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若者は小さな集落の入口に立っていた。
入口といっても目の前には一軒のこぢんまりした家が建っているだけである。
空には日光を遮る雲が無く、澄み渡った青空が広がっている。季節はまだ梅雨が明けていない時期ではあったが、風は生温く気温は真夏並みに上昇していた。
若者はだらりと肩を落とし、猫のように背筋を丸め、首を少し右に傾け、ぼおっとした表情でこの小さな家を眺めていた。
この家の真正面には広大な海が広がっている。若者の目の前にある家から海までは、一本の大きな道路が横切っており、他には何もない。道路には車が一台も走っておらず、耳を澄ますと波音だけが聞こえ、海側から吹く風は潮の香りがした。
家はとても年季の入った木造家屋で、海側に面した正面玄関は潮風にさらされて外壁全体がひどく痛んでいた。何年も日光を受けたであろうと思われる瓦屋根は大半の部分が灰色にあせてしまっている。地面は粒子の細かい砂が踊り若者の靴にぶつかり、風によって舞い上げられては若者の顔を優しく叩いた。
この家を玄関とした集落は、奥の方にいくつかの民家が建ち並んでいたが、どれも似たような造りで似たような痛みぶりのようであった。
若者はぼおっとしながら目の前の家屋を観察する。
道路からやや奥に引っ込んだ家は門扉などなく玄関前は無駄に広い。正面には表札らしきものも見当たらない。それどころか人が住んでいる気配すらも感じられなかった。
太陽はほぼ真上にまで上がり、強い日差しが若者を照らしていたが、目を細める様子もなくただそこに突っ立っている。左手にはビニール袋をぶら下げ、袋から割りばしがはみ出している。若者は何をするわけでもなく、ただただ無表情で古ぼけた家を観察していた。
この若者の名は、不動山 九郎という。
常に姿勢が悪く、俯きがちで丸まった背中。頭を無気力に傾けているが、姿勢を正すと190はあろうかという長身。艶があるが針のように硬く尖ったボサボサな黒髪。顔つきは丹精だが、どこかとぼけた、そして幼い雰囲気を漂わせている。
九郎はしばらくその場に立ち尽くし、ぼけーっと家を眺めた後、とぼとぼと家の裏に回ろうと歩き始めた。
裏は庭になっていて、玄関前と同様に無駄に広い。一言で言うと殺風景な場所だった。
庭には雑草がほとんど生えていなかった。だが、奥に見える隣宅とこの家を区切るように、ある場所から木々や緑が奥に向かって生い茂っている。
庭で唯一目を引く物は、敷地の真ん中に置かれている小さな小屋だった。小屋といっても高さは九郎の腰より低い。せいぜい小動物が数匹住める程度である。ぽつんとそこに置かれていた小屋は、入口が屋根に届くほど大きくくり貫かれ、釘がところどころ飛び出している。一目見て手作りだと想定できる左右非対称な造りは、置かれている環境も相まってやけに目立つ存在であった。
九郎は犬小屋だと検討をつけたが小屋からは鎖も出ておらず、中に生き物がいる気配はない。風が吹く度に、舞った砂が小屋の入口に吸い込まれるように入っていった。
九郎はその犬小屋に若干の興味を持ったように目を細め注視したが、すぐに別の方向へ視線を逸らした。
これを何なのか考える時間が面倒だと思ったらしい。それから庭に足を一歩踏み入れて辺りを見回した。そして、ここでも九郎はその場で無気力に立ち尽くし、無関心そうにその風景を観察した。時折吹く風で舞い上がった砂が、手に持ったビニール袋を撫で、カサカサと乾燥した音を立てる。
時間はそろそろ昼になるかという頃だろうか、日は高々と上がり日差しも一段と強くなる。
「まいった――なにもねえじゃねえか」
