第八十七話:希望的観測
——先ほど、殉職されました。
伝令の声が遠ざかっていく。
何を言われたのか、ヤラミラには理解できなかった。言葉の一つ一つは聞こえている。ガルンダ。先ほど。殉職。その意味も知っている。それでも、それらを結びつけた先にある事実だけが、頭の中へ入ってこなかった。
握っていた軍杖が傾き、石突きが煉瓦を叩いた。
身体を支えていた力が抜ける。
「大隊長?」
副官の呼びかけにも答えられない。ヤラミラは軍杖へ縋ろうとしたが、指に力が入らず、その場へ膝をついた。伝令が慌てて一歩近づく。副官も手を伸ばしかけたが、どちらもすぐには触れられなかった。
壁上では、戦いが続いている。
「正面!また上がってきたぞ!」
「長棒を寄せろ!」
「北側区画から伝令!これ以上は保ちません!」
胸壁へ黒い腕がかかり、兵士たちが長棒を押し当てる。“平鎧”を一体押し返している間に別の頭部が現れ、槍兵が甲の継ぎ目へ穂先を突き込んだ。
ヤラミラが膝をつこうと、祖父を失おうと、押し寄せる鎧人は止まらない。誰か一人の時間が止まっても、戦場の時間は止まらなかった。
「大隊長、北側へ回す兵は!」
「正面も押されています!次の指示を!」
「ヤラミラ大隊長!」
部下たちの声が、ひどく遠くから聞こえる。答えなければならない。どこへ兵を回し、どこを守らせるのか、自分が決めなければならない。分かっているのに、口が動かなかった。
視界から、血に濡れた煉瓦が消える。
代わりに見えたのは、陽の差し込む庭園だった。
まだ幼かったヤラミラは、茂みの陰へ身体を隠している。
庭の中央には小さな東屋があり、その下でガルンダが目を閉じ、瞑想していた。膝へ両手を置いたまま、身じろぎ一つしない。
使用人たちは離れた場所に控え、声を立てることもなく主人の瞑想が終わるのを待っている。
ヤラミラは口元を両手で押さえ、笑い声を堪えながら茂みを抜け出した。
足音を立てないよう慎重に近づく。一歩。また一歩。東屋へ上がり、ガルンダの背後へ回る。陽光を受けた禿頭が目の前にあった。
小さな手を振り上げる。
ぱしん、と乾いた音が庭園へ響いた。
「お、お嬢様!」
使用人たちが顔色を変えた。
ガルンダは目を開き、ゆっくりと立ち上がる。振り返った巨体に見下ろされても、幼いヤラミラは逃げなかった。
叩いた手を背中へ隠し、悪びれもなく笑っている。
ガルンダは無表情のまま孫娘を見下ろした。しばらく何も言わず、やがて深いため息をつく。
「瞑想中の者を邪魔するなと、何度言えば分かる」
「祖父上、驚きました?」
「驚いておらん」
「でも、少し動きました」
「動いておらん」
「動きました!」
ヤラミラが屈託なく笑う。庭園に咲き誇るどの花よりも華やかな笑みだった。
ガルンダは禿頭を片手で撫で、もう一度ため息をついた。
景色が揺らぐ。
次に見えたガルンダは、訓練場で腕を組んでいた。
少女へ成長したヤラミラが、その正面で軍杖を構えている。先端に小さな炎が生まれるものの、すぐに形を崩して消えてしまった。
もう一度試す。今度は火の粉が散っただけだった。
「違う!」
ガルンダの怒声が飛ぶ。
「何が違うのですか!」
「勢いが足らん!」
「具体的に教えてください!」
「意志を燃やせ!胸の奥から湧き上がるものを術へ乗せ、渾身の勢いで放つのだ!」
周囲で訓練していた門下生たちが、揃って何とも言えない顔をした。理論も手順もない。術の手解きとは思えない、ほとんど根性論だった。
「分かりません!」
「分かろうとするな!感じろ!」
「それで分かるわけがないでしょう!」
「口を動かす前にやれ!」
ヤラミラは頬を膨らませながら軍杖を構え直した。
意志を燃やす。胸の奥から湧き上がるものを乗せる。渾身の勢いで放つ。
言われたことを、そのまま実行した。
「このぉぉぉっ!」
軍杖の先から、先ほどまでとは比べものにならない火炎が噴き出した。
炎は訓練場の端まで伸び、標的として置かれていた木板を一息に焼き払う。熱風を浴びた門下生たちが驚いて仰け反った。
ヤラミラ自身も目を丸くしている。
やがて自分の放った炎だと理解すると、満面の笑みを浮かべてガルンダを振り返った。
「できました!祖父上、できました!」
