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アウストロメリアの炎  作者: 白月一
第四幕:虚空の英雄

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第八十七話:希望的観測

 ——先ほど、殉職されました。


 伝令の声が遠ざかっていく。


 何を言われたのか、ヤラミラには理解できなかった。言葉の一つ一つは聞こえている。ガルンダ。先ほど。殉職。その意味も知っている。それでも、それらを結びつけた先にある事実だけが、頭の中へ入ってこなかった。

 握っていた軍杖が傾き、石突きが煉瓦を叩いた。

 身体を支えていた力が抜ける。


「大隊長?」


 副官の呼びかけにも答えられない。ヤラミラは軍杖へ縋ろうとしたが、指に力が入らず、その場へ膝をついた。伝令が慌てて一歩近づく。副官も手を伸ばしかけたが、どちらもすぐには触れられなかった。

 壁上では、戦いが続いている。


「正面!また上がってきたぞ!」


「長棒を寄せろ!」


「北側区画から伝令!これ以上は保ちません!」


 胸壁へ黒い腕がかかり、兵士たちが長棒を押し当てる。“平鎧”を一体押し返している間に別の頭部が現れ、槍兵が甲の継ぎ目へ穂先を突き込んだ。

 ヤラミラが膝をつこうと、祖父を失おうと、押し寄せる鎧人は止まらない。誰か一人の時間が止まっても、戦場の時間は止まらなかった。


「大隊長、北側へ回す兵は!」


「正面も押されています!次の指示を!」


「ヤラミラ大隊長!」


 部下たちの声が、ひどく遠くから聞こえる。答えなければならない。どこへ兵を回し、どこを守らせるのか、自分が決めなければならない。分かっているのに、口が動かなかった。


