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雲一つない空を独り占めするかのように太陽は高々と昇っている。
言葉を操る不思議な白猫――ユキとの罵り合いがきっかけで、無人と思われていた家に老婆が暮らしていることが判明すると、九郎はその老婆に図々しくもお湯をせびり、ぶっきらぼうに礼を言うと庭端に積まれた木材に寄りかかり仕上がったばかりのカップ焼きそばを食べていた。
木材の上では白猫のユキが昼寝をするかのように体を丸めて目を閉じ、尻尾を揺らしている。
老婆はいつの間にか縁側に敷かれた座布団の上で正座をしてお茶を飲んでいた。
別に何をするような素振りも無く、ただお茶を啜っては庭を漠然と眺める、また茶を啜る――を繰り返す。
「おい、ユキ」
老婆を観察しながら焼きそばをがっついていた九郎がユキに話しかける。
「あの婆さんが何かするのか?」
「――わからない」
ユキは九郎の問いかけに対して、丸まった体勢を崩さずに目を閉じ、尻尾を優雅に揺らしながらそっけなく答えた。
「わからないって言ってもよ――婆さんしかいないじゃねえかよ」
「それだから分からないんだ」
「どういうことだ?」
ユキは顔だけを持ち上げ、老婆を見下ろしながら、
「――あの老婆の周り。闇の手が渦巻いている」
「え!そうなのか?あの婆さんに?」
九郎はユキが言った『闇の手』という言葉に過敏に反応した。
「ヤミノテか――そりゃまずいんじゃねえのか?あの、あれだよな、気持ち悪い色の手が、こう――わらわら~っと。」
そう言いながら、右手を上げて波打つようにひらひらと箸を動かす。より一層不気味さを醸し出したいのか、顔も箸の動きと一緒になって嫌そうな表情を作る。
「それ、いつからだ?」
九郎は箸を動かし続けながらユキに問う。
「ずっとだ。老婆が縁側に現れてからずっと」
「ずっとって――おまえ、なんでそれ早く言わないんだよ!」
「何故言う必要があるんだ?」
あっけらかんと答えたユキは、その後老婆を数秒間見下ろしたと思ったら、丸めた体に頭を収めて尻尾を揺らしながら寛ぎだした。
「――この猫は、なんつう――ちくしょう――そこから降りてきたらその尻尾で首絞めやるか――」
九郎のその言葉に対して、ユキは尻尾を鞭のように撓らせ木材をぱしっと叩いた。九郎は歯を食いしばり感情をむき出しにする。握っていた割りばしにも力が入る。焼きそばをやけくそに食べだし、がうがうと唸りながら麺が慈悲なく潰されていく。
「あ、――でも闇の手に掴まれてるっていうことはあれだよな?あの婆さんが狙われてるってことだよな?」
「どうだろうな?まあ――何かあるんだろうな」
「おまえよぉ――ちゃんと見てるのか?闇の手とか、おまえしか見えないんだからよ。今は」
「はいはいはいはいはいはい」
完全に小馬鹿にしたユキの態度に九郎の沸点はまたも急速に上がりだす。
ユキはそっけなく答えて尻尾を揺らして遊びだす。
こんのチビネコが――
九郎の内から出た文句がいつの間にか本人の意識を無視して口から表に出ていた。
感情を表に出すのは疲れる事、と思っている九郎にとって、自分の意思を他人に左右されることは酷く苦痛である。だから必要以上のことは聞かないし、自分から積極的に他人と接しない。だが、このユキという存在に対しては何をどうしても毎回こうやって振り回されるハメになってしまう。
毎回、ユキが九郎に向かって発信する情報は、九郎には物足りない。
ユキは九郎が理解したかどうか等に付き合う気はこれっぽっちもないらしく、一方通行に告げると、あとは勝手に理解しろとばかりにそっぽを向く。