ガルンダは当然だと言わんばかりに、満足そうに頷いた。
周囲の門下生たちだけが、なぜ今の教えで成功したのか理解できずに顔を見合わせている。
再び記憶が移り変わる。
軍への入隊を願い出た日のガルンダは、明らかに不機嫌だった。
「認めん」
「なぜですか、祖父上!」
「なぜも何もない。お前が軍へ入る必要などない」
「私は術士です!訓練でも充分な成績を残しています!」
「術士だからといって軍人になる必要はない。キラリラのように生産に関わる道もあるだろう」
「私が一日中、工房へ籠もっていられると思いますか?」
ガルンダは口を閉ざした。言葉に詰まったのではない。この孫娘が工房へ籠もって働く姿を想像し、それが現実的ではないと理解してしまった顔だった。
「……ならば、別の道を探せ」
「別の道とは?」
「学問でも、行政でもよい。できることなら、少しはお淑やかな貴婦人を目指せ」
「祖父上がそれを言いますか!」
ヤラミラは机へ両手をつき、身を乗り出した。
「私は祖父上の背を見て育ったのです!国を守る者がどのように生きるのか、ずっと祖父上から学んできました!それなのに、私だけ別の道へ進めと言うのですか!」
ガルンダは何も答えなかった。腕を組み、目の前に立つ孫娘を見る。
ヤラミラも視線を逸らさない。
先に折れたのはガルンダだった。
「……好きにしろ」
「では!」
「ただし、入ったからには儂の孫であることを理由に甘えられると思うな。ほかの者より厳しく扱う」
「望むところです!」
その宣言どおり、ガルンダは誰よりも厳しかった。
ヤラミラが指示を誤り、訓練中の隊列を乱したときには、周囲の将兵が引くほどの叱責を受けた。
軍務卿の執務室へ呼び出され、長時間立たされたあとも説教は終わらない。耐えきれず、ヤラミラは唇を尖らせた。
「誰も怪我をしなかったのですから、そこまで言わなくてもよいではありませんか」
「今回は、だ」
ガルンダの声が低くなる。
「お前が指示を違えたとき、死ぬのはお前ではない。お前の命令を信じて動いた部下だ」
ヤラミラは反論を止めた。
「指揮官が失敗を軽く考えれば、その代償を兵が支払う。誰も怪我をしなかったことへ安堵はしても、間違いを許す理由にはするな」
厳しい言葉だった。その日は執務室を出たあとも腹を立て、二度と祖父へ軍務の相談などしないと心に決めた。
それでも次に迷ったとき、真っ先に訪ねた相手はガルンダだった。
ヤラミラが初めて大きな軍功を上げたときには、本人以上に喜んだ。
面と向かって褒めることはせず、「当然の働きだ」と一度頷いただけだったが、その後、会う者すべてへ孫娘の働きを語っていた。
ヤラミラがそれを知って問い詰めたが、ガルンダは最後まで認めなかった。
厳しく叱る声。
満足そうに頷く顔。
呆れたように吐くため息。
大きな背中。
そのすべてが、もう失われた。
「大隊長!」
現在へ引き戻す声とともに、両肩を強く掴まれた。
副官がヤラミラの前へ膝をつき、真正面から顔を覗き込んでいる。
「敵が迫ってる!みんな、あんたの指示を待ってるんだ!」
ヤラミラの唇が僅かに動く。
「祖父上が……」
「分かってる!」
副官は肩を掴む手へさらに力を込めた。
「だからって、あんたが折れてどうすんだ!」
ヤラミラが顔を上げる。副官の目にも涙が浮かんでいた。それでも泣くことを堪え、ヤラミラを睨みつけている。
「閣下の意志を、あんたが継げ!ここで膝をついたまま、全部終わらせるつもりか!」
胸壁の向こうで“ツノ持ち”が腕を振り上げた。長棒を押し当てていた兵士が力負けし、背中から煉瓦へ倒れる。別の兵士がすぐに前へ入り、盾で黒い腕を押し返した。
ヤラミラの指示を待ちながら、部下たちは戦い続けている。
その姿へ、かつて聞いた声が重なった。
『お前が指示を違えたとき、死ぬのはお前ではない』
『お前の命令を信じて動いた部下だ』
ヤラミラの指が、煉瓦の上に落ちた軍杖へ伸びる。
その直後、南方の空が白く染まった。
遅れて、天地を揺らす轟音が響く。
「伏せろ!」
副官がヤラミラの頭部を抱え、二人で壁上へ身を伏せた。
凄まじい熱風が南から吹きつける。軍服が激しくはためき、壁上に積もっていた土埃と灰が一斉に巻き上げられた。
