11
11
「おいどっちに言ったんだよ?」
「海だ。まっすぐ海の方に向かって飛んだ」
老婆がガラス戸から顔を出す手前で庭から離れた九郎は、ぐるりと玄関先へ回り、そのまま老婆家の敷地外へと出た。集落の入口となっている老婆の家から出ると、利用車がなくなって廃れてしまった車道、その向こう側には視界いっぱいに海が広がっていた。車道は先ほどまで主とやり合った住宅地や老婆の庭に比べて明るかったが、街路灯はかなり以前からその役目を放棄してしまって、暗闇の中に不気味と立ち並ぶ廃品と化していた。
その廃品の一本が柱の途中からほぼ直角に折れ曲がり、嫌な金属音を発しながら先端が上下に揺れている。ユキはその折れ曲がった街路灯の根本にいた。
九郎はユキのそばまで寄ると、
「海って、そこの海か?」
と尋ねた。
「あそこにいる。見えるか?浜辺で蠢いている物の怪が」
「ああ――あれか。何やってんだあれ」
「知らん。還ろうとしているのか、剥がそうとしているのか。どちらにせよ、一帯にはもう取り込む魂もないからな、安心して暴れてこい。煮るなり焼くなり好きにしろ」
「なんだよそれえらそうに言いやがって。それにしてもなんなんだよあいつ、飛んだり止まったりよ?婆さんを喰うかと思ったらこんなとこに逃げやがって、何がしたいんだあれ?」
「そのつもりだったんだろ主は。わずかだがまだ残っていたんだろうな――男の意識が。それが最後に抵抗したんだろう」
「イシキってなんだ?」
ユキは九郎の問いかけを当たり前のように無視した。
数秒間待って返答を得られなかった九郎は、また当たり前のように他に何か面白いものがないかというような素振りであちこち見渡し始めた。
「なにしてんだ?突っ立ってないでさっさと退治してこい。今が絶好の機会だろ?」
「――どうすればいいんだ?」
「どういう意味だ?」
「退治」
「なんだと?」
「これで引っ掻くだけならさっきもやったけど、あいつなんともなかったぜ?同じことまたやるのか?それとも喰い千切ればいいのか?でもそれはやだぜ、あんな気持ち悪いもんなんか喰いたくない」
未だに光り輝いている自分の足を見て九郎は言った。
「その爪で主自身を切り裂けばいいんじゃないか?先の一撃は痛手を負わせたが致命傷じゃなかった。その爪が今も光っているのがその証拠だ。その光は闇に捕らわれた魂を解放する力だ。役目を果たせば自然と消えるだろう。主が取り付いた男ではなく、主自身を攻撃しろ」
「よくわかんねえけど、さっきのはたいしたことなかったってことか?これはいつになったら消えるんだ?んでよ――、結局どうすりゃいいんだ?」
ユキは少しイライラしながら、
「だから――お前、私の話全く聞いてないだろ?いや、理解できてないのか。そもそも言葉を知らないのか?これでもかなり砕いて説明してやっているのだが――それでも不十分なのかお前には。――ああ、あらかじめ聞いてはいたがこんなにも扱いが面倒なモノだとは思わなかった。聞いていた話とは全く違う。一言言うたび質問、一言言うたび質問。私はこんな出来損ないの面倒をこれから先みてやらないといけないのか。ああ――頭が痛い、――なんだか猛烈に頭が痛くなったぞ。これじゃ何時まで経っても目的なんか果たせないではないか――。なんでこんな目に、――ああ、気持ちが悪い、吐きそうだ。なんだか吐きそうになってきた」
ユキは唐突に自問自答しながらうろうろと歩きだした。
「お、おい。なんだどうしたんだよ――。そんな情けない声だすなよユキ。あー、えっと、あれだな。とにかくあいつをやっつければいいんだよな?――な?そんなの簡単だ、簡単。今動いてないしよ――パパッてよ。やっつけてやるからよ。すぐ」