九郎が今日始めて声を発した。力の無いなんとも情けない声である。
朝早く叩き起こされ、眠い目を擦りながら言われるがまま延々と走らされ、やっと着いたと思ったら果てしなく何もない場所。
辺りには人も、それどころか虫や、何かしらの生物さえも見当たらず、家の前の道路には車が一台も走っていない。波の音は止まないしうるさい、太陽はいちいち暑い、おまけに口の中には変な砂が入ってくる。
「なんなんだここは。こんなとこで何すりゃいんだよ――」
声を発したと思ったら、今度は愚痴が次々と止まらない。挙句の果てには庭をうろうろと歩きまわり、地面を蹴って砂を巻き上げるといった幼稚な遊びを始めだした。
「あー、腹減った」
九郎の手にしているビニール袋の中身は、道中で見つけた雑貨屋で買った、カップ焼きそばが入っていた。店を訪れた時間が早かった為に日配食品が何も陳列されてなく、めぼしい食べ物が目に付かず、選択肢が限られていたためである。さらに店内にはお湯を入れるサービスもなかったので、素の状態でビニール袋に入っていた。
九郎がここに到着してまず先に考えたのは、お湯の入手手段だった。
どうせそこに着けば家ぐらいは建ってるだろう。そこに誰かいるだろうから――、まあお湯くらいあるだろう。と、踏んでいたのだがこの光景をみて一気に気力がなくなった。
2,3歩歩けば、
「お湯――どうしようかな」
そして、また数歩歩き、
「ほんとにここなんだろうな――」
愚痴が止まらない。九郎は普段無口だが一定ラインの感情値を超えると、一気に心の中の声があふれ出す癖がある。――しかも陰険に。
さらには、困ったことにその一定のラインが自分の腰の高さよりも低かった。
砂を蹴り上げて歩き回っているので、辺り一面はちょっとした砂煙になっているが、本人は気づいていないし、愚痴も止まらない。
しばらく庭をうろつき、もう一度表に回ってみようと思った時、庭の隅――無造作に高く積まれた木材の陰から、ひょっこりと白猫が顔を出した。
白猫は、でこぼこだらけの木材の上を、重力を感じさせる事なく飛び渡り、あっという間にてっぺんに立つと九郎を見下ろした。
白猫は耳の先から尻尾の先まで体中が粉雪のように真っ白な毛で覆われていた。
白猫は少し流し目がちに九郎を見下す。シンメトリーで非常に整った顔立ち。木材を駆け上がる華麗な動作は、高貴な気品さえも感じられた。
「ユキか――」
九郎は見上げた白猫を、ユキと呼んだ。
「ほんとにここなんだろうな?」
「――――」
白猫は黙ったまま見下す。九郎は軽く一瞥し一言文句を垂れ、また砂を蹴り上げながらうろつく。
「なんにもねぇじゃねえか、朝早く起こしやがってよ――」
「――」
「人どころか虫すらいないぞ」
「――」
ぶつぶつと愚痴をたれる九郎を見下ろした白猫は、軽蔑を感じさせる冷ややか視線を投げ、小さな口を少し開けると、
「うるさい」
積まれた木材のてっぺんから白猫が九郎に向かって言葉を発した。
その外見に相応する透き通る声色であった。そして驚くのは、日本に住む人間の言葉を発した、まさかの日本語である。
続けざまに、猫は喋る。
「自分で何も調べもしないで勝手に決め付けるな。だからおまえはいつまでたっても成長できないんだ、バカが」
「じゃ、ここに何があんだよ?――海とボロい家しかないじゃねえか、それに暑いし」
九郎は反論と同時に思い切りユキに向かい砂を蹴り上げた。ユキはその行為を軽蔑のまなざしで平然と見下ろす。
「――まあ、いいや」
九郎の沸点がその蹴り上げで収まったのか、とぼけた調子に戻ると、
「――とりあえずよ、湯ー探してくれないか?――湯」
「なんでだ? そんなもの必要ないだろ」
