ベットはふかふかに限る
「呉葉!?」
椅子から転げ落ちて倒れた呉葉に慌てて駆け寄る。流石の奈義沙もこれには少なからず動揺したようで、椅子が倒れるのも構わず寄ってきた。
「呉葉!呉葉!」
何度名前を呼んでも、強目に身体を揺すっても意識が戻る気配は無い。
「退きなさい」
それを見ていた奈義沙が、半分力ずくで僕を退かす。抗議の声を上げるもガン無視されては、もう食い下がるしかなかった。奈義沙は呉葉の口に手を当てた後、手首を握り脈を測ったようだ。
「昏睡状態と云うより、ただ眠っているだけみたいなものだから安心なさい」
命を落とす危険は無いと知って、漸く肩から力を抜いた。
「あっ!」
「何よ、五月蝿いわね」
いきなり大声を上げた俺に、嫌そうに眉を寄せる奈義沙。だがそんな事はどうだったっていい。
「紅茶か生チョコに何か入れたんじゃないの?」
閃いてしまった一つの仮説を、敵対心と共に叩き付ける。
「はあ?」
言ったは良いが、相手の方が数段迫力があった。瞬時にドスの効いた声で返されて、「うっ」っと詰まった様な情けない声が自分の口から出て、それと同時に背中が竦んだ。
「何でそう思うのよ」
再び通常より低い声で問われて肩が強ばるが、ここが正念場。勇気を見せなきゃいけない。こんな事で親友…………いや、好きな人を見捨てたとあっては男が廃る!
「だっ、だって奈義沙が紅茶と生チョコを用意したんじゃん…………」
と言った瞬間奈義沙の眼光は鋭さを増した。それに射竦められながらも言い切った自分は、賞賛に値すると思う。
「成程ね。つまり、私が紅茶と生チョコに毒物でも入れたと」
淡々に俺の思考を察して言っただけ。その言っただけが怖かった。嫌味の一つや二つが付いてこないというのが、逆に恐ろしい。
奈義沙は立ち上がると、紅茶のポットへと手を伸ばす。不審に思いながらも、一体何をするのかが気になって見守っていると、唐突に紅茶をティカップに注いだ。既に一杯分しかなかった紅茶は、もう冷めてしまっていたらしく奈義沙は一気に飲み下した。
「これで良いかしら?」
行動がいきなり過ぎて、何が良いのか分からず戸惑っていると、いつもの如く溜息を吐かれてしまう。
「貴方、さっき私が薬でも入れたのかと疑ってたわね。これで入れていないという証明が出来たかしら?だいたい、貴方は紅茶と生チョコを一口も食べてないの?」
「…………紅茶も飲んだし、生チョコも食べました…」
言われて自分の推理が酷く矛盾していた事に気が付いた。そりゃ奈義沙じゃなくたって怒るわ。濡れ衣を着せられた様なもんなんだから。
「貴方の推測通りだったら、今頃貴方も気絶してるわよ。少し考えれば分かるでしょ。その頭はお飾りで、思った事を脳を通さずに口に出してるの?脊髄反射で生きてるのかしらね」
さっきまでとは打って変わって、嫌味のオンパレード。猛攻撃。それでいて、反省したばっかの所を的確に突いてくるから、図星過ぎて一周回って腹が立つ。
「それに、わざわざ私が薬の類を盛ったとして何の得があるのよ。薬を入手するのにも手間暇掛かるし、工作するのだってリスクがあるわ。だったらそんな回りくどい事やってないで、手っ取り早く殺した方が良いじゃない。貴方達を瞬殺するのぐらい、赤子の手を捻るより簡単ね。加えて言うなら、権力だって持ってるんですもの。誰も咎めはしないわよ」
確かにその通りだと頷くしかなかった。現在進行形で腹が立っているが、怒ったところでそれは八つ当たりだし結果は見えている。フツフツと湧き上がる苛つきを、深い溜息でやり過ごした。
「取り敢えず呉葉を部屋で寝かせましょう。貴方が運んでいる間に、私は昼食の準備をするから」
パチンっと指を鳴らして、机と椅子とそれから紅茶とチョコレートを消した。出現させた時同様、やはり何処に消えたのかは分からず不可思議だ。
「ちょっ!待って奈義沙!」
「何よ?」
スタスタと階段を降りようとしている奈義沙を、慌てて呼んで引き止める。眉を顰めて振り返った奈義沙だが、「何よ?」じゃない!