狼狽しているユキをとにかく必至に慰める九郎。項垂れてため息をつくユキの回りを、九郎はせわしなく歩き回った。漸く観念したようにユキは言った。
「いいか九郎、よく聞け。主は男の左胸に取り付いた。恐らく男の心臓に直接絡まっているのだろう。お前、主が男に取りついたところを見たか?」
「いや見てない」
ケロッと答える。
「――そうか、男の胸が異様に膨らんでいただろう?――あれが主だ。詳しくはわからんが、まぁ物の怪だな。妖怪だ。奴を滅さない限りこの土地の災いは治まらない。そして、奴が取り込んだ村の住人の魂はこのままだと永遠に常世を彷徨い続けることになる。あるいは、それ自体が消滅するか――。いいか九郎、あの男の胸の大きなコブをその爪で壊せ。それで全てが終わるはずだ」
「コブか、わかった」
一言短く答えると主のもとへ歩みだした。ユキを通り越すと聞こえないほど小さな声で、またなんか言うとめんどくさいからなと、ぼそり呟く。ユキはその小言を聞き逃さなかったが、当然の如く聞き流した。
浜辺では主が波打ち際で悶えていた。
右わき腹が鋭く抉り取られ、そこからどす黒く変色した血液が奇怪に変貌した足を伝い打ち寄せる波に溶けこんでいく。主は頭を抱えて唸り、2、3歩海の方へ進んで片膝をついた。そして、乱暴に頭を掻き毟った。短い毛と頭皮が剥けてぼろぼろと落ちては波にさらわれていく。体をよじるたびにわき腹から血液が勢いよく飛び出したが、よじる動きは大きくなる一方だった。
「抵抗しているのだな、男が。目覚めた原因は老婆か」
主を眺めているユキが呟いた。
足掻いている主に九郎がゆっくりと迫った。波がとても穏やかに打ち寄せた。
――ガ、――アアーオーオ――
主が呻いた。
「おいお前、元に戻ったのか?」
「ガアー、――アア!」
叫び声とともに頭を激しく掻き毟り、仰け反る。その勢いで立ち上がると反り返ったままの姿勢で九郎を見やる。男の頭部は引っ掻き続けたせいで酷い裂傷を負い、裂けた場所から所々血が滲み出ている。傷の中には口元まで裂けているのもあった。目は眼球全体が黒く濁り半分飛び出している。九郎は男の濁った目を見て言った。
「苦しいんだろお前?でも――戦ってるんだな、お前も」
――ガア
九郎の爪が一段と強く光った。
そして、男の胸に埋まっているコブを見た。コブというには大きすぎる丸い球体の表面がもぞもぞと蠢く。球体の中心の皺が波打ち、ゆっくりと開き、そこから邪悪な光を宿した目が現れた。邪な目は九郎を睨む。
「てめえか!なにもかもてめえの仕業か!」
九郎は矢のごとくコブに飛び掛った。男はとっさに体を捻り、左腕を使ってコブを庇う。怒りにまかせた九郎の爪は男の左肩の付け根から肘にかけての筋肉を深く抉った。
ガア!
主は悲鳴を上げ、空中に飛び上がっていた九郎の背中目掛けて渾身の鉄鎚を振り下ろした。鋭い衝撃のあと砂浜に叩き付けられる。九郎は意識が飛びそうになるのを必死に繋ぎ止め、叩きつけられた際のバウンドを利用して豪快に転がり、距離を計ろうと大きく飛び退いた。視界がぼやける。肺の機能が停止して呼吸ができない。自然と体をよじり、牙をむき出しにして苦痛の表情を浮かべる。攻撃された。その屈辱でメラメラと怒りが込みあがってくる。
「九郎!」
離れた場所からユキが叫んだ。主は右手で頭を掻き毟り、左手はだらりと下がり指先からぽたぽたと重油のような粘着質な血液が垂れ落ちる。
「九郎!間を与えるな!手を緩めずさっさと仕留めろ!」
ユキが浜辺に向かって駆けだした。その声は明らかな苛立ちが感じ取れる。九郎は過呼吸で脳に酸素が回っておらず、ユキの言葉を実行するどころか足一本動かせないでいた。意識を保ち、身構えることがやっとの状態であった。
――うぅ、くそう