要領が掴めない九郎は、詳しく聞き出そうとするとが、ユキの口から出るのは想定していた斜め上の言動で、さらには加えて罵詈雑言を浴びせられるために要領を得られないどころかかえって混乱してしまう。
そのやり取りをすればするほど九郎の沸点メーターが上り続ける。
つまりはユキの方が九郎より三枚も四枚も上手なわけだが、それに九郎は気付くことができない。
「あの小屋」
「は?」
九郎がやりきれない思いを彼方に向け歯軋りをしている時にユキが呟いた。
「あの小屋には、何かあるな」
「何かって、やっぱ犬でもいるのか?あれ、犬小屋だろ?」
九郎は小屋を見て言った。
「――犬なのか何なのか――生き物か、死体か、あるいは人形か――」
「――おいおい。なんだそりゃ」
ユキの言葉に九郎はあきれ口調で割り込む。
「ここからじゃ一体なんなのか見当もつかないが、あの中に何かあるな」
ユキはそう言うと、首を上げて小屋を見た。ユキの位置からだと小屋の入口は見えるが、中身まではわからない。目を細めて小屋の中を見定めるような視線を投げるが、結局はそっぽを向いた。
「だったら、行って確認して来いよ」
「それはおまえの役目だ」
九郎の沸点が一気に上がる。
「おまえほんとに――この木燃やして、ネコの蒸し焼きにしてやるぞ」
「まあ落ち着け。ちょっとは冷静になって物事を見ろと何度言ったらわかるんだ?おまえの脳みそには考える部分がないのか?」
おまえに言われたくない――と心の中で叫ぶ九郎だが、それを口に出す事はしなかった。
それを言って返ってくる言葉を九郎なりに想像したが、恐らく今以上に不快な言葉だと容易に想像できたからである。
一旦ユキのことは忘れて、焼きそばを食べようと麺を持ち上げようとした時、老婆が湯呑を縁側に置き、小屋に向かって何やら話しかけだした。
「チチチッチッ。マルちゃん出ておいで。――マルちゃんや」
不器用な舌打ちをし、小屋の入口に向かって何度も名前を呼びかけている。
「おい、婆さんがなんか呼んでるぞ」
九郎がユキに向かって言う。ユキは老婆の行動を黙って見つめている。
「マ~ルちゃん。出ておいで~な」
老婆はしきりに犬小屋に向かって呼び続けている。
「やっぱ、なんかいるのかあの小屋に?おまえ感じるか?」
「いや――。わからないな」
ユキが思案しながら言った。九郎はそれきり何も聞かなくなった。
小屋は沈黙を守っていた。
潮風が吸い込まれるように犬小屋に入っていく。砂が小屋を囲むようにして舞う。
九郎は名前を呼び続ける老婆を観察しながら焼きそばを口に運ぶ。
「――あえ?」
――――あの中に何かいるのか?いないのか?
麺を口に運びながら答えを脳裏にめぐらせて犬小屋の入口を見ていたら、小屋の奥から、のそっと、何かの影が動き出した。――丸い。
午後一番の日差しが小屋入口にすっと差し込む、小屋の中で丸みを帯びたモノがのそっと動いた。
「マ~ルちゃん、出ておいで」
老婆の陽気で甲高い声に反応したのか、中からのっそりと現れたのは、丸々と太った猫だった。
同じ猫であってもユキの三倍は大きい。丸く大きな体は、太るというより膨れたという方が当て嵌っていた。
膨れた体の反動なのか、手足が縮んだように体に埋まっている。顔は全体が伸びて、いまにも破裂しそうな状態になっている。
毛色は全身黒に近い暗めの灰色をしていて、毛に艶が無いためかどこか生気が感じられない。
特徴的なのは尻尾だった。異常に長くて太い。それがずるずると地面を擦っている。
「猫か?」
九郎が言った。体に埋まった四足と、頭に生えている二つの耳らしき突起物、長い尻尾を見て恐らくそうだろうと判断した。
九郎は小屋から出てきた生物を見て、ゴム風船をめいっぱい膨らませて猫の顔を描いたみたいだ、と安易な印象を描いた。
