金のような体へと変貌している。

 飛散を逃れた灰色の生地はまばらに張り付き、それが不気味な模様を醸し出している。 

 異形の者となった男はふらふらと揺れながら九郎を見下ろし、むき出しになった眼球は生気を失っている。

「――闇を取り入れたな」

 九郎の背後でユキが言った。

 ユキの傍には膨張の限りを尽くした猫が転がっていた。男が勢いよく仰け反った際、闇の手で繋がった猫は放物線を描いて、ユキがいる位置まで振り飛ばされたのだ。鞠のように弾んで転がった体はやがてユキの足元で落ち着いた。体の真横から生えた手足は地面に到達出来ず、無駄に伸びているだけ。ユキは男から膨張した猫へと視線を移し言葉を吐き捨てた。


「禍因はこいつだな――」


 猫と男の腹で繋がれた闇の手は千切れ、何本にも分かれた闇のれは次の獲物を求めて無数に彷徨い這っている。 

 千切れた先端は(うごめ)きながらみるみると幼い赤子の手のような形に変化していき、ユキはその中から一本の手に狙いを定めて雷を落とした。九郎は姿を変えた男を睨んだまま雷鳴に対して反射的に身構える。

 雷が直撃した帯は色こそ変わらなかったが焦げた臭いを放ちながら宙に散った。

 猫が――ガアと鳴いた。その膨れ顔に埋まっていた筋のような目がぎらりと見開いてユキを睨んだ。

「正体を現したな――主よ」

「そいつが主なのか?」

 九郎が異形の姿に変わり果てた男を睨みながら言った。異形の者は白い息を吐くだけでただそこに佇んでいる。ユキは自分を睨んでいる主から目を逸らさず、

「こいつが主だ、間違いない。男を操ってこの土地の住人たちを襲い、その魂を自らの腹に蓄えていたのだろう。しかし、自分が動けなくなるまで溜め込むとはとんでもない強欲の塊だな。切り離されたらこのザマだ。九郎――こいつは恐ろしく低脳な物のもののけだ。」

「あの罠もそいつがやったのか?」

「ああ、多分そうだろう。コイツがその者を操って仕掛けたのだろうな。――こんな単細胞が術を知っているなんて俄かに信じ難いが――。九郎!その化け物から目を離すなよ。主から切り離されているが、何をするか分からないぞ」

 九郎は分かったと返事をする代わりに吼えた。

 主は依然肉に埋まった眼をしっかり開いてユキを捉えていた。肉体は微かに震えだし、体中の毛が逆立ち、闇の手が腹以外の場所から、体の至る個所を突き破って伸びようとしている。

 肉体から突き出た手は透明な触手のような状態で、透き通った幹は伸びていく過程で黒く濁り帯状に形を変え、段々と先端が人間の手の形に形成されていった。伸びきった帯の表面はさらに不純物が濁って黒く渦巻いてうねる。その一連の様は不気味以外何物でも無かった。

「くっ」

 ユキは主の変化に気付くとすぐさま飛び退いた。

 その変化を見て心の中で話しすぎたと後悔した。

 四肢を突っ撥ねると、今日何度放ったか分からない雷を再度落とそうと体を発光させる。ユキの周囲の空気が張り詰めパチパチと静電気が起こり、その中から一点の発光体がすうっと主の真上に移動する。と、そこで静止した。

 刹那、発光体から雷鳴と共に閃光が走り、雷が主に落ちた。(いかずち)が直撃した主の体は小さく弾むと口から粘着性のある一本の黒煙が立ち昇る。

 黒煙は意志を持っているのかのように空中を漂いながら昇っていったが、主から伸びた闇の手がそれを逃すまいと素早く捕まえると、すぐさま体内に引き入れた。

「お前は――どれだけ魂を喰らえば気が済むか!」

 ユキの言葉に触発されたのか、主を取り巻いている闇の手が一斉にユキへ向けられた。其々が気ままに蠢く手、主の目が冷たく鈍く光る。

 主の口が開いた。猫の顎関節の構造を無視したその稼働域は際限無く開こうと下顎がめり込み上顎は前に突き出しながら上部に裂けていった。

 目は頬肉に圧迫されやがて埋もれた。

 裂けた口腔一杯に体内から黒煙が吐き出された。

 黒煙は主の口腔内で蠢きながら留まり、悲痛な思いを告げる人々の顔へと象っていった。その顔は声を出さず、口からごぼごぼとさらに黒煙を吐き出す。黒煙の顔の下では肉を掻き分けた主の目がユキに向けて鋭い眼光を放っている。白く輝いた猫は主の眼光に目もくれずに黒煙を見る。人の顔を象った黒煙は、ごぼと大きく盛り上がった。


「お前は――どこまで!」


 瞬間、ユキの体が輝いた。

 その眩さに主が目を細める。毛は全身逆立ち、毛先に至るまで一本一本電気を帯び、(まなこ)からは黒目が消え、顔を動かす際に目尻から小さな稲妻が走った。

 ユキはヒューと擦れた声で鳴くと、前足を踏ん張り低く身構える。そして大きく体を震わせると、光に包まれた体から大粒の蜜柑(みかん)大の光体が一斉に放たれ上空へと散乱した。


