第七十三話:不動
第一戦団は、いまだ出撃命令を受けていなかった。
臨時の待機場所として指定された鐘楼塔に隣接する広場には、戦装束を整えた術士たちが隊列を組んで待機している。
触媒箱を背負い、術具を携え、あとは命令を待つだけ。分隊ごとに固まった術士たちは、遠くから響く轟音へ何度も顔を向けていた。
外壁の向こうでは、すでに戦いが始まっている。大地を震わせる投石器の音。術が爆ぜる音。何千何万という鎧人が重ねる咆哮。そのすべてが、建物と建物の間を抜けて待機広場まで届いていた。
戦える準備はできている。しかし、戦えという命令だけが来ない。
ダルミンは鐘楼塔の屋上に立ち、外壁の向こうへ立ち昇る土煙を見つめていた。
「戦団長、軍司令部からの状況報告です!」
階段を駆け上がってきた連絡兵が、書簡を片手に敬礼する。
「読み上げろ」
「西側外壁、全域で敵第一陣と交戦中! 複数箇所に長梯子が到達するも、現時点で壁上への大規模な侵入はありません!」
外壁の防衛には、王国軍とワラネ都市軍から複数の部隊が投入されている。ヤラミラ率いる第九大隊も、そのうちの一つにすぎない。それぞれが割り当てられた区画を守り、外壁へ迫る鎧人を迎撃していた。
「敵の構造物は」
「複数の区画で破壊に成功! 車輪と車軸へ質量を伴う術を集中させる方法が、外壁上の各部隊へ伝達されています!」
「第九大隊の担当区画は?」
尋ねたのはタルガンだった。
ダルミンの少し後ろで腕を組み、外壁を見据えている。
「漆黒の構造物を複数撃破。消耗は少なくありませんが、防衛線は維持されています!」
「そうか」
タルガンは短く答え、それ以上は何も聞かなかった。
「西側全体の損害は」
ダルミンが尋ねる。
「現在集計中です。複数の区画から負傷者多数との報告がありますが、崩壊した区画はありません!」
崩壊していない。ダルミンが必要としていたのは、それだけだった。
「続けろ」
「敵軍の一部が西方本隊から離脱! 北側、南側の双方へ展開を始めています! 王国軍及び都市軍が、各外壁の守備兵力を再配置中!」
軍司令部は、すでに敵の動きへ対応している。どの大隊をどこへ回すのか。予備兵をどの区画へ補充するのか。矢や投石用の岩をどれだけ運ばせるのか。それらを決めるのは、王国軍や都市軍の将校たちだ。ダルミンの仕事ではない。
「東は」
「東側外壁及び港湾部に、現時点で敵影なし!」
西、北、南。
三方へ鎧人が広がる一方で、東だけは静かなままだった。
「第一戦団は、引き続き待機。以上です!」
軍司令部から届いた命令を読み終え、連絡兵が書簡を閉じた。
「了解したと伝えろ」
「了解!」
連絡兵は敬礼し、階段を駆け下りていった。
ダルミンは外壁へ視線を戻す。
戦況は、今のところ想定された範囲に収まっている。鎧人の数は途方もなく、未知の構造物も投入された。それでも外壁は破られていない。各部隊は自分たちの役割を果たし、迫る敵を押し返している。第一戦団を投入する理由はなかった。
「随分と余裕そうじゃねぇか」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、バルドが屋上へ顔を出していた。戦装束を整え、普段は使わない軍杖まで背負っている。
「そう見えるか?」
「見えねぇな。だから言ってみただけだ」
バルドはダルミンの隣まで歩き、外壁の向こうを眺めた。
「部下が焦れてやがる」
「座らせておけ」
「もう座ってらぁ」
「なら寝かせろ」
「この音の中で子守唄でも聴かせるか?」
軽口を叩きながらも、バルドの目は笑っていなかった。
城壁の向こうから黒煙が上がるたび、わずかに眉が動いている。
「戦団長。一応聞くが、まだ出ないのか?」
「出ない」
「西壁じゃ、もう壁際まで敵が迫ってる」
「知っている」
「俺たちが出りゃ押し返せる」
「だろうな」
ダルミンは否定しなかった。
第一戦団の術士を西側外壁へ投入すれば、目の前の敵を大きく押し返せる。並の鎧人であれば、城壁へ辿り着く前にまとめて消し飛ばすことも可能だ。
だが、それによって第一戦団の魔力と触媒は消耗する。西へ配置を偏らせれば、別の方面で異変が起きた際の対応も遅れる。
何より、まだ鎧人しか現れていない。北方から帰還したカリムは、四種族が連携していたと報告した。糸女、毒尾、敵対するデカポダ。その姿は、現在の戦場では一体も確認されていない。
「今、西へ出たとして」
ダルミンが言う。
「直後に港からデカポダが上がってきたら、どうする」
「走る」
「南北に毒尾が現れたら」
「走る」
「市内へ糸女が入り込んだら」
「走る」
「全部同時なら?」
「……走る」
「無理だろ。それに歳だ」
バルドは頭を掻いた。
どれほど足が速くとも、同時に複数の場所へ行くことはできない。そもそも、それだけ走ったあとでバルドが使い物になるかも分からない。
「第一戦団は、苦戦している部隊の代わりに戦うための部隊じゃない」
