閑話 新月の女神
アンジェリクとダイモンが行動を共にするようになって一ヶ月。
ダイモンは、よく動く。それがアンジェリクの所感だ。
異世界ディーの常識に疎かったダイモンだが、すでに大部分で補完できている。
精力的に書物を読み漁り、気になる箇所はアンジェリクに教えを請うてくる。
読み書きについては全く問題が無い。
何しろ、アンジェリクたちが使う言語体系は、ダイモンの世界のそれと酷似していたのだから。
こうなるとダイモンの素性や発言の真偽が疑わしくなるのだが、このことが逆にアンジェリクにとある仮説をたてることにつながり、彼女にとっては興味深いテーマの一つとなっている。
さて、忌避しなければ御の字というアンジェリクの交友関係にあって、ダイモンはその中では異端の存在だ。
アンジェリクとは、いわゆる主従契約を結んでいるダイモンだが、彼はそこから一歩踏み込んで積極的に親密になろうとする。
好意的に迫られるという人生初の経験に、アンジェリクは戸惑った。
(や、ここまでグイグイ来られてもちょっと……)
望んでいた展開になったにもかかわらず、いざその立場になると、妙に怖気づいてしまう。
まったくもって面倒くさい、と自身でも思う。
だが、他人との付き合い方などとうの昔に忘れてしまったのがアンジェリクという女性だ。
対応を間違えて嫌われるのは勘弁して欲しいし、かといって手放しでダイモンの好意を受け入れるのも勇気がいるのだ。
そんなある日、ダイモンからのリクエストがあった。
「アンジェリク、君の絵を描きたいんだ。ちょっとモデルになってくれない?」
アンジェリクにはよくわからない、珍奇なことを言い出した。
見た目が熊のエルフ女を描いて楽しいか?
「アンジェリクはさあ、子供の頃に今の姿になってそれからずっとだろう? だからさ、その熊の遺伝史の下にある本当の君の姿、知りたくないか?」
あまりにも自然体で接してきて、その事自体が驚きのために忘れがちだが、ダイモンは、アンジェリクの言葉がわかるだけではない。
熊の遺伝史に上書きされている容姿の下の、アンジェリクの本当の姿を視認することができるのだ。
その姿はダイモンいわく、絹の様になめらかなプラチナブロンドを腰まで伸ばした絶世の美女であるらしい。
あくまでダイモンの主観のため、なんとも言えないが、容姿で褒められればそんなに悪い気はしないアンジェリク。
(まあ、別にいいか)
ならばいっそその美女のご尊顔を拝んでやろうじゃないかと、アンジェリクは軽い気持ちでダイモンのリクエストに答えたのだった。
***
「はい、アンジェリク。まだ動いちゃダメだって」
『いつまでこの姿勢でいなきゃいけないのよ……』
かれこれ一週間、アンジェリクは絵のモデルをさせられている。
絵を描いている時のダイモンの表情には鬼気迫るものがあり、一度モデルを了承した手前、あまり強く拒絶も出来ない。
なんか、大事になってしまった。
「……」
『……』
「……」
『……っ』
「……」
『……っっ、もう無理! 休憩! 休憩頂戴!!』
がおおっ、と吠えたアンジェリクが、椅子から立ち上がった。
「……うん、まあこんなものかな。出来たよ」
ダイモンがキャンバスを裏返し、「ドヤ」っという謎の擬音が聞こえそうな顔をして、完成した絵をアンジェリクに見せた。
『ほう……』
絵を見たアンジェリクから、思わずため息が漏れた。
「俺、模写は得意なんだよね。だからこれは誇張のない、ありのままの君の姿さ」
すさまじい別嬪さんが、絵の中にいた。
整った顔立ちといえばそれまでだ。しかし、穢れを知らないどころか寄せ付けないほどの神々しさがあるのはどういうことだ。
切れ長の瞳には見たものを見透かしているかのように澄んでいる。顔のパーツが黄金比を表すかのように計算しつくされて配置されている。
はっきり言おう。こんな美人は主観が入ってなければ成り立たない、人の心の中にあるだけの幻想にしか過ぎないと。
「これで宝探しも、モチベーション上がったでしょ?」
『さて、どうかしらね』
アンジェリクは、キャンバスをダイモンからひょいと奪った。
「え? どうするの?」
『売る』
「売るぅ?」
『私に絵を飾る趣味はないし、それも自画像なんてもってのほか』
「いや、それを売るなんてとんでもない! せめて俺の部屋に飾らせて!」
『だ~め』
血相を変えて追いすがるダイモンを軽くあしらったアンジェリクは、美術商の元へ悠々と去っていった。
譲れないものは、譲れないのだ。
***
しばらくして、ダイモンが描いたというアンジェリクの肖像画は、好事家の間で高く評価され、その評価に気を良くしたダイモンは「新月の女神」と題した肖像画シリーズを次々と出品し、芸術家としての名声を得たとか何とか。
何故に新月と名づけたかについてダイモンは、
「新月ってのは見えないだけで、そこにはちゃんと存在してるんだ。俺にはその新月が、はっきりと見えていた。それを新月自身に見せたくて、描き始めたのが最初さ」
と語っている。
一方でダイモンは、モデルとなった女性については一切語ろうとしなかった。
「彼女はさ、恥ずかしがり屋なんだよね」
嬉しそうに語るダイモンを見て、当時のインタビュアーはすさまじい惚気話を聞かされたような気分になったという。