第四話
またも特定のキャラのセリフが多く、文学的なシーンがあります。
「お母さん!」黒髪でエメラルド色の眼をした少年――ウィルトは、片手にだいぶ古ぼけた絵本を持って、ベッドの脇に腰掛けている母親の元へと駆け寄った。「お母さん、今日はこれ読んで!」
母親はウィルトの持つ本の題名を見ると、紫色の眼を細めてちょっと呆れたように優しく微笑む。
「ウィルト、『今日は』じゃなくて『今日も』でしょ? これ、おとといも読んであげたじゃない」
「いいの!」ウィルトはベッドに飛び乗り、母親の隣に座った。
「だって、お父さんが出てくるんだもん」
「お父さん?」
「うん!」ウィルトは本を開いてパラパとページを捲った。
「ほら、ここ!『一人は一騎当千の猛者でした』。それからここ!『そこで猛者は漆黒の聖剣を振りかざし、ゾンビたちに切り付けました。穢れたゾンビは聖なる剣の力にはかなわず、もう立ち上がっては来ません。猛者は聖剣を使ってあっという間にゾンビを全部やっつけてしまいました。小悪魔は降参し、黒い指輪を差し出す代わりに命乞いしました。猛者は指輪を受け取り、小悪魔を許しました』。……ほらね? もうじゃってお父さんのことでしょ!」ウィルトは文を指差して騒いだ。隣のページの挿絵には、猛者が受け取った指輪と、漆黒の聖剣が写実的に描かれている。母親はその挿絵の右上の方に、金色の字で『D』と小さく書き込まれているのに気づく。
「これ、ウィルトが書いたの?」
「どれ?」ウィルトは絵本を覗き込む。
「ううん、こんなの、知らないよ」
「そう……」
ウィルトは、『D』の文字をじっと見つめた。
いったい何だろうか? ウィルトは無性に気になった。気が付くと、ゆっくりと無意識に右手を動かし、指で文字に触れようとしていた。
あと少しだ……ウィルトは思った。あと少しで指が触れる――。次の瞬間、ウィルトは指と紙が接するのを感じるとともに、今まで聞いたこともないほどの、苦痛に満ちた声を聴いた。
「罪人ノ子ヨ……ドウカ我ヲ……我ヲ救イタマエ……罪人ノ子ヨ……」
「えっ?」
「どうしたの、ウィルト?」
「お母さん」ウィルトは言った。「母さん、聞こえないの? この声……」
「声?」母親は怪訝そうな顔をした。「別に声なんてしないわよ」
ウィルトは驚き、思わずサッと指を引っ込めた。途端に声は途切れる。再び触れると、やはり苦しみに喘ぐ声が聞こえてきた。また離すと途絶え、また触れると聞こえる。
「お母さん、この文字に触ってみて!」ウィルトは言うが早いか、母親の手を引っ張って文字に触れさせた。
「ほら、聞こえるでしょ? ……この人、とっても苦しそうだ」
「何にも聞こえないわ、ウィルト」母親は心配そうにウィルトを見つめた。
「ねえウィルト、大丈夫? きっとお友達といっぱい遊んで、疲れちゃったのね。今日はもう本はやめにして、早く寝なさい」
母親はそう言うと、呆然とするウィルトをベッドに寝かしつけ、灯かりを消して部屋から出て行った。
しかしウィルトは最初、不可思議な声のことがどうしても気になり、なかなか寝付けなかった。あの声はいったい誰のものだったのだろう。誰に話しかけていたんだろう。どうして母さんには聞こえなかったんだろう――。そうこうしているうちに、ウィルトはようやく眠くなってきた。重い瞼を必死で開けていようと努力しながら、尚も考えを巡らす……父さんはこのことを知っているのだろうか。父さんには聞こえるのだろうか。誰がいつ、あの文字を書き込んだのか――『D』――『D』――『D』――。
「君――君は、ウィリアムス隊長の息子なのか?」聞きなれない男の声で、ウィルトはハッと目を開けた。
冷たい床の上に横たわっているのがわかった。周りを石壁で囲まれ、右の奥の方に、かすかな月光に照らされた人影が見える。ここはどこだろう――?
