第4話 天使と精霊の契約
第4話
昼間はレストランとして営業している開拓者御用達の店、そのVIPルームに当たる個室で、アンジェリクとダイモンはくつろいでいた。
「ああ、いい。実にいい。この世界は、俺が求めて止まなかった世界だ」
『私達にとっては神秘でもなんでもない、厳然たる法則なのだけれどね』
アンジェリクの世界、ディーのことを知り顔を輝かせて言うダイモンに、アンジェリクは淡々と返した。
アンジェリクにしてみれば、人類が自力で発明し、進歩していく世界という方がよほどロマンがあると感じる。
理力とは、つまりはそこら中にある使い勝手の良い力だ。
蒸気機関、内燃機関、そして電気……人類の知識の蓄積とひらめきで力を生み、文明に昇華していくという方がよほど夢があることではないだろうか。
「そういう見方もあるかもね。でも、俺達の世界は、それ以外のすべての神秘が幻想、空想の類でしか無いんだ」
それはあくまでダイモンが知覚し、知ることの出来る範囲の話でしかない。
いつか、科学が彼の言う神秘に届く日が来るかもしれない。
そう言ってみたアンジェリクだったが、
「でも、それは今じゃない。俺には時間も、そして何より金がなかった」
研究のためには金がいる。調査のためには金がいる。準備のためには金がいる。生活のためには金がいる。
金、金、金、そして金。
世知辛い。どんな世界でも貨幣経済は人を喰らう怪物なのか。
アンジェリクも駆け出しの頃は金で苦労した覚えがあった。
「そして今はそれよりもっと酷い」
今のダイモンは一文無しで寄る辺もない。
たまたまアンジェリクと遭遇出来たことは彼にとっては僥倖であったことだろう。
それはアンジェリクにとってもそうであるわけで。
『ん、そこでひとつ提案なのだけれど』
足下を見ていることは重々承知でアンジェリクがダイモンに話を切り出した。
『ダイモン。貴方、私の付き人をやってみない?』
「付き人?」
『マネージャー、サポーター、通訳、荷物持ち……なんでもいいけど、私は普通に生活するだけでも結構難儀している立場なのよ』
熊の過獣人というだけでも距離を置かれるというのに、血塗れの凶獣の二つ名がそれを助長している。
コミュニケーションを取るにも一苦労するのだ。
アンジェリクの本当の姿を視認することができるために忌避する感情がなく、加えて熊の鳴き声にしか聞こえないアンジェリクの声を聞き取り、極普通に会話をすることができる。
その特殊性は、ゆくゆくは調査の必要があるものの、アンジェリクの日常をサポートするにはうってつけであり、アンジェリクの手の届くところに囲う必要があるのは間違いない。
『メインは小間使いのようなもので、それでもこき使うつもりなんてないわ。報酬に関しては衣食住の保証はもちろん、相場よりも高い給料もあげられるわ。こう見えて稼いでいるしね。そしてそのお金をどう使おうが貴方の自由よ。……もし即答が出来ないというのであれば、ある程度の試用期間を経てから改めて返事を聞かせてもらうということで、どうかしら』
久しぶりの笑顔はぎこちなくなかったかと気にしながら、逸る気持ちを抑えて努めて冷静に、アンジェリクは言い切った。
互いの立場の差は歴然としている。それでもアンジェリクはダイモンに自由意志で選んでもらうよう提案の形をとった。
嫌々従わせるのでは意味が無い。アンジェリクが欲しているのは、気の置けない隣人であって、奴隷ではないのだから。
「正直、話がうますぎるというか……俺にはいいことづくめじゃないか」
『信用出来ない?』
「……君にとってのメリットは? 俺は今、本当に無力で、君に何かをしてやれるなんて思えない」
『話し相手になってくれる。それで十分なの』
「まさか」
『一人で生きてきた時間が長すぎてね、人恋しくなったのよ。けれどまともに会話できる相手すらいないし、こんな姿で逃げられるし。そんな中で出会ったのが貴方。私に臆することなく会話のできる貴方の価値は、私の中ではとても尊いものなのよ。貴方が思っている以上に、私の孤独は深刻なのよ』
「……」
ダイモンは顔を伏せて押し黙った。
『……』
ダイモンが苦悶の表情を浮かべる中、アンジェリクはそれを静かに見守っている。
「俺が断ったら?」
ダイモンが顔を上げ、アンジェリクに問うた。
『どうもしないわ。本当は無理矢理でも留めておきたいけれど』
「……そうか」
そこで、再び顔を伏せてしまうダイモン。
『……』
何が気に入らないのか。何が決意を鈍らせているのか。
煮え切らない態度を続けるダイモンに、アンジェリクはついに業を煮やした。
アンジェリクは、ダイモンに声をかけ、指を一本立ててみせた。
『じゃあこの依頼を貴方が了承した上での追加報酬を提示するわ。この先、私が、元の姿に戻ったら、私のこと好きにしていいわ』
「え……」
アンジェリクは自分の容姿に対する評価はとっくに忘れていたが、しかし、ダイモンの評価だけははっきりしている。
綺麗だと、初対面で言ったのだ。まあ、だからそうなのだろう。
「え……お……」
ダイモンは言うと、目をまんまるに見開いてアンジェリクを見ていた。
明らかに今までの何処か疲れたような様子からはかけ離れている。
(えっ、これ? これなの? 冗談半分で言っただけなのに!?)
