第九十三話:たつ
カランの指先に灯った炎は、ムルチデンスの毛根へ達する前に消えた。
両方を嫁にするという提案を早々に撤回したためである。
その後、四人は改めて名乗った。
サトゥルナのルナリ。
デカポダのダーバル。
ワラネ王国の王女ナリヤ。
王女という言葉を聞いたとき、ムルチデンスは興味深そうに黒い瞳をナリヤへ向けた。しかし、それだけにとどまり、先ほどの嫁騒動のようには驚かなかった。
「王女まで連れて帰ってくるとはねぇ。随分と立派になったじゃないか」
「連れて帰ったわけじゃない」
「二人も女の子を連れてきて、よく言うよ」
「まだ燃やされたいのか」
「冗談だよ」
ムルチデンスは長大な身体を丸め、上半身を四人の近くへ下ろした。
話をするだけなら、洞穴の奥にある居住空間へ移ってもよかった。しかし、他者を招くような場所は特に無いようで、そのまま広間で腰を落ち着けることになった。
ルナリは床へ座ると、早くも糸を引き出し、指先へ絡め始めた。ダーバルは近くに積まれていた石材へ腰を下ろし、ナリヤはカランの隣を選んで座る。カランの母を名乗り、気さくな態度とはいえ、アルスプレヴァを前にして一人で座る勇気はナリヤにはなかった。
「それで」
ムルチデンスがカランへ顔を向けた。
「術の扱いは、少しは上手くなったのかい?」
「それなりに」
「どうだかね。昔は火を灯すだけで、一面真っ黒にしていたじゃないか」
「一度だけだ」
「百はあったよ」
むしろ、無邪気に喜んでいた。ムルチデンスの整えた髪を爆発させて。
「覚えていない」
「都合の悪いことは、昔からすぐ忘れる子だったねぇ」
後始末をするのはいつもムルチデンスで、彼女は洞穴の補強に、それはもう腐心したものだった。
「カラン様にも、術を上手く扱えない頃があったのですか?」
ナリヤが身を乗り出す。知られざるカランに興味津々だった。
「生まれたときから使えたわけじゃない」
「それは、そうでしょうけれど……」
ナリヤは、幼いカランが術に失敗する姿を想像しようとした。
今では第一戦団の絶対的切り札で、最年少で宮廷術士にまで選ばれた人物である。どれほどの敵を前にしても表情を変えず、複数の術を同時に操り、他の術士には真似のできない大術を平然と放つ。
そのカランが、火を灯すだけで、一面真っ黒に。
どうにも現在の姿と結びつかない。
「最初に術を教えたときも酷かったねぇ」
「余計なことを話すな」
「術を扱えるなら教えてやろうと思ったんだが、出させた火は小さいのなんの。試しに空気を動かさせてみたらなかなか上手いもんでね」
「空気?」
ナリヤは、きょとんとしている。
ムルチデンスは懐かしむように目を細めた。
「そうしたら、この子は洞穴中の空気を集めようとした」
「結果的には成功した」
「周りにある物を全部吹き飛ばしておいて、何が成功だ。私の髪までめちゃくちゃにしておいて」
「傑作だった」
「女の髪をなんだと思ってるんだ!」
ナリヤが目を瞬かせた。
「あの、カラン様の得意術は火術では?」
王国でも並び立つものがいない紅蓮の術士。そう呼ばれるに至った所以は、超火力の炎だ。皆が口を揃えて火術の天才と惜しみない賞賛を送ったものだった。
「おや、隠しているのか?」
「……聞かれなかっただけだ」
「またそれかい……まあ、そうだな。火術と思ってもらった方が都合がいいか」
「……まさか、火術では無いのですか?」
「ああ、この子の得意は風さ。天性の才能だね。火も扱えるが、辺りを照らすのがせいぜいさ」
「そんな……」
ナリヤには、にわかには信じられなかった。
「……」
ナリヤは、カランへ視線を送るが、当の本人は口を開かない。
「この子の術は、物を燃やす術じゃない。燃やす場所を作る術だね」
「話しすぎだ」
「はいはい」
おそらくは真実なのだろう。カランにムルチデンスの説明を否定する素振りはなかった。
ナリヤは、カランの知られざる話を一言も聞き逃すまいと、いつの間にかムルチデンスへ身体を向けていた。