「君はウィリアムス隊長の息子なんだろう?」男がもう一度訊いた。声からして、二十代後半から三十台前半に達しようか、という程度の若さだろう。ウィルトは身体を起こそうとして、顔をしかめた。腹部と後頭部に痛みを感じる。特に後頭部にはコブができているようだ。おまけに吐き気と眩暈もする。
痛みと吐き気のせいで、ウィルトはこれまでのことを一気に思い出した。そして、ここがどこなのかということもすぐに推測できた。
「ここは――牢獄ですか?」
「そうだ」男が答えた。「君は数時間前にここに放り込まれた。今、ここには君と私だけだ」
「数時間前」ウィルトは繰り返した。
「ということは、今はもう夜なんですね?」
「そうだ。今夜は見事な満月らしい。もう長い間此処にいるから、月の明るさでわかる。……まあ、どうでもいいことだがな」男はつまらない冗談でも言ったかのように自嘲気味に笑う。ウィルトは後頭部をさすりながら上体を起こし、周囲をざっと見渡した。石の壁で取り囲まれた、直径三メートルほどの小さな丸い部屋だ。天井と窓はやや高く、夏の夜だというのにどこか寒い感じさえする。
「そんなことより、君はエドウィン・ウィリアムスの息子じゃないのか?」男は三たび尋ねてきた。
「その前に、あなたは?」
「おっと、すまん……私はパーシー・ラングフォード。元治安維持官自衛部隊隊員だ」パーシーと名乗った男は焦れったそうに早口で言った。
「それで、もう君が気絶している間も含めてずっと質問しているんだが、君はエドウィン・ウィリアムスの息子だろう?」
「そうです」ウィルトは答えた。
「やはりか……顔が似ているうえに『ウィリアムス』なんていう苗字だと聞いたから、もしやと思っていたが」
「父のことをご存知なんですね?」ウィルトは興味深そうに尋ねる。
「ああ。私は九年前までカーマーゼン地区の隊員だった。もちろん、短いとはいえ君のお父さんの下で働いていた時期もある」パーシーは答えた。「私より二つだけ年上で、ずっと勇敢な強い人だった。カーマーゼンで彼に敵う者は誰一人としていなかった。隊員全員が束になって、ようやく良い勝負だったろう。たぶん他の地区でもそうだったに違いない。私たち皆の憧れの的だった……」
ここで、不意にパーシーは声を落とした。「お亡くなりになったと聞いた時は本当に信じられなかった。我々はあの人が最強で、不死身なのだとばかり思っていた。……十年前のあの日、我々はモンマスシャーの自軍の救援に向かっていたが、目的地に着く前に急襲され、瞬く間に総崩れになった。あの人は、何人もの屈強なサクソン兵に取り囲まれ―恐らく武勇は相手にも伝わっていたのだろう―奮戦の後に殺された。私は情けないことに、何とか逃げ延びるのに精一杯で、実際にこの眼で見たわけではないがね。……私はサクソン人を憎む以前に、ひどく恐れたものだよ……あの人でさえも敵わない連中が相手なんて、この戦は端っから勝ち目がないじゃないか、とね」
パーシーはほとんど独り言のように言った。
「その後、私は治安維持官を辞めた。殺し合いに明け暮れる毎日に嫌気が差したのもあるが、勝ち目のない戦いに参加することに意味を感じなくなったことが一番の理由だ。……私は官僚になった。庶民の日常生活から少しでも離れ、現実を忘れたかった。もともと事務的な作業の方が私には向いていたらしく、私はとんとん拍子に出世して、すぐにウェールズ北部のアングルシー州の総督にまで就任した。アングルシーはエルフが多い州で、住民とのいざこざが絶えなかったが、私なりにしっかりと治めていたつもりだった。しかし、総督になってようやく一年が経った三年前、私はエルフに加担してアングルシーを彼らの土地にしてしまおうと図った、などというとんでもない濡れ衣を着せられて捕まったのだ」パーシーは最後は吐き捨てるように言い放ち、大きく溜め息をついた。
「身の上話が長くなってしまって済まない。ともかく、私が君のお父さんの知り合いで、何故ここにいるのかというのはそういう理由だ。……ところで、君はいったいどうした? えっと、名前は――」
「ウィルトです」
「ウィルトか。君は気絶した状態でここに連れて来られた……何をしでかしたんだ?」
ウィルトは王宮に呼ばれた理由、王座の間での尋問の内容、そして取引の話を蹴ったことを事細かに話した。誰かに話すことで、自分の中で出来事を整理したいという目的もあったからだ。説明が終わると、パーシーはしばし黙って何か考え込むような素振りを見せた。一向に話そうとしないので、ウィルトは気になったことを尋ねてみることにした。