アンジェリクにとって自分を差し出すというのは苦し紛れの半ば思いつきだったのだが、本当にダイモンという青年がよくわからない。
(まあ、いつ元の姿に戻れるかなんてわからないしねえ……ま、もうひと押ししてみよう)
『私の事、綺麗って言ってくれたの貴方が初めてだし。そんな貴方なら、いいかなって。本当よ?』
くわっ。
なぜかそんな形容が頭に浮かぶほど、ダイモンは目を見開いた。
そしてやおら立ち上がると、アンジェリクに向かって頭を下げて、
「お手柔らかに、よ、よろしくお願いします……っ」
ダイモンは震えた声でそう言うと、アンジェリクに向かってぴんと手を伸ばした。
『こちらこそ、よろしく、ダイモン』
アンジェリクは、ダイモンの手をとった。契約成立だ。
笑顔を向けてくるダイモンに、アンジェリクの中の黒い心がケタケタと笑った。
***
ダイモンは、アンジェリクに案内されてとある宿屋の一室を与えられる事になった。
フロントでは早速、アンジェリクの言葉をダイモンが通訳して伝えた。
アンジェリクが懇意にしている宿は、仲の良い老夫婦が営んでおり、アンジェリク相手にもやわらかな表情で接していた。
それはアンジェリクにも頼れる人間がいることを示していた日に思われたが、アンジェリクいわく、【お客様】相手に別け隔てなく接するプロフェッショナルだからのことで、親身になっているわけではないそうだ。
しかし、ダイモンのことは信用ならないようで釈明には難儀したが、アンジェリクが筆談と態度で説明し、事なきを得た。
アンジェリクは苦笑して、
『私が人を連れてくるなんて信じられなかったんでしょう。ま、しょうがないわね』
と言っていたが。
急な客だというのに、与えられた一室は手入れがきちんと行き届いていた。
ダイモンはベッドにドサッと仰向けに倒れこむと、目を腕で覆い、めまぐるしいこれまでのことを反芻した。
(フォークロアを調べて、落ちて、彼女と出会って……異世界ディー、理力、遺伝史か……いっぱいありすぎてパンクしそうだ)
ダイモンが今経験しているのは、彼が求めて止まなかったおとぎ話の類だろう。
けれど、もしかしたらクスリでトリップしているだけの妄想かもしれない。あまりの突拍子のなさに、そう思ってしまう。
だが、ダイモンが感じる限り、これはダイモンにとっての現実だ。
そして、アンジェリク・ユーヴァーメンシュという女性。
彼女の存在が今一番、ダイモンを夢中にさせている。
きれいな人、強い人、寂しい人。
そんな人から、たとえ何かしらの打算があっても、自分を好きにしていいなんて言われて、ダイモンは舞い上がった。
一目惚れというのとは違う。どちらかと言えば、男の醜い情念が動いている。
けれど、熊の遺伝史に侵されて、周りには熊の過獣人というものにしか見えないアンジェリク。
その孤独がどれほどのものかは想像もつかないが、その片鱗は、ダイモンも街の中で見ている。
そしてアンジェリクが自身の孤独を語るときの物憂げな表情を嘘とは思えなかった。
「まあ、なるようになる、よな」
自身の中に芽生えた、神秘を求めるのとは別の衝動。
それを受け入れることにしたダイモンは、まもなく寝息を立て始めた。