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ユキは沖合で起こった轟音を聞き逃さなかった。海面に落ちる大量の水飛沫の音も。
邪な気配が爆発するように大きく膨らみ、瞬く間に消失した。感じることはできるが目視することのできない場所で、恐らく九郎と主との戦いが決着したのであろうとユキは推した。荒ぶっていた気持ちがほんの少しだけ落ち着く。
「これで漸く片付いたのか」
ユキが月に向かって言った。白い足をそっと波が撫でる。
しばらくして九郎が泳いで帰ってきた。
チャプチャプと可愛らしい音を立てながら海から首だけをだして水を掻き、最後は波に押されて浜にあがった。テクテクとユキのところまで歩くと体全体を振って海水をそこら中に飛ばした。遠慮なくユキにも海水をかける。ユキはそれを瞬き一つせずに受け止めた。九郎がわざとそうしているのを知っているからだ。
「おーつめてー!」
「で?」
「なんか走ってる途中でよ、爪が光らなくなっちゃってよ。そしたら走れなくなっちゃってよ。海に入っちゃってよ。だから泳いできたぜ。――おーつめてー!」
「そうか――それは御苦労だったな、で?」
「ん?ああ、――でよ、どっちに行っていいかわからなくなっちゃって、泳ぐのも疲れたから適当に波に流されてたら明かりが見えたんで、泳いでここまできたぞ」
「それは結構」
「もう口に海が入ってきてもうしょっぱいのなん――」
「主はどうしたのかって聞いてんだろうが!」
おおこええ――、と九郎がユキの怒号を冷やかしながら交わすと、どっかいっちまったとそっけなく答えた。
「どっか行っただと?逃がしたって意味か?お前、それじゃ仕留めそこなったのか?おお、――なんということだ」
「でも主は死んだぞ――多分」
「なに?それはほんとか?多分ってなんだ?どういう意味だ?」
「でもどっか行ったけどな」
「――え?どういうことだ?矢張り、仕留めそこなったってことか?」
いや、そうじゃねえんだよなと九郎が言う。ユキはいま一つ状況が飲み込めない。
「よし、そうだな。順を追って話せ九郎。まず、海を走って主を追いかけたとこまではいいか?」
「追いかけた」
「よし、そこからだ。それからどうしたんだ?追いついたのか?」
「追いついたぞ。それで引っ掻いた」
「それで――主を倒したのか?」
「二つになって、一個は上にいって下の奴は海の中に入った」
ユキは乱れた。詳しく聞きたかったが、これ以上の混乱を恐れて取りあえず先を促した。
「えー。それからどうしたんだ九郎?その、二つに分かれた主と別々に戦ったのか?」
「それがなぁ、倒そうと思ったらどっか行っちまったんだよな」
「二つともか?」
「そう」
「だが、お前さっき主は死んだって言ってなかったか?」
「あの、あいつの出っ張ったとこあっただろ?でっかい目があった」
「男の胸のコブか。それがどうした?」
「あれは潰れたんだ。ああ、あいつが自分で潰したのか。んで、そっから変な玉みたいなのが出てきて」
「玉か。それでお前はそれを解放してやったんだな?」
「それで海からなんか出てきてどっか行ったんだよ、ぜんぶ」
「海からなんか?――九郎ちょっと待て。さすがに私も混乱してきた。えー――お前は、コブが潰れて中から魂が、いや玉が出てきたのは見たんだな?」
「タマシイってなんだ?黒い玉のことか?」
「なに?その玉は黒かったのか?それは、いくつもあって尾を引いて空に上がろうとしていたか?」
「あー、してたしてた。でも水が下からすげえ出てきて、気づいたら何もなくなってた。あれはなんなんだユキ?」
「いや、それをいま私が聞いているんだ。――その、黒い玉のことをもっと教えろ。その玉が天に昇るとこを見たか?」
「天にって、上にってことか?うーん、それはわからないな。オレも吹っ飛ばされてたからな」
九郎はそう言ってもう一度体を左右に振って海水を飛ばした。ひたひたと飛沫が散って砂浜を湿らせた。
「飛ばされたとは攻撃されたのか?コブは潰れて下からの攻撃か――。ん?主は自分でコブを潰したのか九郎?それはどうやって潰した?」
「あれか?こうやって自分の手でぐ~っと――」
九郎は右前足を折り畳みながら身振りで説明する。海水に濡れた足を胸に当ててそのまま引き寄せる仕草をした。
「自らしたのか。一体なんでそんなことを――」
ユキは九郎から飛び散って前足にかかった海水を一舐めしながら思案する。そばで九郎が――しょっぺ~だろ?と笑い声をだした。
「男が主の拘束から脱したということか――。いや、主自身が自ら――だが、それだとまた違った――。つまり肝心の魂の解放は――のか――」
あれこれ呟いて結局、――わからんと言った。
「おい九郎。下から水が出てきたというのはなんだ?」
「なんなんだろうな?」
「もっと詳しく話してみろ」
「あ!黒いもんが!」
唐突に九郎が大きな声を上げる。ユキは聞き返す?
「黒いものってなんだ?」
「見たんだよ。吹っ飛ばされてる時!海から黒いのが出てきてそれから全部消えたんだ!」
「黒いもの?それは主とは異なるやつか?おまえ先ほど主は二つに分かれたと言ったが、その片方じゃないのか?それとも違うものか?」
「一辺に聞くなよ頭が痛くなる。とにかく水がすごくてよく見えなかったけど黒かったぞ。しかもでかいぞ。とにかくでかい。でも、オレも見たの一瞬だったからなぁ。なんなんだあれ?」
少しの沈黙の後、九郎の足元を見て、
「――そうか」
とユキは九郎に向かって言った、そして小さな声で御苦労だったなと加えた。
「どうしたユキ?急に静かになったな」
「いや、なんでもない。よくやったな九郎」
「おう」
「とにかく、今日はもう帰るぞ。いつまでもここにいる意味もないからな――」
「そうか?んじゃ帰ろう。風呂入りたい。体がべたべたして気持ち悪い」
ここで人間に戻るのか?とユキに聞くが、このまま帰ろうと返事をもらう。
黒い犬と白い猫は微妙な距離間で並びながら浜から上がり、車が一台も走っていない道路に出た。
正面には小さな集落へと続くひらけた道が、その奥には老婆のあばら家がうっすらと見える。九郎は老婆の家を眺めた。ユキは何か思いつめた顔をして車道の先を見ていた。
そして二匹は車道の真ん中を走り出した。左側から潮風が体を優しく撫でる。走りながら九郎が前を走っているユキに向かって話しかけた。
「なあ!なんで爪が光らなくなったんだ?」
「それは、必要なくなったんだろうおそらく。そう――判断したんだろう」
「はんだん?」
「まあそれは、今は気にするな。いずれお前にも分かるようになる」
「そうか?」
そうだ、とユキは言った。
九郎は走っている最中でありながらも、速度を感じさせずに優雅に揺れるユキの尻尾を見ながら走った。