「げっ!おいちょっと待て!」

 背後からの怒号で九郎が振り返ると、怒りで我を忘れたユキが無差別に雷を落とそうとしているのを見て慌てた。

 さらに、ユキとそう離れていない場所で無残に倒れていた女が目に入った。

 取りあえずユキを(なだ)めようと駆け出した時、背後から大きな影が九郎を飛び越え目の前に降り立った。抜け殻となり立ち尽くしていた異形の者が再び動き出したのである。その針金を束ねたような脚から繰り出された跳躍は、最早人間が持つ能力を凌駕しその動作は九郎をさらに苛立たせた。

 ユキと九郎の直線上にはだかった異形の者は猛然と向かってくる九郎に漆黒に染まった右手を振り下ろした。だが、障害物等初めから無かったかのように異形の者の攻撃を潜るように避けて交わす。九郎は体勢を崩すことなく駆け抜け、一瞬にしてユキとの間合いを詰めた。

「おいユキ!やめろっ!まだそこに人間がいるんだぞ!おまえ何考えてるんだ?」

「下等妖怪の分際でこの(ぬえ)である私に挑むとは良い度胸だ!その悪臭放つ毛一本残らず灰にしてやるわ!」

「だからやめろって言ってんだろ!いい加減にしろ!」

 九郎は全く理性を失っている全身帯電状態の猫を怒鳴り上げた。

 そして躊躇無くユキの首根っこを咥えると、ビリッと顔面の筋肉が萎縮するのに耐えつつも力一杯中空へと放り投げた。光る白猫は暗闇を照らしながら名も知らない民家の外壁を突き破り中に消えた。

 程なくして民家の中から轟音と閃光が走った。(ぬし)の上空を取り巻いていた光体はいつの間にか消滅している。九郎は背後で身構えているであろう異形の者に気を張りつつ、ユキを放り投げたモルタルで造られた外壁の穴を見やる。

 荒くに刳り抜かれた穴の向こう側から何かの家具や壁が崩れる音と、ぱちぱちと火を焚く音が聞こえる。九郎の鼻には木が焦げたような臭いが届いてきた。

 

 家の中から音が止むと、穴からユキが音も出さずに飛び出してきた。見るからに不機嫌な、ふてくされた顔をした猫は、軽快に着地すると粘るように足を動かし明後日の方向を睨みながら九郎の傍に進み寄った。その体はもとの白い毛並みに戻っていた。

「お前、あんだけ威張ってたくせ――」

「うるさい」

 ユキはちょっかいを出してきた九郎の言葉を遮り主を見る。

 

 主は異形の者の左胸に嵌っていた。

 

 ユキにもその原理は分からなかったが、膨れた猫――主の体半分が異形の者の左胸に埋まっている。

「なんだよあれ。くっ付いてんのか?」

「同化――したんだろうな、見るからに。あれは埋まっているな、完全に。あの男は――主に取り込まれたんだろう。身も心も全て、主に支配された。見た目は逆だが、気を抜くなよ九郎。あいつはもう人ではない、――――もう、元には戻れない」

 主と男、どちらが発したか定かではないが、があと鳴くと足元に横たわっていた女の足首を掴み九郎に向かって投げた。

 体勢を崩すことなく振りかぶらず、片腕の膂力(りょりょく)のみで、熊が鮭を水中から掬い上げるような動作で成人女性を軽々と宙に放った。

「九郎!」

「ガァルルッ!」

 九郎は宙を舞う女の着地点を瞬時に予測し、そこまで跳んだ。

 地面に着地すると流れるような無駄のない動きで女の懐に飛び込んだ。漆黒の背中で女を受け止めると、一切の勢いを殺してその場に着地した。女は九郎の対処で地面に叩きつけられることこそ無かったが、うつ伏せの体勢で落ちたがために砂利で顔面を擦った。九郎は、あっやべぇと呟いた。

「九郎!」

「なんだよ!ちょっとくらいしょうがないだろ!」

「主が逃げるぞ」

 ユキはそう言い終わる前に駆け出していた。

 九郎は首だけ下げて女を降ろし振り返る。主――に取り付かれた異形の者が背を向け飛び跳ねながらこの場を去ろうとしていた。

 一跳びが高く、滞空時間が長い。そして着地するたび左肩から前のめりに体勢が崩れる。それでもぐんぐんと距離を離していった。

 九郎は髪が乱れた女の後頭部を一瞬見て、すぐさまユキの後に続いた。女を受け止めた時に感じた微かな鼓動がまだ背中で脈打っていた。

「おい。あいつどこ行く気だ?」

「この先は何がある?」

「――――あっ、わかったぞ。海か!」

「それもある。――が、その前にもあっただろう?」

 ユキと横並びになった九郎が走りながら思考を巡らせる。

 だが走るのに夢中でふと考えが浮かんではすぐ散ってしまう。集中しようとすると今度は足が遅くなる。そんなことを繰り返しているうち、ユキに落とされた(いかずち)のような衝撃が脳裏を刺激した。

「あのばあちゃんの家か!」

 そう叫ぶと一気に表情が険しくなった。

 口角が広がり鋭い牙が剥き出しに、地を蹴る足にも余計と力が入り、土が抉れて小さな窪みが出来上がる。九郎はさらに低い姿勢になって走った。音もなく走っていたユキを軽く突き放すと、日中世話になった老婆のもとへと速度を増していった。

 街路灯の灯りなどお構いなしに、闇はより深く淀み二人を(いざな)う。目的が出来た九郎の目には老婆のしわくちゃな笑顔が灯っていた。


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