「俺一人で呉葉を運ぶとか無理!絶対無理!」
男の意地とか、男のプライドとかそんなものは知るもんか。好きな人を守りたいとか、支えたいとかっていうのは分かる。けど!筋肉自慢でもない俺が、自分より背の高い男子高校生を運ぶなんて無理だ。しかも意識が無いなんて尚更無理。
「自慢じゃないけど、女子だって抱えて運ぶのなんて無理だから!」
「ホント自慢じゃないわね」
若干引き気味な奈義沙に、哀れみの目を向けられる。同情するなら金をくれ!と思いはすれど、階段の多い図書館の外までは、奈義沙が運んでくれることになって感謝だ。
寝ている呉葉を抱える為、奈義沙がしゃがみ込む。ちょっと。ワンピース着てるんだからヤンキーみたいにしゃがむの止めなよ。真穂の顔でやられると尚更違和感あるから。加えて俺は聴いたぞ。「よっこらしょ」と言ったのを。ババア頑張れ。
「何よ」
「…………別に。何でもない」
お姫様抱っこというやつで呉葉を抱え上げた奈義沙。流石怪力ババア。
中身が今は奈義沙のせいで女王然としているが、整い過ぎている真穂の姿は物語の中の人の様だ。そんな美しい人が、儚さを纏った優美な青年を横抱きにしている。なんて美しい光景だろう。不謹慎ながらボケーっと見惚れていた。…………まぁ、お姫様と王子様の立場が逆転してしまっているけども。
奈義沙は幾分か丁寧な脚運びで、ゆっくりと階段を降りていく。その姿もまた綺麗てボーっと見ていたのだが、視界から二人が消えて我に返り、固まっていた身体を焦って動かした。
小走り状態で降りれば二人に追いつくのは簡単だ。追いついたからといって、奈義沙と話すことも無いので一歩後ろの位置で無言を通す。静かになった図書館は雰囲気が良くて、落ち着く心地良い場所だ。出窓から射し込む陽の光が暖かい。
一階までたどり着くと奈義沙が振り返り、俺に背を向けるようにと指示をした。言われた通りにすると、背中に重量が掛かってきていきなりの事でよろめく。
「しっかり立ちなさい」
「先に言ってよ!危うく呉葉を落とすとこだったじゃんか!」
前屈みで呉葉をおぶりながら言うと、顔をふいっと逸らされた。どうやら自分の非は認めないらしい。
にしてもだ。呉葉…………重いよ。長い脚が地面に付かないように持ち上げると腕への負担が凄いし、何より長身な為凄くおぶり難い。既に転びそう。
「じゃあ頑張りなさい。昼食の支度が整ったら呼ぶわ」
「それってどの位?」
「さぁ?一時間前後ってところかしら」
「分かった」
呉葉を抱えていた疲れなど微塵も見せず、というか全く疲れてないのかもな奈義沙は、直ぐに歩いていった。
重い足取りで一歩一歩進む。途中の謎の池の上は涼しかったが、あとは地獄だった。ドアを開けるのには苦労した。それ以上に閉めるのはもっと大変だったけど。広過ぎる土地に嫌気がしたし、長い廊下には城を作った設計者に殺意が湧いた。俺達に宛てがわれた部屋は二階にあるのだが、辿り着くまでの階段が実に恨めしい。一階分の天井が高いせいで、自ずと階段も長くなる。緩やかで一段の幅が大きい階段は、急じゃないだけ有難いけど辛いものは辛い。天井の絵画とかシャンデリアとかぶっ壊したい。
苦労の果てに呉葉の部屋を開ける。ダブルサイズ以上あるベットに呉葉を下ろした。その際、少し乱雑になってしまったのには目を瞑って頂こう。
「疲れたー」
もう動けない。呉葉の横にゴロリと転がる。寝たまま手脚を伸ばして体を捻れば背骨が鳴った。一気に歳食った気分。
「……紅野?」
「ん?あれ、呉葉起きたの?」
呉葉が目を覚ましたのは分かったが、悪いが自分は起き上がれない。もう無理。体力の限界。
「もう少ししたらご飯らしいから、まだ寝ててもいいよー」
ついでに俺も寝よ。呼びに来てくれるって言ってたし、寝過ごして食いっぱぐれる事は無いだろう。
「呉葉?」
返事が無いのを不審に思いもう一度呼び掛ける。どうしたんだろう。
「くれ――――」
言い終わる前に息が止まった。揺れる黒髪が視界に映る。……呉葉?だよな。
って!近い。近い。近い。近い。近い。近いっ!何これ!?いったい、何がどうなってこうなった!?どうして俺は組み伏せられてる訳!?
