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無敵の一手

作者: 鈴城

 吾輩は赤子である。名前は言いたくない。

 私は記憶から浮かび上がった文学作品の冒頭をもじり、ひとり苦笑した。かつて自分はくだらない冗談を言うタイプではなかったと思うが、それだけ退屈しているのだろう。

 まったく暇で仕方ない。そう思わないかね、と同年の友人に肩を竦めてみせる。

 答えはない。彼の口はおしゃぶりで塞がれているからだ。そうでなくとも彼が言葉を操れるようになるにはまだ当分かかるだろうし、それは私も同様である。先ほど発した声も言葉を成さず、出たのはあーあーと情けない喃語ばかりであった。

 意思疎通ができないことがこんなに不便だとは思わなかった。会話で時間を潰せないのもそうだが、空腹や不快感を訴えるために泣くしかないのが何より嫌だ。人前で泣きわめくなど恥ずかしい。

 しかし周囲の乳児たちがそんなことを気にする筈もなく、この小鳩保育園には常に誰かの泣き声が響いていた。

 保育士たちは若いのに慣れたもので、声を聞きつけてはてきぱきとおむつを換え食事を与え、子供たちの面倒を見ている。中には極力泣かないように過ごす私を気に掛けてくれる者もいる。赤子の不自由は当分続きそうだが、私はここで母を待つ昼の暮らしに馴染みつつあった。

「はい、お迎えですよ」

 声が掛かって保育士のひとりに抱き上げられ、長い昼は終わる。連れられてきた手狭な玄関で、ゆるく波打つ髪をひとつにまとめた母が軽く頭を下げた。私を抱き取るその顔には、毎日飽きずに満面の笑みを浮かんでいる。早朝から働いていた筈だが、疲れは見えない。

 母が私の手を取り、保育士に向けて振ってみせる。母の腕に提がる大きな買い物袋が、がさがさと音を立てた。

 保育園のあるビルを出て、母は歩く。信号の変わりが遅い交差点を渡り、少し遠回りをして公園の中を通る。足を止めて野花を眺めたり、ブランコに座って小さく揺れてみたりもした。

 私は母の膝で揺られ、すぐ前を舞う白い蝶を目で追った。こんな風にのんびりと周りを見ることなど、以前はなかった。

 時間が来たら、母は私を伴い公園の前のバス停に向かう。同じバスに乗った女子高生らしき少女が、私たちに席を譲ってくれた。

 民恵は元気だろうか。年頃の少女を見ると、どうしても彼女のことが浮かぶ。

 席を立った少女は、私と目が合うと無邪気に笑った。民恵が最後に笑いかけてきたのはいつだったろう。思い出せる限り、ずっと私を邪険にしてくるばかりだった気がする。

 私は少女に精一杯の笑顔を返しながら、この子も家では親を睨んで憎まれ口を利いたりするのだろうかと考えていた。



 母は私を乳児用の椅子に座らせ、時に鼻歌を歌いながらカレンダーを覗き込み、どこに何が入っているのか見当もつかない棚の群れと小さなキッチンとを忙しなく往復している。私と両親が三人で暮らすアパートは狭く、その割に物が多いのだ。

 私は椅子に作りつけられたテーブルに体重を掛け、夕食が作られる音と匂いをゆったり楽しんだ。手元に新聞がないのが惜しい。せめてニュースでも見られればいいのだが、点け放されたテレビが映しているのは夏を先取りしたオカルト番組だった。こうした神秘だ恐怖だというものは定期的に流行するらしい。

 民恵が小学生の頃にも、怪談本を集めていたのを覚えている。お父さん何か怖い話知らない、と腕を引かれてありがちな話をしてやったものの、盛り上がらない怖くないと大不評だった。それは私が話下手というのもあるが、そもそもそんな不確かなものを信じておらず、寧ろくだらないと感じていたのが滲み出ていたせいかもしれない。

 当然だ。人は死んだらそれで終わり。化けて出たりはしないし、天国も極楽もありはしない。それが普通の考え方だろう。

 では私は、何故ここにいるのだろうか。

 今日のオカルト番組は、どうやら前世特集らしい。マイクを向けられた外国の少年が、母親の胎内にいた記憶から遡り、十年前に亡くなったある男とその家族しか知りようのない事実をぼそぼそと喋っている。

 こんなものは仕込みだろう。しかしそう考えながらも私は、彼を食い入るように見つめていた。

 少年は語る。妻子の顔、住んでいた町。仕事の成果、死の予感。

 私はそこに自分の持つ記憶を重ねていった。妻と民恵の顔は少しぼやけている。今日母に連れられて通ったのとは違う、高層ビルの多い街を知っている。二十数年同じ会社に勤め、仕事のことばかり考えて過ごし、そして。

 何故こんな記憶があるのか、私はいつも悩んでいる。

 もしかしたらこの日々が夢かもしれないし、すべて病んだ人間の妄想かもしれない。自分が置かれた状況を、取り敢えず説明できる言葉が欲しい。赤子の身でこんなことを考えている異常さを見つめ、不安で夜泣きしたこともある。