声にならない。苦痛で顔が歪む。かろうじてぼやけた視界にとらえている主は頭を振りまわし、体を揺さぶり必死に何かと闘っていた。――時折、コブから姿を現した邪悪な目は九郎を突き刺すように陰悪な眼光を放っている。
その眼光が一層鋭くなった時――
主がずるりと動いた。
ガア
体を大きく仰け反らせ、闇夜に浮かぶ月光が不気味な球体を照らす。
男の体はその姿勢のまま凍ったように固まった。九郎は警戒しながら大きく息を吸い込んだ。そして唸った。
――予備動作はなかった。
左腕の肘から一筋の血液がゆっくりと時間をかけて前腕を伝い、指先に辿り着くと大きなダマを作って砂浜に落ちた――途端。地面と平行に、主が海に向かって滑るように飛んだ。そのまま海へ侵入すると、猛烈な速さで海面を滑走する。沈まない。浜に寄せる波を押し分けぐんぐんと海面を滑る。そして主の進んだあとに引き波ができ上がった。
「――なんだあれは?」
九郎のもとまで駆け寄ったユキが言った。その表情は唖然としている。まるで海の向こうの遥彼方の大陸から何か圧倒的な力で引き寄せられるかのような、浮世離れした動きである。ぐんぐんと突き進む主の体はあっという間に暗黒な海原に消えようとしている。ユキは焦った。
「おい――」
苦痛で顔が歪んでいる九郎に声をかける。九郎からはうぅと唸る他、まっとうな返事が返ってこない。主の姿はどんどんと小さくなる。焦ったユキは、何を思ったか九郎に向かって雷を落とした。白い体から小さな光子が一つポンと飛び出るとその場で弾け、雷鳴とともに閃光が走り、電撃が九郎に直撃した。
「あああああぁぁぁあ!」
九郎の全身を悪意のある電流が駆け抜ける。眉間に皺を寄せ懸命に食いしばって必死に耐える。光る爪はさらに輝き、数秒後には頭のてっぺんから焦げたような臭いが焚き上がった。足が痙攣してその場に倒れ、強烈に心臓が痛くなる。
「なんだてめー!殺す気か!」
九郎が殺意を込めて怒鳴り散らした。その怒号を冷静に受け止め――治ったろ、と言ったユキに対して、冗談じゃねえと体当たりする九郎をユキは軽やかにかわした。敵は私じゃないだろ、と言ったユキにもう一度体当たりをする。これもユキはさらりとかわす。
「おおおおお、死ぬかと思った――。こればっかりは死ぬかと思った」
「それくらいで死ぬか。それよりもだ。主は海へ逃げたぞ、早く追いかけろ」
「――それよりもじゃねーんだよ!おまえ本気でオレのこと殺す気なんじゃないの――」
「ここで主に逃げられたら、あの老婆のような人間がまた増えるんだぞ。おまえそれでもいいのか?」
「え?」
そうなの?と九郎が続けて言ったが、その問いを無視してユキはさらに続けた。
「この土地に住み着いている人間の魂はもうほとんど主の腹の中だ。――いずれにしろ、奴は新たな魂を求めて狩場を変える。それが今になっただけだ。ここでケリをつけないと今度はどこで狩りをしだすか分からなくなるぞ」
――躊躇しているヒマなんかないんだ。と、月光を浴びて煌く黒い海を見ながらユキが言った。もう主の姿は見えない。
「この一直線に伸びた筋を走ればその先に主がいる。今度こそ仕留めろ」
主が進んだ後に出来た引き波が月明かりに照らされ淡く光り、主の行き先を案内するかのように一直線に道を作っている。その光景を見た九郎はユキに向かって――
「――泳げってことか?」
黒い犬は戸惑った。――白い猫は一呼吸置くと、ガラスのように儚い透き通った声音で告げた。
「今なら走れるはずだ」
「走れるって?」
「――海を引っ掻くように、波に爪を掛けて飛ぶんだ――。その輝く爪がおまえを助けてくれる。さあ、この道を駆けて主を葬ってこい」
ユキの落ち着いた声が、一語一語すんなりと九郎の体に溶け込んでいく。まるで魔法をかけられたような、不思議な感覚を味わう。