「……呉葉さーん?」
恐る恐る呼んでみたが返事は無い。変わりに荒い呼吸音が耳に入る。そこでやっと了解した。
ーーーーこれガチ目にヤバい感じのやつじゃん。
荒い息遣い。紅潮した頬。黒髪の奥から覗く瞳は、薄暗い色をたたえて据わっている。
これ確実に俺の貞操が危ないのでは?とか、頭の半分ぐらいは思っていたけど、実際目の前で好きな人にそんな事されたら、正直ドキッとしてしまうもので。普段の清潔感溢れる呉葉とは違う、艶やかな姿なんて見惚れない方がどうかしてる。っていうかエロ過ぎて目を逸らすに逸らせないっていうか…………。
「呉葉!ちょっと退いて!」
それでも理性も良識もある俺は、呉葉を押し退けようとする。けれどさっき体力を使い切ったせいで、腕に力が入らない。
「こう……や…」
苦しそうに、縋るように呼ばれて、思わず押すのを止めてしまった。
それは反則だって。そんな状態でそんな風に呼ばれたら……。
もう無理。キャパオーバー。恥ずかしくて死にそう。
でもこのまま流されちゃいけない。だって今の呉葉は絶対正気じゃないから。その……ハジメテはお互い承諾の上でというか……。両想いになってからが良いというか……。こんなノリでみたいなのは嫌だ。呉葉だって望んでないと思うし。
呉葉を必死に止めようとするも、体格差もあって簡単に押さえ付けられた。スルッと首筋を撫でられて、反射的に肩が揺れる。
「……く…れは……」
呉葉の顔が近付いて来て、サラサラの髪が当たって擽ったい。耳と首に息が掛かるだけで、もう気絶しそうだ。
次の瞬間驚き過ぎて目を見開いた。ピチャッとした水音とヌルッとした感触に、一瞬で首筋を舐められているのだと理解する。
「ひっ!」
首を舐められるなんて初めてで、変な声が出た。それが余計に恥ずかしくて仕方ない。
頭……フワフワする。何かを握っていないと不安で、呉葉を押し退けようとしていた手は、今は逆に縋りつくみたいに服を掴んでしまっていた。
「こう……や」
「な……に…?」
「ごめん……も…無理……」
「え?っいた!」
ぼんやりしていた頭が刹那、首筋に切り裂く様な痛みが走って一気に覚醒した。
あまりの痛みにジタバタと暴れるが、呉葉はびくともしない。それどころか逆に押さえ込まれる始末。
「ジュッ。ジュルル」
「うっ」
牙で肉を抉られ、舌で肉を抉られ、唇で傷を食まれて、血を啜られる。痛い。もうヤだ。この痛みから早く解放してほしい。
「はぁはぁ。……ん……ぅん」
でもそれと同時に変に胸がドキドキする。変に…………そう、興奮する。
血を啜られる音が耳を犯す。首は確かに痛いのに、舐められる感触と這う唇の感触が気持ちいい。痛みと快感が同居していて、頭がおかしくなりそう。
暴れるのもやめて大人しくしていると、呉葉が口を離した。その頃には俺はもう貧血で、頭も意識も朦朧としていた。
「あっ……。ごめ……ごめん紅野」
「んー?平気だよ?」
俺の上から退いた呉葉はやっと正気に戻ったのか、愕然とした顔で謝罪を口にする。大分疲れたが笑って呉葉の髪を交ぜた。直毛の黒髪は相変わらずサラサラで、手触りは一級品だ。
「えー。何泣きそうになってんの?」
よく分かんないけど、呉葉が泣きそうな顔をしていたから、なるべく優しい手つきを意識して、頭をポンポンと軽く叩く。
あーあ。これ絶対服もベットも血だらけだな。早く洗わないと落ちなくなる。
そんな心配をしながらも、身体は重くて持ち上がらない。おまけに瞼も重い。出来れば起きていたいけど、急速に襲ってきた睡魔に俺は勝てずに、そのまま意識を手放した。