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その1

オフィス街から一本大きな道を越えて路地に入り込むと、細かな飲み屋が所狭しとにぎわっている。こと、金曜日の夜は最高潮だ。一週間の労働から解放されたお父さんたちが、平日とは違う表情で杯を傾ける。街にはビールや焼き鳥やその他いろいろな食べ物の匂いが流れ、寄る気はなくてもついふらふらと引き寄せられてしまう。


そんな飲み屋街の一角に、「てまり」はあった。白地に紺で屋号と筆で描いた手毬を染め抜いた暖簾、白木がいい色にくすんできた店構え、いつ来ても店の前も店内もこざっぱりと掃き清められている。ここが、長谷川千鶴の行きつけの小料理屋だった。

「いらっしゃい、あら、千鶴ちゃん」

上品に髪を結い上げた50がらみの女将さんが微笑む。いつ見ても、そこはかとない色気があって、まだ大学を卒業したばかりの千鶴には見習いたいことばかりだ。一方の千鶴は、肩にかかるくらいの黒髪をゆるくウエーブをかけ、少しレイヤーを入れた就活スタイルがちょっと伸びてきたヘアスタイル、それをうしろでひとつに括っている。ついでに言えば、顔はどちらかというと童顔だが男勝りの気性で目は鋭い。背はそんなに大きくなく160cmもないくらい、小柄でめりはりの効いたプロポーション。今日着ているパンツスーツは、ウエストを合わせて買ってしまったのでヒップがちょっときつい。

「こんばんは~」

なじみのカウンター席に座る。空いている限り、千鶴はカウンターの奥から3番目の席に座る。ここだと、女将さんとゆっくり話が出来るからだ。千鶴が座ると、すぐに突き出しのきんぴらごぼうの小鉢と熱いおしぼりが出てくる。

「ビール?」

いつも最初の一杯は中ジョッキを頼んでいる。けど。

「ん~、今日は、浦霞。冷酒で」

かけつけで飲みたい気分だ。はい、と黒塗りの枡に小ぶりのグラスが入ってカウンターに置かれ、大きな一升瓶からキンと冷えた日本酒が注がれていく。

「今日はどうしたの?悪いお酒にならなきゃいいけど」

グラスから酒が溢れ、下の枡を満たしていく。表面張力ぎりぎりでこぼれる寸前に注ぐのを止める。

「そのくらい飲めればいいんだけどね、多分そこまで深酒はできないよ」

駆け出し雑誌記者という職業柄、いつ呼び出されるかわからず、深酒はしないことにしている。それでも、軽くビールではなく日本酒を選んだのにはやはり理由がある。

「女将さん、聞いてくれる?小学校のときの同級生がね、病気で亡くなったんだよ」

「まあ・・・お気の毒に」

「幼馴染だったんだよ。大学あがってから私が東京に来ちゃって、そうしょっちゅう連絡は取ってなかったんだけど、久しぶりに連絡来たと思ったら・・・ちょっと、キツいよね」

グラスの中身をくっとあおる。

だんだん店内も混んできて、女将さんも千鶴の相手をしているわけにいかなくなってきた。千鶴は「気を使わないで」と、のんびりひとりで飲み始めた。エイヒレ、浅漬け、厚焼き玉子を注文して、じっくり飲む体勢になる。

