その4
「キヨシのお母さん」
待ち合わせた喫茶店に、大田夫人は先に着いていた。1枚ガラスの大きな窓際に並んでいる席のひとつから立ち上がり、千鶴に向かって軽く会釈した。
「千鶴ちゃん、この間の話、考えてくれた?」
もちろん、亡くなった大田キヨシのことを雑誌に載せる話だ。
「うん。おばさん、あたしあれからいろいろ調べたり考えたりしたんだけど、揃ってる材料からすると、難しいかもしれない」
「・・・・・」
「ヘタすると、いいがかりだっておばさんが社会から叩かれるようなことになっちゃうかもしれない。あ、おばさんの言ってる事がウソだっていうんじゃないんだよ。叩くだけの証拠がなさすぎるってことなんだよ。・・・・そんなことになったら、キヨシが悲しむよ。これからのおばさんの人生が、それに費やされるなんて、もしあたしがキヨシの立場だったら、すごく悲しいもん」
「千鶴ちゃん・・・」
「でも、そんなこと言われてもきっと納得いかないよね。だからさ、あたしと一緒に逆に『公式発表が正しい』っていう証拠を集めない?・・・あたし、ひどいこと言ってるかなあ?」
「ね、千鶴ちゃん、これを見て」
大田夫人が持っていた紙袋から、1冊の青いノートを取り出した。
「キヨシの手帳なの。亡くなってからキヨシの机の中から見つけたわ。・・・・亡くなる1ヶ月くらい前のあたりに、へんなことが書いてあるの」
「見ていいんですか?」
「見てちょうだい。そのために持ってきたんだから」
千鶴はノートを受け取ると、ぱらぱらとページをめくり、目的のページを見つけ出した。
「○月×日・・・5mg、1日2回。とても体調がよく発作も出ない。○月××日・・・7mg。⑭から増やすよう言われ・・・・・・」
⑭?何のことだろう?
「おばさん、この⑭ってなに?」
「それが、さっぱりわからないのよ」
首をかしげながら千鶴はノートをぱらぱらと全部読み、これは投薬の履歴だろうと考える。
(おかしい・・・キヨシはひとりで新薬を盗み出したんじゃないの?⑭って?・・・盗み出してから、誰かに相談した?それとも、この⑭の指示か、あるいはたきつけられて盗んだ?)
疑問が次から次へと出てくる。
いずれにしても、大田キヨシは死んだ。服薬との因果関係は立証できない。なにしろ、新薬を飲んだこと自体が彼の話とこのメモだけにしか現れていないのだから。
「おばさん・・・このノート、借りていい?」
「え、ええ。そのつもりで持ってきたの」
「あたしもまだ駆け出しの記者だし、何が出来るかわからない。でも、出来る範囲で調べてみる。だから、おばさんはヘタに騒がないで絶対におとなしくしてて。キヨシのためにも」
「・・・・・・わかったわ、千鶴ちゃん」
拓海には「かかわらない」と約束した。だから、今日会って大田婦人に諦めるよう説得するつもりだった。大田キヨシが病死だった、その事実を再確認して、納得させたいと思っていた。でも、浮かんでしまった疑問を消す事が、千鶴にはどうしてもできなかった。
二人で席を立ち、店の外へ出て、入り口の前で別れることになった。別れる前に、少しだけ立ち話をする。
「千鶴ちゃん、これからまたお仕事でしょ?お仕事、大変?」
大田夫人が聞いた。小さい頃から知っているこのおとなしい女性の、いつものなつかしい表情だ。
「うん、今日はこれから社に戻って、やりかけの雑用片付けなきゃ。まだまだね、そんな仕事しかやらせてもらえないよ。」
「最初は誰でもそんなものよね。がんばってね。体に気をつけて」
「ありがと、おばさんもね。また、帰省したら顔見にいくよ。・・・なにかわかったら連絡するから」
じゃあ、と挨拶しようとしたそのとき。
ものすごい音がした。車のエンジン音だ。
ぐわああああ!と、思い切りアクセルを踏んでふかす音がして、千鶴と大田夫人はそちらを振り返った。