ダルミンは眼下の待機広場へ目を向けた。
幾度も壁外へ出て、異形の民と戦ってきた術士たち。個々の力量も、集団で術を運用する練度も、王国内で彼らに勝る部隊はない。
「現場の戦力では処理できない事態が起きたとき、そこへ行って無理やり片づける。それが俺たちの仕事だ」
「今は、まだそのときじゃないってか?」
「壁は保たれている」
短い返答だった。
バルドはしばらく黙って外壁を見つめ、やがて肩をすくめた。
「分かったよ。部下には、もう少し座ってろって言っておく」
「寝かせてもいいぞ」
「俺の子守唄で寝れるならな」
バルドは来た道を戻り、屋上から姿を消した。
味方が戦っている。傷ついている者もいるだろう。自分たちが出れば、そのうち何人かは助けられるかもしれない。
それでも動かない。
第一戦団を率いて敵陣へ突っ込む方が、ダルミンにとっては遥かに楽だった。眼前の敵を倒し続ければいい。迷う必要も、待つ必要もない。
味方の悲鳴を聞きながら、出番ではないと言い聞かせる方が、よほど苦しかった。
「戦団長」
タルガンの声に呼ばれ、ダルミンは視線を上げる。
「空堀を」
外壁の手前には、王都を囲うように複数の空堀が設けられていた。
戦闘が始まる前は、切り開かれた平地に細長く伸びる溝が、屋上からでもはっきりと確認できた。
今は、その一部が見えなくなっている。
空堀へ落ちた”平鎧”。杭に貫かれた”ツノ持ち”。後続に踏み潰された死骸。投げ込まれた土嚢、丸太、長梯子。そして、倒壊した漆黒の構造物。それらが折り重なり、堀を埋め、城壁へ向かう緩やかな斜面を作り始めていた。
人類側が倒した敵の数は、すでに数千へ届いているのかもしれない。戦果だけを見れば、緒戦は人類側が優勢だった。
だが、敵を倒すたびに空堀は失われていく。死骸が新たな足場となり、その上を次の鎧人が踏み越えてくる。
「このまま積み上がれば……」
タルガンは静かにつぶやいた。
「壁の上まで届くんじゃないですか」
五十万。今積み上がっている死骸など、その総数からすればごく一部にすぎない。死骸だけで、本当に外壁の高さまで届くかも分からない。それでもダルミンは、あり得ないとは言えなかった。
「届いたら、その上で殺すだけだ」
ダルミンが答える。
「……はい」
「まだ壁は破られていない」
それは部下へ向けた言葉であると同時に、ダルミン自身へ向けた言葉でもあった。
階段から、再び足音が近づいてくる。
「戦団長、哨戒班について続報です!」
現れた連絡兵の言葉に、ダルミンの表情がわずかに強張った。
「ほかの班は」
哨戒に出ていたのは、第一戦団の者だけではない。ほかの戦団からも術士が選出され、王国軍も複数の斥候班を壁外へ送り出していた。
「すべて帰還を確認しました!」
「ウチの哨戒班員は」
「新たな帰還者はありません。現在までに戻ったのは、カリム術士一名のみです」
予想していた報告だった。それでも、実際に言葉として聞けば、胸の奥に重いものが沈む。
ミラリ。カラン。残る班員たち。ルナリやダーバルだってそうだ。
生きているのか。負傷し、どこかに潜んでいるのか。それとも、すでに命を落としているのか。確かめる術はない。鎧人の軍勢が王都の北側へ回り始めた今、捜索隊を出すこともできない。
ミラリは、第一戦団でも一、二を争うほど信頼を置く術士だった。普段は人をからかってばかりいるが、壁外での判断は的確で、何よりも部下をよく見ている。自分の後任を選ぶなら、ミラリ以外には考えられなかった。
カランは、第一戦団最大の戦力だ。あの男一人がいるだけで、打開できる局面は数え切れない。だが、今はいない。
生死不明の者を、戦力として数えることはできない。ダルミンは第一戦団の戦力から、カランとミラリを外した。
死んだと判断したわけではない。帰還を諦めたわけでもない。ただ、この戦場にはいないものとして考える。それが、今のダルミンにできる唯一の判断だった。
「続報があれば、すぐに知らせろ」
「了解!」
連絡兵が階段を下りていく。
代わって、別の兵士が屋上へ駆け込んできた。その顔には、これまでの報告とは明らかに異なる緊張が浮かんでいる。
「軍司令部より緊急の状況共有!」
ダルミンとタルガンが同時に振り返った。
「南西の敵陣に、新たな異形を確認! 鎧人の隊列を抜け、南側外壁へ向けて移動を開始しています!」
「特徴は」
「巨大な鋏と六本脚、尾の先端に毒針と思われる器官!」
毒尾。カリムが報告した、二つ目の種族だった。
待機広場にも報告が伝わったのか、待機していた第一戦団の術士たちが一斉に立ち上がる。
バルドが屋上を見上げていた。
出るのか。
その表情が、そう問いかけている。
ダルミンは南側へ立ち昇り始めた土煙を見つめた。
鎧人とは比較にならない速度で、いくつもの影が荒野を駆けている。
「第一戦団は?」
タルガンが尋ねた。
「待機を継続する」
ダルミンは、まだ動かなかった。