九郎は横目でちらりとユキを見た。
ユキは尻尾をくゆらせ、まっすぐ海を見ているよう――な気がした。尻尾の動きが目につきすぎてどんな顔だったのかは頭の中からすぐ消えた。
いつの間にか九郎の怒りはおさまっており、心が穏やかになっていた。そして、心の奥からどくんと大きな衝撃がおきた。
目を見開き、海を睨む。全身が熱くなり牙が疼く。九郎は知らぬうちに口角を上げて笑っていた。
勢いよく砂を蹴って海へ飛び出すと、空中で体を縮めて筋肉を縮小させ、海面に着水すると同時に思いきり爪で波を引っ掻いた。
光り輝く爪は波に爪痕を残し、九郎の体は前方に大きく飛び上がった。勢いがつきすぎて前のめりになり、慌てて一回転して体勢を調整する。姿勢を整えながらまた着水間際に思いきり波を引っ掻いた。その一瞬で要領を得たのか今度は体勢を崩さぬまま前に飛んだ。
「おお!ひゃはあぁ~っ!」
わずか2掻きで自分のものにすると弾丸のように海を駆けた。海面を這うように前傾姿勢を保ち、足の振りは小さく、波を掻いた足はすかさず縮めて力を溜める。波を掻く音は驚くほどに小さく、波に出来た爪痕は周りの波が庇うように埋めた。飛び魚が跳ねるように夜の海を走る九郎は、あっという間にユキの視界から消えてしまった。
「あの馬鹿は、もう目的を忘れているんじゃないだろうな――」
暗い浜辺に、小さな猫の小さなため息が漏れた。
「ひゃっほ~!」
新しい遊び道具を手に入れた九郎は歓喜の声を上げながら走った。主が作った引き波は右へゆったりと曲がり、それに沿って主の後を追いかける。
ほどなくして主は九郎の目の前に現れた。闇夜に紛れそこなった後ろ姿は左半身が月明かりに照らされ、頭は大きく垂れて背中に埋まり、胴体から生えた足はだらりと伸びてつま先だけ水面に接している。つま先が作った引き波は扇状に広がり、主は体勢を全く動かすことなく海面を移動していた。
九郎は主の姿を視界に捉えるや、さっきまでの浮かれ気分を一気に切り換え吼えた。
「見つけたぞこの野郎!」
九郎は主を見定めると距離を測って大きく飛んだ。
光る爪が主の背後に迫る。九郎はその爪で主の右肩甲骨から左わき腹へ向かって一気に引き裂いた。それまで沈黙していた主が突然断末魔の叫びを上げた。
――ガアアアア!
切り裂かれた場所から血液ではなく、黒く濁った闇の手が無数に飛び出した。闇の手は九郎に絡みつこうと、もがきながら必死に手をのばす。九郎はその中の一本を噛みちぎると主の懐に着水してすぐさま二撃目を食らわそうと飛びかかる。主はそこでやっと九郎に気付いた。胸に埋まった丸いコブから邪悪な目が大きく開き九郎を見る。瞼と眼球の隙間から闇の手が何本か飛び出した。
「おせぇんだよ!」
九郎は主に襲いかかる。下から突き上げるように出した爪は、コブを庇った主の左腕を切り裂いた。主がだみ声を上げる。左腕の肘から先が切断されて海に沈んだ。その傷口から闇の手が生え、闇雲に伸びる。九郎の攻撃は止まない。もがき伸びる闇の手をかいくぐり左足めがけて光る爪を出す。主の叫びとともに左足が海に落ちた。片足を失った物の怪はそれでも中空に浮いている。
「これで――終わりだ!」
九郎は吼えると最速の動きで攻め込んだ。四本の光る爪は一つにまとまり紫電一閃、主の体を真っ二つに切り裂いた。
「やったか!」
九郎の一閃は主を上下真っ二つに切り裂いた。下半身は滑走する勢いのまま海の中へと沈んだ。上半分は切り裂かれた反動で宙を舞った。コブの目はまだ死んでいない。舞っている闇夜から九郎を射抜くような眼光で見下す。裂かれた切断面からすでに闇の手が生え始めている。
「まだか!」
ガアアアアアアアアア!