ヤラミラは腕で顔を庇いながら、南方へ目を向ける。
西側外壁の一角から放たれた巨大な炎塊が、荒野を覆う黒い軍勢の中央へ落ちていた。
着弾した地点から白熱した炎が膨れ上がり、周囲へ向かって一気に広がる。先頭にいた“平鎧”も、その後方に並ぶ“縦ツノ”も、逃れる間すらなく炎へ呑み込まれた。
地表を這う火勢は留まることを知らず、荒野へ幾重もの炎の波を作りながら敵勢を焼いていく。黒い甲殻が赤熱し、やがて形を失って崩れ落ちた。長梯子は瞬く間に炭となり、死骸の山さえ内側から燃え上がっている。
空まで焦がすかのような火柱が立ち昇った。
明るさに耐えきれず目を細めても、視界のすべてが赤く染まっている。離れた第九大隊の区画まで熱気が押し寄せ、胸壁へかけられた黒い腕の表面を乾かしていた。
荒野を焼き払う巨大な炎を目にした瞬間、ヤラミラの脳裏へ一人の術士が浮かんだ。
「カラン殿……?」
無意識に、その名が口からこぼれた。
帰ってきた。
あの男が、ワラネへ戻ってきた。
自分たちがどれほど攻撃しても減らせなかった軍勢を、たった一度の術で焼き払っている。
胸の奥に光が差した。
戦える。
カランが戻ったのなら、この戦いはまだ終わっていない。
ヤラミラは軍杖を握り、立ち上がろうとする。
「報告!」
南側から走ってきた伝令が、熱風へ顔を庇いながら叫んだ。
「南方区画にて極大火術が発動!術者は術師院長のアリンタ様です!」
ヤラミラの動きが一瞬止まった。
「……そう」
カランではなかった。
少しだけ期待していた。
いや、違う。
かなり期待していた。
自分がいる戦場へ、カランが戻ってきてくれたのだと。
この絶望的な戦場へ現れ、すべてを覆してくれるのだと、そう思ってしまった。
南方では、今も巨大な炎が荒野を焼いている。アリンタが作り出した一時の空白へ、さらに後方から鎧人の軍勢が押し寄せ始めていた。あれほどの術を受けても、敵は尽きていない。
ヤラミラは軍杖を握ったまま俯いた。落胆がなかったと言えば嘘になる。それでも、先ほどのように膝から力が抜けることはなかった。
カランがここにいないからといって、死んだと決まったわけではない。きっと今も、自分たちには想像もつかない場所で、何かを成し遂げようとしている。
根拠などなかった。
ただ、カランならそうすると思った。
いつかのカランの姿が脳裏へ浮かぶ。周囲がどれほど騒ごうと表情を変えず、当然のように不可能を覆す男。必要なことしか口にせず、他人の期待など知ったことではないという顔で、それでも最後には勝利を掴んでいる。
カランは戻ってくる。
そして、この戦いを終わらせる。
それは楽観なのかもしれない。
だがしかし、それがどうした。
「大隊長」
副官が、今度は静かに呼びかける。
ヤラミラは自らの脚で立ち上がった。頬を伝っていた涙を袖で拭い、軍杖を構える。正面では、胸壁へ上半身を乗り出した“ツノ持ち”が、兵士の長棒を押し退けようとしていた。
「そこを退け!」
兵士が咄嗟に身を伏せる。
ヤラミラは胸の奥に残る力をかき集め、軍杖の先へ集中させた。
『意志を燃やせ』
『胸の奥から湧き上がるものを術へ乗せ、渾身の勢いで放つのだ』
祖父の声が聞こえた気がした。
「このぉぉぉっ!」
軍杖から火炎が迸った。胸壁へ取りついていた“ツノ持ち”を正面から呑み込み、その左右に迫っていた“平鎧”まで巻き込む。焼かれた身体が壁際へひしめく後続の中へ沈み、斜面の上部に僅かな隙間が生まれた。
兵士たちはすぐさま壁際へ槍と長棒を並べ直す。
ヤラミラは荒い息を吐きながらも、軍杖を下ろさなかった。
「動ける兵を北側区画へ回せ!残る者は正面を維持!」
指揮を失いかけていた第九大隊が、再び一つの意思のもとに動き始める。
「敵はまだ残っている!だが、私たちもまだ立っている!」
ヤラミラは軍杖の先を、荒野を埋め尽くす黒い軍勢へ向けた。
「第九大隊、持ち場を死守しろ!ここを守り抜くぞ!」
兵士たちの鬨の声が、血と煤に汚れた壁上を揺らした。
カランは必ず戻る。
そして、勝利を持ち帰る。
何一つ根拠のない、希望的観測。
それでも今は、その希望だけで充分だった。