「あの、ラングフォードさん、魔力のことには詳しいですか?」
「詳しいとは言い難いが」ラングフォードは言った。「興味があったのでいくつか文献は読んだことがある。普通の人よりは多少知識は持っているつもりだ」
「そうですか。では訊きますが、仮に寿命を二十年くらい削ると、どの程度のことが魔法でできるようになりますか?」
「寿命を削ることで得られる魔法は、人々の想像よりも案外少ないらしい」パーシーは答える。
「二十年では、せいぜい傷や武器を一瞬で直したり、普通のパンチ程度の打撃を離れた位置から相手に与えることができる程度だ」
「でも、それだと奇妙なんです」ウィルトは言った。「あの宰相、クリフォードとかいう人は、何もない所から椅子や机を出したり、物凄い力で人を――僕を吹き飛ばしたりしていた。そのうえ、どう見ても老人だった……それなのに、どうしてあんなに強い魔力を?」
「私は彼と同じ職場で働いていたこともあるから知っている。理由は簡単だ。クリフォード・アドキンスは人間ではない」パーシーは言った。「あの人は、エルフだ」
「えっ――?」ウィルトは絶句した。
「……エルフ? エルフが、この国の宰相……?」
「ああ、間違いない。私があの人自身の口から聞いた。あの人はそれを恥に思うようなこともなく話してくれた。非常に賢く、立派な人だよ」
「立派な人?」ウィルトは素っ頓狂な声を上げた。あんなやつのどこが立派な人だって? 人を道具扱いする王族に忠誠を誓う盲信者が。
ウィルトの思考を見透かしたように、パーシーがフッと笑うのが暗闇でもわかった。
「あの人が最も重んじているものは、法律と公平さと忠誠心だ。まさに国政の中枢を担うに相応しい人物だと私は思う」
「あいつは自分の意見を持たないただの言いなりだ!」ウィルトは怒って叫ぶ。
「君は誤解している。仮に法律と公平さと忠誠心のどれか一つでも重んじない者が権力の座を手にしたら、王国はいったいどうなってしまうと思う?」
「今よりずっと良い国になると思いますね」ウィルトはほとんど反射的に答えた。「法律や忠誠心に縛られて正しい判断を下せないなんて、政治家として失格だ」
「君は誤解している」パーシーは繰り返す。
「正しいかどうかは君が決めることではない」
「なら誰が決めるって言うんだ!」
パーシーが皇太子と同じような言い方をしたので、ウィルトはますます腹が立った。さらにパーシーが何か言う前に、ウィルトはあることを思い出してハッとした。
「母さんはエルフに殺された……そのエルフを尋問したのは宰相だった……その後、エルフは無罪になった……!」ウィルトは激怒し、立ち上がって牢獄の石壁を蹴り飛ばした。後頭部と腹に加えて爪先にも鋭い痛みが走ったが、ウィルトは構わず狂ったように喚き散らす。
「そういうことだったんだ――あいつが母さんの敵を見逃したんだ――同じエルフだから!!」
「ウィルト、落ち着け――」
「落ち着いてなんかいられるか!」ウィルトは絶叫した。今やウィルトにとっては、アドキンスはサクソン人や皇太子以上に憎むべき存在だった。「何としてもここを抜け出して、あいつを殺してやる」
「落ち着くんだ!」パーシーが負けじと怒鳴った。ウィルトは口をつぐみ、息も荒く暗闇の向こうのパーシーを睨み付ける。
「いいか? さっきも言ったが、私は彼と同じ職場で働いていたことがある――これは絶対に本当だ。だから色々な話をしたし、他の人より―もちろん君よりも―彼のことを知っている。そして、これだけは言える。彼は政治にそのような事情を挟むことは断じてない」
「どうしてそう言い切れるんですか?」ウィルトは噛み付くように尋ねた。
「そもそもアドキンスが――仮にも純粋なエルフである彼が人間の世の中で官僚になったのは、彼自身がエルフから追い出されたからだ。その経緯までは詳しく聞いていないが、何らかのエルフの掟を破ってしまったらしい。……だから君が言ったような極めて私的な理由で、アドキンスが君の母さんの暗殺犯を釈放するようなことはまず有り得ない」パーシーは穏やかな口調で諭すように言った。「それに、君の母さんが亡くなったのはエドウィン隊長とほぼ同じ、十年前だろう?」
「そうです」
「十年前と言えば、特殊部隊が創設される少し前、つまり最も戦況が悪かった頃だ。そんな国家の存亡が懸かった重要な時期にエルフとも争いが起こっていたら、この国はどうなっていたことか……」
「それじゃ」ウィルトの中で再び怒りの炎が燃え上がった。「それじゃあいつは、国益のためという理由でエルフを釈放した――つまり正しい判断をした。そう言いたいんですか?」
「ある意味、そういうことだ。しかし――」