「おわっ!なんだ!」
九郎が再度飛びかかろうとした時、何かに足を取られて体勢を崩す。足元を見る。闇の手が海の中から伸びて九郎に絡みついていた。光る爪は闇の手に絡まりゆっくりと海に埋まり始めている。焦った九郎は右足に絡みついた闇の手を噛みちぎるが今度は後ろ足に絡まってきた。
「くそっ!しつこいんだよ!」
何度も何度も噛みちぎるが闇の手は海面から伸びてきては九郎を捕らえた。主を見やると高度はそのままにまだ浮いている。それどころかどんどんと遠ざかり、九郎との距離を離し逃走を図ろうとしているようだった。
「あ!逃がさねえぞ」
九郎はそう叫ぶと海面に頭を突っ込んだ。海中に引き込もうとしている数本の闇の手にまとめて噛みつくと、海上に引き上げそのまま上空に放った。下半身が海から飛び出てきりもみ状に回転しながら遠くの海へ落ちる。
闇の手はゴムのように伸びて九郎にしがみついたが、それも耐えきれず音もなくちぎれていった。沈んだ足を慌てて海面に出すと離れてしまった主に向かって駆けだす。
――主は海面に転がっていた。
空高く浮いていた体は、今度は水上でボールのように転がっていた。右へ左へ――コロコロと。だがそれは風に揺られているわけでも波に煽られているわけでもなく、主が何かしている――、と九郎は直観で悟った。
九郎は警戒しつつ駆け寄る。近づくにつれもぞもぞと音がする。何かが軋む音もする。やがて、転がっていた体は切断面を海面に浸し、九郎に背を向けてぴたりと海の上に立った。自然と九郎の警戒心も強くなる。主は背中を丸め、ぐぐっと軋む音がした。
一気にケリをつけろ!
海の上であるに関わらず、――どこかから、ユキの声が聞こえたような気がした。
主の周りでは波のざわめきが大きくなり、何も落ちてないのに波紋が湧き上がる。何かが起こる――得体の知れぬ不安を覚えた九郎は幾重にも重なった波紋を切るように走る。目の前に盛り上がった波に爪をたて、天高く飛び、ほぼ垂直に急降下して主に襲いかかった。その時、主の行動が――軋む音の正体がわかった。
男が。主に撮り憑かれた男が――自らの胸に出来たコブを潰そうとしていた。
無傷の右手がコブを覆い、ものすごい膂力で締めつけている。コブは軋みながら形を変える。コブに出来た目が締め付けに逆らうように大きく見開き、男の顔を睨んでいる。男の右腕はその眼球にさらに食い込んだ。体中から生え出た闇の手が男の顔に絡まる。
それは一瞬の出来事だった。
空から急襲した九郎が、男に潰されそうになっているコブの目を見た瞬間――、濁った音。
ゴブッ
眼球が圧力に耐え切れずに破裂した。
潰れた眼球は泥のような粘り気のある黒い液体を一帯にぶちまけ、潰れた眼球の、眼窩の奥から――艶のない漆黒の玉のようなものが無数に飛び散った。さらに飛び出した玉を掴もうと闇の手が現れる。九郎は急降下の中、狙いをコブから飛び出た漆黒の玉を追いかける闇の手に定めた。無意識の判断だった。
そう判断した直後、主を囲うように海面が黒く染まった。かなり広い範囲が闇に染まり、突然のことで九郎は主を見失う。海底から唸るような轟音。海面が細かく波立ったかと思うと、唸りを上げて大量の海水が噴き上がった。
降下していた九郎は吹き上がった海水に押し上げられる形で上空に吹き飛ばされる。
状況が理解できず混乱した九郎は噴き上がった海水の流れに逆らえず、体勢を崩しながら落下した。海面に着水する瞬間、おもむろに伸ばした足で海面を引っ掻く。それでも勢いは殺せず水切りの要領で海面を派手に転がった。
転がっている最中――上下の景色が頻繁に入れ替わるなか、噴き出した海水の中から大きな黒い物体が――、主がその物体に飲み込まれていくさまを――垣間見たような気がした。
「くそ!今度はなんだ」
急いで体勢を立て直し主の方へ向かったが、そこにはもう何も存在していなかった。主も、漆黒の玉も、闇の手も――あれが見間違いではなければ、海から出てきた大きな黒い物体も。高く上がった飛沫が雨のように海面に落ち、無数の波紋を作っていた。
「――なんなんだ一体」
九郎が一言つぶやく。空からの海水の飛沫が鼻に落ちる。その後、主が消えた辺りを闊歩して痕跡を探ろうとするが、手掛かりになるようなものを得ることが出来なかった。
やがて九郎は海面でぶつかり合う波紋に目もくれず、浜辺に向かって走り出した。爪が纏っていた光は、だんだんと小さくなっていた。