 視界から、血に濡れた煉瓦が消える。


 代わりに見えたのは、陽の差し込む庭園だった。


 まだ幼かったヤラミラは、茂みの陰へ身体を隠している。

 庭の中央には小さな東屋があり、その下でガルンダが目を閉じ、瞑想していた。膝へ両手を置いたまま、身じろぎ一つしない。

 使用人たちは離れた場所に控え、声を立てることもなく主人の瞑想が終わるのを待っている。

 ヤラミラは口元を両手で押さえ、笑い声を堪えながら茂みを抜け出した。

 足音を立てないよう慎重に近づく。一歩。また一歩。東屋へ上がり、ガルンダの背後へ回る。陽光を受けた禿頭が目の前にあった。


 小さな手を振り上げる。


 ぱしん、と乾いた音が庭園へ響いた。


「お、お嬢様!」


 使用人たちが顔色を変えた。

 ガルンダは目を開き、ゆっくりと立ち上がる。振り返った巨体に見下ろされても、幼いヤラミラは逃げなかった。

 叩いた手を背中へ隠し、悪びれもなく笑っている。

 ガルンダは無表情のまま孫娘を見下ろした。しばらく何も言わず、やがて深いため息をつく。


「瞑想中の者を邪魔するなと、何度言えば分かる」


「祖父上、驚きました?」


「驚いておらん」


「でも、少し動きました」


「動いておらん」


「動きました!」


 ヤラミラが屈託なく笑う。庭園に咲き誇るどの花よりも華やかな笑みだった。

 ガルンダは禿頭を片手で撫で、もう一度ため息をついた。


 景色が揺らぐ。


 次に見えたガルンダは、訓練場で腕を組んでいた。


 少女へ成長したヤラミラが、その正面で軍杖を構えている。先端に小さな炎が生まれるものの、すぐに形を崩して消えてしまった。

 もう一度試す。今度は火の粉が散っただけだった。


「違う!」


 ガルンダの怒声が飛ぶ。


「何が違うのですか!」


「勢いが足らん!」


「具体的に教えてください!」


「意志を燃やせ!胸の奥から湧き上がるものを術へ乗せ、渾身の勢いで放つのだ!」


 周囲で訓練していた門下生たちが、揃って何とも言えない顔をした。理論も手順もない。術の手解きとは思えない、ほとんど根性論だった。


「分かりません!」


「分かろうとするな!感じろ!」


「それで分かるわけがないでしょう!」


「口を動かす前にやれ!」


 ヤラミラは頬を膨らませながら軍杖を構え直した。

 意志を燃やす。胸の奥から湧き上がるものを乗せる。渾身の勢いで放つ。

 言われたことを、そのまま実行した。


「このぉぉぉっ!」


 軍杖の先から、先ほどまでとは比べものにならない火炎が噴き出した。

 炎は訓練場の端まで伸び、標的として置かれていた木板を一息に焼き払う。熱風を浴びた門下生たちが驚いて仰け反った。

 ヤラミラ自身も目を丸くしている。

 やがて自分の放った炎だと理解すると、満面の笑みを浮かべてガルンダを振り返った。


「できました!祖父上、できました!」


 ガルンダは当然だと言わんばかりに、満足そうに頷いた。

 周囲の門下生たちだけが、なぜ今の教えで成功したのか理解できずに顔を見合わせている。


 再び記憶が移り変わる。


 軍への入隊を願い出た日のガルンダは、明らかに不機嫌だった。


「認めん」


「なぜですか、祖父上!」


「なぜも何もない。お前が軍へ入る必要などない」


「私は術士です!訓練でも充分な成績を残しています!」


「術士だからといって軍人になる必要はない。キラリラのように生産に関わる道もあるだろう」


「私が一日中、工房へ籠もっていられると思いますか?」


 ガルンダは口を閉ざした。言葉に詰まったのではない。この孫娘が工房へ籠もって働く姿を想像し、それが現実的ではないと理解してしまった顔だった。


「……ならば、別の道を探せ」


「別の道とは?」


「学問でも、行政でもよい。できることなら、少しはお淑やかな貴婦人を目指せ」


「祖父上がそれを言いますか!」


 ヤラミラは机へ両手をつき、身を乗り出した。


「私は祖父上の背を見て育ったのです!国を守る者がどのように生きるのか、ずっと祖父上から学んできました!それなのに、私だけ別の道へ進めと言うのですか!」


 ガルンダは何も答えなかった。腕を組み、目の前に立つ孫娘を見る。

 ヤラミラも視線を逸らさない。


 先に折れたのはガルンダだった。


「……好きにしろ」


「では!」


「ただし、入ったからには儂の孫であることを理由に甘えられると思うな。ほかの者より厳しく扱う」


「望むところです!」


 その宣言どおり、ガルンダは誰よりも厳しかった。


 ヤラミラが指示を誤り、訓練中の隊列を乱したときには、周囲の将兵が引くほどの叱責を受けた。

 軍務卿の執務室へ呼び出され、長時間立たされたあとも説教は終わらない。耐えきれず、ヤラミラは唇を尖らせた。


「誰も怪我をしなかったのですから、そこまで言わなくてもよいではありませんか」


「今回は、だ」


 ガルンダの声が低くなる。


「お前が指示を違えたとき、死ぬのはお前ではない。お前の命令を信じて動いた部下だ」


 ヤラミラは反論を止めた。


「指揮官が失敗を軽く考えれば、その代償を兵が支払う。誰も怪我をしなかったことへ安堵はしても、間違いを許す理由にはするな」


 厳しい言葉だった。その日は執務室を出たあとも腹を立て、二度と祖父へ軍務の相談などしないと心に決めた。

 それでも次に迷ったとき、真っ先に訪ねた相手はガルンダだった。


 ヤラミラが初めて大きな軍功を上げたときには、本人以上に喜んだ。

 面と向かって褒めることはせず、「当然の働きだ」と一度頷いただけだったが、その後、会う者すべてへ孫娘の働きを語っていた。

 ヤラミラがそれを知って問い詰めたが、ガルンダは最後まで認めなかった。


 厳しく叱る声。

 満足そうに頷く顔。

 呆れたように吐くため息。

 大きな背中。


 そのすべてが、もう失われた。


「大隊長!」


 現在へ引き戻す声とともに、両肩を強く掴まれた。

 副官がヤラミラの前へ膝をつき、真正面から顔を覗き込んでいる。


「敵が迫ってる!みんな、あんたの指示を待ってるんだ!」


 ヤラミラの唇が僅かに動く。


「祖父上が……」


「分かってる!」


 副官は肩を掴む手へさらに力を込めた。


「だからって、あんたが折れてどうすんだ!」


 ヤラミラが顔を上げる。副官の目にも涙が浮かんでいた。それでも泣くことを堪え、ヤラミラを睨みつけている。


「閣下の意志を、あんたが継げ!ここで膝をついたまま、全部終わらせるつもりか!」


 胸壁の向こうで“ツノ持ち”が腕を振り上げた。長棒を押し当てていた兵士が力負けし、背中から煉瓦へ倒れる。別の兵士がすぐに前へ入り、盾で黒い腕を押し返した。


 ヤラミラの指示を待ちながら、部下たちは戦い続けている。

 その姿へ、かつて聞いた声が重なった。


『お前が指示を違えたとき、死ぬのはお前ではない』

『お前の命令を信じて動いた部下だ』


 ヤラミラの指が、煉瓦の上に落ちた軍杖へ伸びる。


 その直後、南方の空が白く染まった。


 遅れて、天地を揺らす轟音が響く。


「伏せろ!」


 副官がヤラミラの頭部を抱え、二人で壁上へ身を伏せた。

 凄まじい熱風が南から吹きつける。軍服が激しくはためき、壁上に積もっていた土埃と灰が一斉に巻き上げられた。


 ヤラミラは腕で顔を庇いながら、南方へ目を向ける。


 西側外壁の一角から放たれた巨大な炎塊が、荒野を覆う黒い軍勢の中央へ落ちていた。

 着弾した地点から白熱した炎が膨れ上がり、周囲へ向かって一気に広がる。先頭にいた“平鎧”も、その後方に並ぶ“縦ツノ”も、逃れる間すらなく炎へ呑み込まれた。

 地表を這う火勢は留まることを知らず、荒野へ幾重もの炎の波を作りながら敵勢を焼いていく。黒い甲殻が赤熱し、やがて形を失って崩れ落ちた。長梯子は瞬く間に炭となり、死骸の山さえ内側から燃え上がっている。