「ばかげてる」ウィルトはまたも喚き出した。「あなたはさっき、何が正しいかを決めるのは僕ではないと言った! なのにアドキンスの行動が『正しい』だって? ……僕に言わせりゃあいつは行動を誤った。母さんの敵を見逃したりしなければ、万が一僕の気が変わって協力が得られたかもしれないのに。その望みも完全に消え失せた!」
「その通り。何が正しいかを決めるのは君ではない」パーシーは話の後半など聞いていなかったように答えた。
「私もアドキンスも、例え皇太子、国王でも、誰であっても決める権利など持たない」
「いったいどういう意――」
「社会だ。社会に於ける善悪は社会が決めるのだ……君の父さんが私にそう言った」パーシーの声は穏やかだったが、のども張り裂けんばかりに叫ぶのと同じような効果があった。ウィルトは黙りこくり、怒りと驚きが奇妙に入り交じった表情でパーシーを見つめる。
「君の母さんが不当な理由で殺され、さらにその犯人が無罪放免されるという事件は、あくまで社会の中で起こった出来事だ。そういった出来事の善悪を決めるのは、社会の中のいわゆる多数派、あるいは極めて重大な出来事である場合は、一握りの権力者たちなのだ。こういった社会こそがむしろ健全で、長続きするものだと私は思う。……もちろん、個人的なスケールに於いては、善悪を決めるのはその個人だ。個人によって善悪の基準は異なるから、他人が口出しできることではない。だが、個人の集合体である社会では違う」
「じゃあ、僕たちには何かを正しいと決める権利は無いってことですか?」
「いや、権利はあるとも」パーシーは全身を引きずるようにのろのろと動かし、ウィルトにしっかりと向き直る。「だが、たとえ権利があるからと言って、それが必ず実現するとは限らない。例えば我々には商売をして金持ちになる権利はあるが、それを実現できるのはごく限られた者たちだけだ。それと同じようなものだ。何かを決める権利はあるが、それが自分の決めた通りになるとは限らないだろう」
その時、満月の光がパーシーのやつれ果てた姿を亡霊のように朧気に浮かび上がらせた。パーシー・ラングフォードはボロ雑巾のような服を纏い、その顔は月光に照らされているからなのか分からない程に蒼白で、目は落ち窪んで瞳の色も判別できない。伸び放題の黒い髪の毛や髭にはすっかり霜が降り、かすれ気味ながらも若々しい声を除けば、まるっきり老人と間違えられてもおかしくなかった。少なくとも、かつて一州の総督を務めていた者にはとても見えなかった。
「アドキンスが取った行動は、確かに君にとっては許しがたいものだろう。しかし、君を除く社会の多数派や権力者たちから見れば、亡国の危機が未然に防がれるという利益を得た――つまりは正しい行動だったと言えるのだ。……ある時、拷問・脅迫されて味方の情報を吐いてしまったとある味方兵がいた。その時は幸い大した情報ではなかったので、我々は事なきを得た。一歩間違えれば部隊が壊滅していたかもしれないというのに、私たちは散々痛めつけられるまで耐え忍んだその味方兵をむしろたたえ、介抱した。だが君の父さん、ウィリアムス隊長だけは違った。隊長は味方兵に冷たく接した挙句、罰則を与えた。当然、私たちは抗議し、理由を問いただした。すると隊長はこう答えた――『社会に於ける善悪は社会が決めるもの、つまりは多数派や権力者が決めるものだ。この部隊という小さな社会に於ける善悪は、たしかに君たちにも決める権利はある。だが今回のように部隊の存亡にかかわる重大な事柄に関する善悪は、部隊の権力者である私が最終的に決定する』と」
パーシーは一気に言い終えると、苦しそうに大きく咳き込み出した。
ウィルトは無愛想な石壁をじっと見つめながら、パーシー、そして父の言葉を噛み締めていた。――父さんがもし生きていて、母さんを殺した犯人が無罪になったことを知ったら、いったい何と言うのだろう? どんな行動をとるだろうか……?
「ウィルト、難しいだろうが、アドキンスをどうか責めないでくれ。もちろん、彼は正しさを優先するがあまり、行き過ぎた行動をとる傾向はある。だが、彼は決して人間を嫌い、苦痛を与えてやろうと思ってあのような行動に走ったわけではないということを理解してやってくれ」パーシーはゼイゼイと喘ぎながらも最後にそう言うと、「こんなに長く話したのは久しぶりで、とても疲れたよ」と床に寝そべり、すぐに寝息を立て始めてしまった。
独り暗闇に取り残されたウィルトは、夜が明けるまでずっと、死んだ両親のことや世の中の善悪について、延々と飽きることなく思考を巡らせていた。