 しかし最終的には眠気には勝てないし、当たり前に腹は減る。真実を確かめようのない記憶の扱いよりも、今日の離乳食の味が目の前に迫る現実なのだった。

「ねえ、パパ今日も遅いわね。先にご飯にしましょうか」

 母は時計を見上げ、私のすぐ前に腰を落とした。

 年若い母の表情は正直で、子供のようにわかりやすく消沈している。 

 同調して出そうになった嗚咽を飲み込み、じっと母を見つめ返す。言葉を掛けることも独力で椅子から立ち上がることもできない私には、母が立ち直るまでの数秒をただ待つのが精一杯なのだった。



 自分の泣き声で目が覚めた。

 状況が飲み込めず、混乱してますます喚いてしまう。ようやく意識が覚醒して、泣くようなことなど起きていないとわかるようになっても、なかなか涙を落ち着かせることができない。

「ごめんな、驚かせちゃったな。ごめん」

 気付くと私は抱え上げられ、あやすように揺すられていた。少し硬い手の感触は父のものだろう。

 辺りはすっかり暗く、玄関の電球が辛うじて部屋の半ばまでを照らしている。ベビーベッドの横に敷かれた蒲団が動き、母が起き出す気配がした。

「……どうしたの、おしめ?」

 こちらを覗き込む目は半分も開いていない。この少し疲れた顔を見るたび、無力なこの身が申し訳なくなる。

「いや、俺が物音立てちゃって」

「なに、今帰ってきたの」

 母の目が更に細くなる。嫌な予感がした。

「残業だったんだ」

「連絡くれればよかったのに」

 どこかで聞いたような、いつか自分もしたようなやり取りだ。

 自然と視界が歪んでしまう。幼子の体というのは敏感で、両親の雰囲気には特に大きく感情を揺さぶられる。

 二人の不機嫌な声色が、妻との口論を喚起する。

 いつも通りの朝だった。しかし普段は淡々と朝の支度だけする彼女がやけに当てつけがましく、仕事の予定のことばかり考えていた私はそれが気に障って冷たく返した。

 スケジュールスケジュールって、私はあなたの秘書じゃないのよ。何かを訴えるような妻の目を見て、私は不当に責められているとしか感じなかった。民恵は食卓を立ち、低く言い合う私たちに目もくれず出ていった。

 これはかつての私の記憶にある、最後の朝だ。

 玄関のカレンダー、その日の欄に、乱暴に赤い丸が付けられていた。私は一瞬首を傾げるだけで気に留めず、すぐに会社へ向かった。

 今の私にはわかる。あの日は妻の誕生日だったのだ。

 赤い丸印はおそらく、私たちに無関心に見えた民恵から私への「家族を顧みろ」というサインだったのだろう。その場で気付けていたら何か変わっていただろうか。今更わかったとしても、手の届かない遠い過去だ。

 だが、今このときならば。

 私は今にも言い争いを始めそうな両親を見上げた。未熟な体は動かず、私を抱える父を制することすらできない。

 だから大きく息を吸い、唯一のサインを送れる手段を行使した。

「うわあああああん!」

 両親は同時に、目が覚めたような顔でこちらを見下ろす。

 父にはまた驚かせたと謝られ、二人に揃ってあやされるが、故意にでも一度泣き始めてしまうとすぐには止められない。私は両手を伸ばして二人の服を掴み、自棄っぱちに泣きまくった。



 それからしばらく泣き続け、ようやく静かな夜が戻る。私は落ち着いてからも父母にしがみついたまま、二人の間に抱かれていた。両側から体温が伝わってきて、泣き疲れた頭は心地よさに揺れる。

「ごめんな」

 父が呟く。私にではなく母にだ。母は首を振って「私もごめん」と返す。

「それと、誕生日おめでとう」

 父が目を瞠る。まだ年若い父は、慣れない社会人としての忙しさに、自分の生まれた日すら忘れていたのかもしれない。母も同じように考えたのか、おかしげに笑った。

「早く帰ってきてほしかったの。この子がちゃんと起きてる内に、揃ってお祝いしたかったから」

 そう言って食卓を見やる。私からは見えないが、そこには布を被せた料理が並んでいるに違いない。

 父は照れくさそうに礼を言い、母の笑みが深まる。幼子の体はやはり敏感で、穏やかな空気は何より私を安心させた。

 これでいい。食卓にこの空気が流れ続けていくなら、泣き喚くくらい恥を忍んでしてやろう。今の私の手は、二人の家族に届くのだから。

 人ひとりの一生分の記憶を持つ理由も意味もわからないし、わかることもおそらくないだろう。しかし、自分でそれを考え出すことはできる。

 今の私のため。かつての失敗と苦い後悔を胸に刻み、これからの人生で同じような間違いをしないために、この記憶はあるのだと。

 頭を撫でる感触に、重くなってきた瞼を押し開けると、二対の瞳が優しく細められている。

「もう怒ったりしないからな。ゆっくりおやすみ」

「おやすみなさい」

 二人の囁くような声を聞きながら、私は目を閉じた。彼らの望むような子には育てないかもしれないが、この掴んだ手だけは離すまい。

 ただいつか、きちんと言葉を話せるようになったらこれは言わせてもらおう。

「また明日、姫子。私たちのお姫様」

 ――その呼び方はやめてくれ、と。


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