 空まで焦がすかのような火柱が立ち昇った。

 明るさに耐えきれず目を細めても、視界のすべてが赤く染まっている。離れた第九大隊の区画まで熱気が押し寄せ、胸壁へかけられた黒い腕の表面を乾かしていた。


 荒野を焼き払う巨大な炎を目にした瞬間、ヤラミラの脳裏へ一人の術士が浮かんだ。


「カラン殿……?」


 無意識に、その名が口からこぼれた。


 帰ってきた。

 あの男が、ワラネへ戻ってきた。

 自分たちがどれほど攻撃しても減らせなかった軍勢を、たった一度の術で焼き払っている。


 胸の奥に光が差した。

 戦える。

 カランが戻ったのなら、この戦いはまだ終わっていない。

 ヤラミラは軍杖を握り、立ち上がろうとする。


「報告!」


 南側から走ってきた伝令が、熱風へ顔を庇いながら叫んだ。


「南方区画にて極大火術が発動!術者は術師院長のアリンタ様です!」


 ヤラミラの動きが一瞬止まった。


「……そう」


 カランではなかった。


 少しだけ期待していた。

 いや、違う。

 かなり期待していた。


 自分がいる戦場へ、カランが戻ってきてくれたのだと。

 この絶望的な戦場へ現れ、すべてを覆してくれるのだと、そう思ってしまった。


 南方では、今も巨大な炎が荒野を焼いている。アリンタが作り出した一時の空白へ、さらに後方から鎧人の軍勢が押し寄せ始めていた。あれほどの術を受けても、敵は尽きていない。

 ヤラミラは軍杖を握ったまま俯いた。落胆がなかったと言えば嘘になる。それでも、先ほどのように膝から力が抜けることはなかった。


 カランがここにいないからといって、死んだと決まったわけではない。きっと今も、自分たちには想像もつかない場所で、何かを成し遂げようとしている。


 根拠などなかった。

 ただ、カランならそうすると思った。


 いつかのカランの姿が脳裏へ浮かぶ。周囲がどれほど騒ごうと表情を変えず、当然のように不可能を覆す男。必要なことしか口にせず、他人の期待など知ったことではないという顔で、それでも最後には勝利を掴んでいる。


 カランは戻ってくる。

 そして、この戦いを終わらせる。


 それは楽観なのかもしれない。

 だがしかし、それがどうした。


「大隊長」


 副官が、今度は静かに呼びかける。


 ヤラミラは自らの脚で立ち上がった。頬を伝っていた涙を袖で拭い、軍杖を構える。正面では、胸壁へ上半身を乗り出した“ツノ持ち”が、兵士の長棒を押し退けようとしていた。


「そこを退け!」


 兵士が咄嗟に身を伏せる。

 ヤラミラは胸の奥に残る力をかき集め、軍杖の先へ集中させた。


『意志を燃やせ』

『胸の奥から湧き上がるものを術へ乗せ、渾身の勢いで放つのだ』


 祖父の声が聞こえた気がした。


「このぉぉぉっ!」


 軍杖から火炎が迸った。胸壁へ取りついていた“ツノ持ち”を正面から呑み込み、その左右に迫っていた“平鎧”まで巻き込む。焼かれた身体が壁際へひしめく後続の中へ沈み、斜面の上部に僅かな隙間が生まれた。

 兵士たちはすぐさま壁際へ槍と長棒を並べ直す。

 ヤラミラは荒い息を吐きながらも、軍杖を下ろさなかった。


「動ける兵を北側区画へ回せ!残る者は正面を維持!」


 指揮を失いかけていた第九大隊が、再び一つの意思のもとに動き始める。


「敵はまだ残っている!だが、私たちもまだ立っている!」


 ヤラミラは軍杖の先を、荒野を埋め尽くす黒い軍勢へ向けた。


「第九大隊、持ち場を死守しろ!ここを守り抜くぞ!」


 兵士たちの鬨の声が、血と煤に汚れた壁上を揺らした。


 カランは必ず戻る。

 そして、勝利を持ち帰る。


 何一つ根拠のない、希望的観測。

 それでも今は、その希望だけで充分だった。

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