そのとき目に入ったのは、大型の白いバンが迫って来るところ。まるでストップモーションのように、近づいてくる車がゆっくり見えて。
(あ、あぶな・・・・・)
思った瞬間に、世界が消えた。
番匠はつり銭を受け取るのもそこそこにタクシーを飛び降りると、電話で聞いた病院に駆け込んだ。「走らないでください」という警備の男性の言葉も耳に入らない。
集中治療室の前にたどり着くと、廊下のベンチに中年の男女が座っている。女性が拓海に気づいて、泣きはらした目をハンカチで押さえながら立ち上がった。
「たくみ・・・さん?」
「はい・・・番匠拓海といいます。失礼ですが・・・千鶴さんの・・・」
「はい、両親です。千鶴は今・・・」
そういって、千鶴の母親は集中治療室のガラス窓のほうを向いた。番匠もそちらを向き、ガラス窓の向こうの様子に体中が冷たくなるのを感じた。
ベッドがあり、誰かが寝かされている。あちこち包帯が巻かれ、チューブがつながれ、沢山の機械に囲まれ、酸素テントの中に入っている。
「千鶴!」
思わずガラス窓を叩きそうになり、辛うじて理性でそれを押さえる。
「道に立っていたところに、車が突っ込んできてはねられたそうです。犯人は車を捨てて逃げて、まだ捕まっていません。盗難車だそうですわ。誰が運転していたかはわかりません・・・千鶴と、もうひとり、千鶴が一緒にいた女性が・・・知り合いなんですけどね、その人は即死です。千鶴は・・・・」
そこまで話して、千鶴の母親はわっと泣き出した。今まで黙って座っていた千鶴の父親が、席を立って母親の肩を抱き、椅子に座らせた。
「番匠さん、ひとまず今夜が峠だ。治療の方はもう終わったんだけどな、あとは本人次第だって言われたよ・・・千鶴、背骨をひどくやられててな、ひょっとしたら助かっても障害が残るかもしれねえそうだ」
番匠は集中治療室の千鶴から目が離せない。窓のサッシに掴まった手が、白くなるほどぐっと手を握っている。
「医者の話じゃあ、運ばれてくる間、何度も『たくみ』って名前を呼んでたそうだ・・・それで、あいつの携帯見て、あんたに電話したんだ」
「・・・ありがとう・・・ございます・・・」
番匠はやっと千鶴の父親の顔を見た。やせぎすだが、勢いのある目つきの、50がらみの男性だ。いかにも頑固親父という言葉が似合いそうだ。
「すみません・・・取り乱しまして。」
改めて自己紹介して、3人でベンチに座る。
「あんた、千鶴とは」
「はい、お付き合いさせてもらっています」
番匠は頭を下げる。
「ま、そうだろうな。あいつの携帯の履歴が『たくみ』ばかりだったからな」
ちょっと赤面する。
「よくあんなじゃじゃ馬と付き合う気になったな」
「元気がいいのは確かですね。でも、なんていうか・・・一緒にいると落ち着くっていうか・・・」
いろいろ語りそうになって思わず口をつぐむ。千鶴の父親は「ほう」と珍しいものを見たような顔をする。
「あ、あの、それで、千鶴・・・さん、なんでその現場に行ったんでしょう」
「おう、一緒に事故に巻き込まれた大田さん・・・・千鶴の幼馴染のお袋さんなんだけどな、その人と会ってたみたいだな。喫茶店で会って話をして、店から出たところで事故に巻き込まれたらしい」
「大田・・・・って、亡くなった大田キヨシさんのお母さんですか?」
「なんだ、知ってんのかい?」
「ええ、ちょっと」
なんだか嫌な予感が頭をかすめる。
しばらくぽつりぽつりと話をしながらベンチに座っていたが、ふと見ると千鶴の母親が大層疲れた顔をしている。おそらく、もう何時間もここでこうしているのだろう。
まだ宿を取っていないという両親のために病院の目の前にあるビジネスホテルを予約し、何かあったらすぐ連絡するからといって二人をホテルに見送った。
番匠はひとり残って、集中治療室の窓を見ていた。
「千鶴・・・・」
出会ってからのことが、頭の中に次々と浮かぶ。
「縁起でもねえ・・・」
頭を抱える。