「ほかには、どのようなことを?」
「聞かなくていい」
「この子はねぇ——」
「話すな」
ムルチデンスが口を開くたび、カランが遮る。
ナリヤはそのやり取りさえ興味深そうに見つめていた。
「今はすごいよ」
糸を紡いでいたルナリが顔を上げる。
「ビューー!!ドーン!ってする」
「ドーン?」
「ドーン」
ルナリは両腕を広げてみせた。
ダーバルも大きく頷く。
「でかい爆発なら何度も見たぞ。あれはオレでも焼きエビになっちゃう」
「それは上手くなったと言ってよいのかねぇ………………焼きエビか」
ムルチデンスが疑わしそうにカランを見る。そのあと、ダーバルをちらりと見た。
「敵は死ぬ。それだけだ」
「味方は?」
「……吹き飛ぶくらいだ」
ナリヤが代わりに答えた。
「カラン様は王国の術士兵団の第一戦団に所属し、独立遊兵として幾つもの戦場で多大な功績を上げています。それだけではありません。術士院へ登録されてから僅かな期間で宮廷術士に選ばれ、キャンベラ要塞の建設にも——」
次々と功績を並べていくナリヤを、カランが横目で見る。
「なぜ、お前がそこまで詳しい」
「宮廷術士の経歴を知ることは、王族として当然です」
ナリヤは平静を装って答えた。もちろん、王族として知っておくべき情報ではある。ただし、それだけの理由で調べたわけではなかったが。
「へぇ……宮廷術士にねぇ」
ムルチデンスは感心したように頷く。宮廷術士というものが、正確にはどのような役職なのかはムルチデンスには分からない。だが、ナリヤの様子と言葉の響きから、それが人の間では由緒ある役職なのは伝わった。
「人間のところでは、上手くやっていたようじゃないか」
「それなりにな」
「料理はしないよ」
ルナリが付け加えた。
「私の息子だね」
ムルチデンスの料理は焼くか煮るのが限界だ。
「それは聞いていない」
カランも同じだった。
「掃除なら上手」
さらに付け加える。
「私の息子だね」
ムルチデンスは、これでも綺麗好きだった。掃除は欠かさず行っている。
「余計なことを言うな」
それも、カランも同じだった。
ルナリは、一応は褒めているつもりらしい。
ムルチデンスは小さく笑い、再びカランへ目を向けようとした。その途中で、ナリヤの傍らに置かれた細長い包みへ視線が止まる。
ずっと、大切そうに抱えていた品だった。
「その包みは何だい?」
ナリヤの表情が僅かに強張った。
「これは……」
「随分と古いものを包んでいるようだね。少し見せてくれないか」
すぐには返事をしなかった。
包みの中にあるものは、王家が代々受け継いできた宝具である。いかにカランの育ての親とはいえ、軽々しく異形の民の前へ晒してよいものではない。
迷った末、ナリヤは隣へ視線を送った。カランが小さく頷く。
それを確認すると、ナリヤは膝の上へ包みを置いた。幾重にも巻かれていた布を慎重に解いていく。
最後の一枚が開かれ、漆黒の玉笏が姿を現した。
王家の宝具、黒炉の玉笏。
王都を出る直前、ワランからナリヤへ託されたものだった。
ムルチデンスの触角が、黒炉の玉笏へ近づく。表面へ触れることはせず、形状と刻まれた紋様を確かめるように上下へ動いた。
「これは……いつだったか見たことがあるねぇ」
「ご存じなのですか?」
「ああ。随分と昔のことだけどね」
「どれくらい前でしょうか」
「さて、いつだったか」
ムルチデンスは記憶を探るように天井を仰いだ。
「人間が持っていたことは覚えている。人の壁ができるより前だったか、できたあとだったか……」
「そこから分からないのですか?」
「そんな昔のこと、いちいち覚えていられないよ」
十年をさっきと言ってのけたムルチデンスが思い出せないほどの昔話。ナリヤにとっては、想像もつかない太古の時代かもしれない。
しかし、ムルチデンスにとっては、記憶の中から正確な時期を探し出せない程度の過去らしい。
「優秀な触媒だよ」
ムルチデンスは黒炉の玉笏へ手のひらを近づけた。