「マルちゃん、おはようさん」
マルちゃんと呼ばれた猫は老婆の方に向かって数歩歩くと、短い足を畳んで、というよりは体に埋めて座った。置物のようになったかと思うと、ちょっと右に傾きそのまま庭にごろんと転がった。
膨れた猫は寝ころんだ体勢のまま、耳の裏を掻こうと後ろ足を必死に伸ばすが、あきらかに届かなくて結局前足の付け根あたりを何度も引っかいた。
「――おいユキ。あれ猫だよな?」
九郎は困惑している。
「――」
ユキは何も言わなかった。じっと、小屋から現れた猫を注視している。
「マルちゃん、メシにするべか?んー腹減ったか?じゃあ、ちょいと待っててなあ」
老婆はそう言うと、よっこいしょと掛け声を掛けながら重そうに立ち上がり、部屋の中へ消えていった。
「おい、ユキ。あれ猫だよな?」
九郎は再度ユキに確認しようと声を掛ける。その問いにユキは、
「あれは、――違うな」
「え?」
どこから見ても猫じゃねえかと九郎が推すがユキの答えは変わらない。
「は?あれどう見ても猫だろ?違うの?それじゃ犬か?ああ――豚ってことか?」
九郎はユキに重ねて問いかけた。
「いや、そうじゃないんだ。あれは器は猫なんだろうが」
少し戸惑った感じで語尾を濁した後、
「あれは、生き物じゃない」
ユキは小屋の前に陣取っている猫を見据えて、今度ははっきりとそう答えた。
古ぼけた家の庭に置いてあった、小さな不格好な小屋から出てきた奇妙な猫を見て発したユキの一言を、九郎は理解しようと努めた。が、物事を深く考えない性格を持つ九郎の頭では答えを出す事が出来なかった。
結局、ユキの言葉を反芻しようとまた話しかける。
「生き物じゃないって、どういうことだよ?あれ、動いてるじゃねえか。――ほらっ、また動いた」
九郎はぶくぶくと太った猫を指差しながらユキに言った。猫はだるそうに口を開けあくびをしたり、非常に緩慢な動きだが短い足を使って顔を撫でようとしている。その足は決して顔に届くことはなかったが、確かに九郎の言う通り生きている、様にみえる。
ユキは木材の上から膨らんだ猫を見下ろして表情を変えずに、抑揚の無い透き通った声で言った。
「――あの猫、中身がないんだ。空っぽだ。あの猫の本来の中身じゃない。――それに」
「それになんだ?」
「あの猫にも闇の手がまとわりついている――いや、中から出ているのか?」
「あぁ?なかって?どっからだよ?口か?足か?」
九郎の問いに答えているのか独り言なのか、ぶつぶつと呟くユキを九郎は睨み上げて再び問う。
「なんだよそれ、ちゃんと説明しろよ。訳わからねえよ」
ユキは、下でガウガウと吼えている九郎を面倒くさそうに見やると、――うるさいなおまえは、私が考えてる時に邪魔するな――、と言った。
「――じゃ説明しろよ。それもしかして、すげえ大事なことだろ?」
九郎の要求にユキは、やれやれという様な感じで物凄く長い溜息と一緒にその小さな肩をがくりと落として、こう言った。
「――あの猫は、恐らくもうこの世の物ではなくなっている。――外見は猫だが、中身が最早違うモノだ。――動いているのは、恐らくその違うモノが動かしているんだろう。――でだ、その中身は何なのかは分からない。あと闇の手については、――闇の手は、猫にまとわりついているのか、猫から出ているのか、――分からないな、まだ」
「うう――」
九郎は唸った、珍しく長く喋ったユキの説明を聞いて、益々こんがらがってしまった。
自分の頭の中を整理しようとユキに確認する。
「じゃあ、あの猫はとっくに死んでて、今は違うモノが入ってるってことか?」
「そうだな」
「で?闇の手も一緒に見えるけど、それはあの猫からか出てるのかはわからない?」