30分ほどして、千鶴のとなりにスーツ姿の若い男性が座った。どうやら、このひとも一人のようだ。何気なしに見ると、やはり常連のひとり。

「あら、番匠さん、いらっしゃい」

そうだ。毎週金曜に来る人で、なんだか珍しい名前の人だった。ばん・・・ばん・・・

「・・・ばんとうさん?」

「ばんとう、じゃなくて、ばんしょう、です」

はっとしてそちらを見る。隣の男・・・番匠が苦笑いしながらこちらを見ている。しまった。思ったことを口に出していたらしい。

「そりゃごめんなさい。えっと・・・珍しい名前ですねえ」

「よく言われます」

千鶴は女将さんに声をかけた。

「女将さん、この人に一杯あげて。あたしのおごり」

そんなところから会話が始まった。

「へえ、記者さんなんだ」

「まだ駆け出しだからね、たいしたことやらせてもらえないけどね・・・番匠さんは?お仕事は?」

「俺は普通のサラリーマンですよ。製薬会社勤務です」

「製薬・・・・・」

千鶴が突然顔を曇らせた。

「どうかしましたか?」

番匠がきくと、う~ん、と考え込んでから千鶴が聞いた。

「開発途中の薬ってさ、事故があったりするもの?どう管理されてるの?」

番匠が眉をひそめる。

「それは、雑誌記者としての質問?」

「あ、ちがう。オフレコオフレコ」

千鶴はあわてて両手をぱたぱたと左右に振った。

「・・・知人が亡くなったんだよ。もともと難病をかかえててね、完治は出来ないって言われてたんだ」

もう一杯、日本酒を注文する。同じ銘柄を注文したので、同じグラスになみなみと満たされる。

「それが、一時期めざましく回復した。みんなびっくりしたよ。でも、何が起こったか訊いても絶対本人は言おうとしない。・・・ただ、お母さんにだけは、こっそり話してたらしいんだよ。・・・その知人は、製薬会社に勤めてた。新薬の開発部門じゃなかったけど、近いところで働いてたらしいんだよね。で・・・その、彼の患ってる病気の特効薬を研究してる、ほぼ完成してる、って噂をきいて、こっそりその薬を盗んで使ったっていうんだ。何回やったかは知らないけど、複数回薬を盗んだらしい。それが、具合のよくなった時期なんだ。・・・けれど、1ヶ月位して、彼は突然死んじゃったんだ。検死もされたらしいけど、内臓がボロボロだったって。でも結局、病死ってことでけりがついたらしいけど」

話を聞きながら、番匠の顔はどんどん険しくなっていった。

「そんな噂・・・聞いたことないな。なんて会社?」

「たしか、キングケミカルって…信用できない、っていうの?」

「そういうわけじゃなくて、・・・いや、逆にスキャンダルだから緘口令敷いて、それで漏れてこないのか・・・」

「でさ、聞きたいのは、そういう試験的に作られた薬だって、在庫とか管理されてるわけでしょ?問題にならずに何度も盗めるものかどうか・・・」

「・・・っていうと?」

ふう、と千鶴は大きくため息をつく。もうグラスは空だ。もたもたと箸を動かし、冷めてしまった厚焼き玉子を口に運ぶ。

「だからさ、会社がわざと薬を盗ませて彼に飲ませて、人体実験してたんじゃないかな・・・とか・・・彼が難病だったことは、会社にも報告してあったわけだから」

女将に頼んで水を一杯貰う。

千鶴が水を飲んでいる間、番匠は腕組みして考え込んでいたが、やがて口を開いた。

「でも、会社側にそうわかっていたなら、だまし討ちみたいに投薬しなくても、治験って制度があるんだから、いずれ数年後には堂々と投薬できたわけだろ?単純に、管理ミスなんじゃないかな。そんなことしたら、会社側にリスクが高すぎるよ」

「・・・・そっかあ、そうだよなあ。うん、そうなんだよ。・・・ありがと、番頭さん。すっきりした~・・・」

「だから番匠だって・・・・あれ?長谷川さん?」

千鶴はグラスや小皿をかきわけるようにカウンターに突っ伏してしまっている。あまつさえ、いびきが聞こえる。

「・・・あらら、千鶴ちゃん、寝ちゃったの?」

女将が覗き込む。

「困ったわねえ。風邪ひいちゃうわ・・・千鶴ちゃん?千鶴ちゃん?」

全く起きそうにない。女将がふう、とため息をつく。

「いいわ、あとで毛布でもかけといて寝かしとくから。番匠さん、大丈夫よ」

「といってもねえ・・・女将さん、彼女の家、わかる?俺、送ってくよ」

「いいの?まあ、番匠さんなら安心だけど・・・」


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