「単純に術の威力を上げるだけじゃない。術が形になるまでの時間を短くし、制御の乱れを抑え、効果の及ぶ範囲や届く距離まで引き上げる。扱う術を選ばないのも珍しい」
「すべての術に使えるのですか?」
「あらゆる術の、あらゆる効果を飛躍的に高められる。扱う者の力量次第ではあるが、触媒として文句のつけようがない」
ムルチデンスは黒炉の玉笏とナリヤを交互に見る。
「文句なしの嫁入り道具じゃないか」
「まだ言うか」
カランの指先へ再び火が灯った。
「冗談だよ。今度こそ本当に」
ムルチデンスは慌てて上半身を引く。
ナリヤは顔を赤くしながら、黒炉の玉笏を布で包み直した。
一度緩んだ空気が静まる。
「それで、お前たちはこれからどうするんだい?」
ムルチデンスが尋ねた。
「この洞穴を通る」
カランは奥へ続く暗闇を指した。
「地上を進むより早い。追手に見つかることもない」
ナリヤが顔を上げる。
「王都へは、いつ戻るのですか?」
「戻らない」
あまりにも簡単な返事だった。
ナリヤは、その意味を理解するまでに僅かな時間を要した。
「戻らない、とは……」
「言葉通りだ」
「ですが、王都は異形の軍勢に包囲されています。軍も、第一戦団の皆様も、今も戦っているはずです」
「それで戻って何をする。俺たちが戻ったところで、戦況は変わらない」
「そんなことは……!」
自分はともかく、カランが戻れば状況は好転する。そう断じようとしたナリヤは、自分が如何に無責任な発言をしようとしているか気がついて、口を閉じた。そして、黒炉の玉笏を抱く腕へ力を込めた。
「では、初めから王都へ戻るつもりはなかったのですか?」
「ああ」
「なぜ、それを私に仰らなかったのです」
「言って納得したか?」
しなかっただろうか。いや、しなかったに違いない。
王都へ戻れないと知っていれば、ナリヤは父母の傍を離れようとはしなかっただろう。
「俺が哨戒へ出たのは、元よりナリヤとともに王都を脱出するためだ」
ナリヤは目を見開いた。
「私と……?」
「陛下に頼まれた」
ワランとの会話が脳裏へ蘇る。北方の状況を確かめるため。王女として王国の危機を自らの目で見るため。
そう言われ、黒炉の玉笏を託されて王都を出た。しかし、本当の目的は別にあった。ワランは初めから、娘を王都の外へ逃がそうとしていたのだ。
「お父様は……」
声が震える。
「私が戻れないことを、ご存じだったのですか」
「その可能性を考えていた」
「それなら、なぜ——」
言葉が続かなかった。
なぜ自分だけを逃がしたのか。
なぜ何も教えてくれなかったのか。
答えは、尋ねるまでもなかった。先ほどカランが言った通り、ナリヤが命令へ従わないと分かっていたからだ。
カランが語ったことは嘘ではない。だが、それがカランの目的のすべてでもなかった。
そのことを、ナリヤは知らない。
「ここから王都へ戻る道はありますか」
ナリヤはムルチデンスへ尋ねた。
「あるにはあるよ」
ムルチデンスは正直に答えた。
「けど、地上を戻るより時間がかかる。今から向かったところで、間に合うかどうか」
「わ、私一人でも——」
「戻ってどうする」
再びカランが遮った。
「王女が戻れば、王都を救えるのか」
「できません。ですが……」
「陛下の意志を無下にするだけだ」
厳しい言葉だった。ナリヤは俯き、抱えていた黒炉の玉笏へ視線を落とした。
すぐ傍らでは、ルナリが何も言わずに糸を紡いでいる。ナリヤを慰めることも、カランを責めることもしない。
ただ同じ場所へ座り、話が終わるのを待っていた。
少し離れたところでは、ムルチデンスがダーバルの左鋏を眺めている。
「長生きしてきたが、これほど大きなデカポダの鋏腕は見たことがないねぇ」
「だろ?」
ダーバルは左鋏を持ち上げ、誇らしげに見せた。
「よく身が詰まっていて美味そうだ」
「え」
ダーバルが鋏を身体の後ろへ隠す。その様子を見たルナリが、小さく笑った。
ナリヤは面を上げ、場にある顔を順に見た。
帰ることはできない。
たとえ一人で戻ったところで、父の選択をふいにするだけなのかもしれない。