「そうだな」
「んじゃ、あの犬小屋はどうなんだ?あそこからも出てるのか?」
「そこらじゅうだ。かなりの数だ。だから特定できないんだ。どっちにしろ、ここからじゃ根元が見えないから何も分からない」
根元か、と九郎が小声で言ってから、
「それじゃあよ、その猫に入ってるモノってのは――」
「わからない」
ユキは九郎の言葉を遮って答えた。
「うう――わからないことだらけじゃないか――」
「だからそう言ったろう。今やることは、闇の手の出所を見極めること」
「どっから出てるか探すってことか?」
「そうだな」
九郎はまだ食べきれていない焼きそばをほったらかし、手に持っていた箸を、タクトでも振るかのように動かす。容器の中にはまだ3分の1ほどの麺が残っていた。九郎は自分の考えと、箸の動きをシンクロさせているかのように振り、ユキとの会話を自分なりに消化しようとしているらしいが、その振りはかなりぎこちない。
ユキは九郎の行為を見て。無駄なことは止めろ、見ていて不愉快になる、と言った。
「――そうすっとだ。もしあの猫から闇の手が出てたとしたら――」
九郎は続ける、
「そうすると――あの猫の中身が主ってことになるんだよな?なあそうだろ?そうだよなユキ?おぉ、あの猫から闇の手かよぉ――。ただでさえウネウネして気持ち悪いのにあの猫からかよぉ――あぁぁ、なんだかよけいに気持ち悪いなぁ」
「おい九郎」
一人うな垂れ、念仏を唱えるように呟く九郎に向かって、ユキが少し声を上げて言った。
「なんだよ」
「おまえはまだそのままでいろ」
「へ?」
突然話の流れを変えられた九郎は、ついていけずに間抜けな声を上げる。
「だから――また自分勝手に行動するなって言ってるんだ」
「またってなんだよ?またって」
「またはまただ。正確に言うと前回のように一人で勝手に――」
「ああ、わかったよ。いちいちうるせー猫だなほんと」
「おまえはぎゃあぎゃあ騒ぐだけしか能がないボンクラだろうが」
九郎にまた怒りがこみ上げてくる。――落ち着け、落ち着けオレ、と九郎は心の中で警告を出す。こいつの流れに乗ってはだめだと。そんな九郎の苦労などこれっぽっちも考えないユキはどんどんと要求を出す。
「まだ他にも、あの老婆のように闇の手に絡まれている人間がどこかにいるかもしれない。九郎、お前は今のうちにこの辺りを回って見てこい。ここは私が見ている」
「けっ、またかよ。まーたーかーよ!自分だけラクしやがって。猫のくせにこき使いやがってよ」
「おまえはただの犬だろう?つべこべ言うな。さっさと行け」
「――」
――この猫、ここで噛み千切ってやろうか。
九郎がユキの言葉で無言になる時は、決まって胸の内でこのような乱暴狼藉な思いを巡らせている。ストレスを分散させようとする一種の防衛本能である。
やり方は雑だがこれは九郎なりのユキに対する対処法である。もちろん本人は意識などしていない。
「あと、一つだけ言うことがある」
ユキは続けて九郎に言う、
「――なんだよ。まだ何かあるのかよ」
九郎はユキを見上げる。やや睨みぎみだったが、ユキは九郎の視線など微塵も気にせずに再び背を丸めて顔を体に埋める。耳を左右に小刻みに動かし、尻尾を優雅に振りながら、
「早くさっさと食べろ。そんなくだらない食べ物にいつまで時間をかける気だ」
と、言った。
その瞬間、強い日差しの下、ユキは呑気にうたた寝をしだした。
「――――」
怒りを通り越し、文句が何も浮かばない程の放心状態になってしまった九郎は、片手にカップ焼きそばの容器を、片手に短めの割り箸を持ち続けたまま立ち尽くしてしまい、そこからしばらくの間、動く事が出来なかった。