「あるんだよそれが。今すごく必要なんだ、いいから探せよ」
「水ならあるだろ、すぐそこに大量に。しょっぱいが」
「それ海じゃねーか!お湯だよお湯!おまえなんで普通に言うこと聞けねぇーんだよ!バカ猫」
猫と人間の小競り合いが始まった。完全にあしらわれているのは人間の姿をした九郎である。
下界で子犬が吠えている、とユキが呟いた。九郎の訴えを全く気にすることもなく毅然と佇むユキを見た九郎は、諦めたのか深く息を吐き出すと同時に肩を下げ、
「――やきそば食いてーんだよ――。おまえのせいでなんも食ってねーんだよ――」
ユキを見ずに頭を垂れ、手に下げたビニール袋をユキに向かって振り回してみせる。ビニール越しにうっすらとカップ焼きそばのパッケージが透けて見えた。
「だったらお湯入れて勝手に食べればいいだろ」
「だからそれがどこにあんのか探せって言ってんだろが!オレの話聞け!それくらい手伝え!」
「甘ったれるな!それしきのことで私を頼ろうとするな!」
再びお互いの罵倒が始まった。何も無い殺風景な庭に波の音と、人間と、猫の怒号が混ざりあう。
しばらく罵り合いが続き、お互いがほぼ同時に息継ぎをした時だった。
ガタリ
さきほどまで全く気配の感じられなかった眼前の家から、物音がした。
九郎は家から発せられた物音に気付き、罵倒を止め、音に意識を集中させる、その上ではユキも同様に集中していた。
ガタガタッ
何やら縁側に設けてあった網戸がガタガタと揺れている。九郎は様子を伺いながら家に近づいて行く。
ガラガラガラ ガラッ
網戸が鈍く軋んだ音を立てながら一気に開かれると、中からノミのように背中が丸まった老婆が現れた。
「なんじゃらなんじゃら」
網戸を開けると老婆は、素っ頓狂な声で呟きながらよれよれと表に出て、ゆっくりと時間をかけて陽の当たる縁側に腰掛けた。丸い。顔がへその辺りまできている。
「一体なんじゃなんじゃらね――?急に騒がしくなったと思うたら」
誰に対してとかではなく、ひたすら庭に向かってしゃべり続ける老婆を見て、九郎は警戒心を解いて近づいた。
「婆さんよお、突然ごめんよ。大声だしてたのはオレだ」
「あえあ?」
九郎はとぼけた返事をした老婆に謝りながら正面に立つと、方膝をついて自分の顔を近づけ、老婆の顔と同じ高さまで下げた。
老婆は細い目をさらに細め、折れ曲がった背中をさらに折って九郎に接近し顔を見ようとする。
「おやあ、おめえさんだったかい。――まあこんなとこに珍しいもんだのぉ、他人様が来るなんてえ」
細めた片目をわずかに見開くと九郎を見定め、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにしてひゃっひゃと笑った。
「ごめんな婆さん。もしかして寝てたのか?」
「いやあ、寝てたんかなぁワシ。――寝とったような、寝とらんかったような――」
要領の得ない答えが返ってきたが、九郎はこれに慣れているのか戸惑うことなく、ふーんと言って応えた。
「――あんれえ、そこにいるのはおめえさんだけかい?えらいきれいなおなごの声もしとったと思ったがの」
老婆は顔をゆっくり上げ、細い目で庭全体を見渡しながら話した。
「そうか?オレだけだぞ。誰もいないから大声だしてみたんだ」
「ほええ――だんれもいなくて怖くなったか?ひゃっひゃ。なぁんもねえからな」
「かもなあ。なーんもねえもんな」
明るい婆さんだな――九郎は心の中でそう思いながら老婆を見る。そして、それを利用しようとする。
「婆さんさ――いきなりこんなこと言って悪いんだけどよ」
「んん?なんじゃら?」
老婆が呑気な口調で聞き返すと、にこりと白い歯を見せながら笑い、
「お湯ってあるか?――お湯」