それでも納得できるはずがなかった。
だがしかし、今はカランたちと共に先へ進むほかなかった。
「……分かりました」
黒炉の玉笏を包み終え、胸元へ抱える。
「ですが、いつか必ず、すべてを説明してください」
「必要があればな」
「必要です。今すぐにでも」
「なら、そのうち話す」
また先延ばしにされた。ナリヤは不満そうにカランを見つめたが、それ以上は追及しなかった。
> > >
洞穴の先は長い。
ムルチデンスは、出発前に休んでいくよう勧めた。カランも反対せず、一行は広間のさらに奥へ移った。
保存されていた食料と地下水が運び出され、長い道程に必要な分だけ分けられた。ルナリは荷物を包むための糸布を作り、ダーバルはムルチデンスから鋏を守るように距離を取っている。
ナリヤは休息を取るために横になったが、長い間、目を閉じることができなかった。
やがて三人が静かになり、洞穴の奥には地中を流れる水の音だけが残った。
カランは一人、出発する方角を確かめていた。背後から無数の脚が岩床を打つ音が近づく。
「十年前とは違う顔をしているね」
「少し大きくなったからな」
「そういう話じゃないよ」
ムルチデンスはカランの隣で身体を止め、カランの黒髪へ手を添えると、優しく撫でた。
「本当に、これでいいのかい」
「何がだ」
「人間の国へは戻らないんだろう?」
「ああ」
「お前は人間だ。今なら、まだ戻れるかもしれない」
「戻らない」
答えに迷いはなかった。
ムルチデンスはしばらくカランを見つめた。
「王女を逃がすためじゃないね」
カランは答えない。
「昔から、肝心なことは何も話さない子だった」
「話しても変わらない」
「母親というのは、変えられなくても聞いておきたいものなんだよ」
「そうか」
それでも、カランは何も語らなかった。ムルチデンスは諦めたように小さく笑う。
十年以上前、カランは一人でこの洞穴を出た。
アルスプレヴァの薄暗い洞穴で生涯を終えるより、人類の中で暮らし、家庭でも築いた方が良いと判断したムルチデンスが追い出したのだ。
あの頃は、まだ見送るムルチデンスを何度も振り返っていた。
——いや、可愛げもなく、さくさく進んでいた気もする
どちらにせよだ。もう、振り返る必要などないのだろう。
「お前も来るか」
不意にカランが尋ねた。
ムルチデンスの撫でる手が止まった。
「私も?」
「ああ」
「どこまで行くつもりかも話していないのに?」
「来るなら教える」
ムルチデンスは目を細めた。
その言葉が嬉しかった。
自らの進む道へ誰かを誘うような子ではなかった。ましてや、自分から一緒に来いと口にするとは思わなかった。
「嬉しいことを言ってくれるね」
穏やかな声で答える。
「けど、私は行けないよ」
「……」
「アルスプレヴァは地脈に生きる。住み慣れた土地を離れることは難しい」
ムルチデンスは、洞穴の壁面へもう片方の手を添えた。その向こうを流れる地脈を確かめるように。
「それに、私はもう充分に長生きした」
眠っている三人へ顔を向ける。
糸を握ったまま横になるルナリ。
黒炉の玉笏を抱えて眠るナリヤ。
左鋏を抱え込んでいるダーバル。
「息子も立派になったことだしね」
視線がルナリとナリヤの間を往復する。まだ嫁の話を諦めたわけではないらしい。
カランは何も指摘しなかった。
「そうか」
ただ一言だけ答え、洞穴の奥へ目を向けた。
○ ● ◎
一行は休息を終え、ムルチデンスから受け取った食料と水を分けて背負った。
カランが先頭に立ち、その後ろをルナリとナリヤが歩く。最後尾では、荷物を抱えたダーバルが大きな足音を響かせていた。
四人は広間を抜け、地脈に沿って延びる洞穴の奥へ進んでいく。
カランの指先に灯る炎が小さくなり、やがて闇の向こうへ消えた。
足音だけがしばらく反響していた。
それも少しずつ遠ざかり、地中を流れる水音へ溶けていく。
ムルチデンスは一行の姿が見えなくなったあとも、長いあいだ、その場から動かなかった。




