第六十八話:雲散霧消
白く煙る雨の向こうに、二つの影が浮かんでいた。一つは立ち、もう一つは膝をついている。
「いた」
先頭を進むルナリが足を止めた。
遅れて霧を抜けたカランは、二つの影の正体を確認する。
立っていたのはダーバルだった。深青の甲にまとわりついた泥は、全身から滴る雨水によって、少しずつ洗い流されつつある。傷らしい傷は見当たらないが、度重なる打撃によって甲の至るところに擦り傷や削れた跡が残っていた。その巨大な左鋏には、折れた薄青の長角が挟まれている。
「おお、カラン。終わったぞ」
ダーバルはいつもと変わらぬ調子で、戦利品を見せるように左鋏を持ち上げた。
「見れば分かる」
カランは短く答え、その向こうへ視線を送る。
長角を失った薄青の”ツノ持ち”は、片膝をついたまま動かなかった。右腕は肩口から消失している。残された左腕も二の腕まで引き裂かれ、辛うじて繋がった甲の隙間から体液を流し続けていた。
霞の浮かぶ碧空を思わせた甲は、泥と自らの体液に汚れ、今や見る影もない。
それでも薄青は倒れていなかった。折れた角の根元を雨に晒しながら、残された脚だけで巨体を支えている。
カランの指先がわずかに持ち上がる。
「決闘は終わった」
ダーバルの左鋏が、その進路を遮った。
「なら、どうしようと俺の勝手だ」
決闘が終わったのであれば、一対一は関係ない。カランは赤背を討伐次第、決闘に横槍を入れる気しかなかったが、そんなことはおくびにも出さなかった。
「だったらこれはオレの勝手だ」
ダーバルはさらに一歩踏み出し、薄青の前に立ちはだかった。
「まだそいつは生きている」
可能性は出来る限り排除する。カランの行動指針に変わりはない。
「もう大丈夫だ」
ダーバルは断言した。
何を根拠にしているのか、カランには分からない。だが薄青に本来の戦闘を継続する力が残されていないことだけは、一目で判断できた。
右腕は失われ、左腕も使えない。自重を支えるだけで精一杯なのだろう。呼吸のたびに甲の継ぎ目がわずかに動くものの、その間隔は次第に長くなっている。
いかに歴戦の”ツノ持ち”であろうと、もう長くはない。
「一思いに殺すのも勝者の義務じゃないか?」
生かしても、苦しみが長引くだけだろうとカランは言う。
「そんな柄じゃないだろ」
もちろん、カランはそんな柄ではない。ただ、危険を排除する。それだけだった。
カランとダーバルの間に、剣呑とした空気が立ち込める。
そのすぐ側でナリヤはおどおどしていた。止めるべきか、見守るべきか、そもそも止められるのか、助けを求めルナリの方へ視線を送ったが、当のルナリは少し離れた低木から果実を摘んでいる。
しかし、ナリヤの心配は杞憂だった。
「そうか」
カランは指先を下ろした。
今ここで止めを刺すことに意味はない。ダーバルと争ってまで自ら手を下す理由もなかった。
「ダーバル。動けるか?」
「腹は減ったけどな」
先ほどの剣呑さは嘘のように消えていた。
「なら問題ない」
「問題あるだろ」
深青の巨体は不満そうに肩を落とした。
行動に支障を来すような負傷はないらしい。散々弾き飛ばされていたはずだが、やはり、その頑丈さは理解し難い領域にあった。
「たべる?」
ルナリが摘んだ果実をダーバルに差し出す。
「おお、食う」
ダーバルは副腕で果実を受け取ると、器用に口へ放った。
「勝ったのですね」
ホッと息を吐き出したナリヤは、膝をついた薄青をしっかりと目に焼き付けながら、静かに尋ねた。
「おう」
「トドメは、よいのですか?」
カランが受け入れた以上は、余計な心配なのだろう。だが、ナリヤは生まれてこのかた十数年、「”ツノ持ち”は敵」と聞かされて育ってきた。
「オレが勝ったからな」
答えになっているようで、答えになっていない。しかし、ダーバルにとってはそれで充分なのだろう。
薄青もまた、何も言わなかった。
「カラン」
ルナリが両櫛状の触覚を揺らしながら、霧の向こうを見つめていた。
「遠くに、まだいっぱいいる」
「こちらへ向かっているか?」
「今は来てない。でも、たぶん探してる」
カランは空を仰いだ。
先ほどまで荒野を覆っていた雨雲は、少しずつ薄くなり始めている。降り注ぐ霧雨も薄くなり、遠くでは白んだ空がのぞいていた。
雨が止めば霧もいずれ晴れる。敵がこの場所へ集まる前に、進路を決めなければならない。
「ここを離れる」
「戻るのですか?」
ナリヤの問いに、カランは少し間を開けて答えた。
「南東へ向かえば、先ほどの敵と再び衝突します」
南東へ戻れば、先ほど分断した敵と再び遭遇する。川沿いにはデカポダが潜み、森の向こうにはどれほどの糸女が残っているか分からない。毒尾の機動力を考えれば、すでに退路へ回り込んでいる可能性も高い。
「確かに……では、どちらへ?」
ワラネへ続く道は、とうに塞がれていた。
「北西へ向かいます」
カランが目を向けたのは、王都のある南東ではない。霧に閉ざされた北西だった。
「ワラネに戻るんじゃないのか?」
果実を食べ終わったダーバルは、鋏で挟んでいた長角を副腕へ移しながら問うた。
「戻るにしても迂回は必要だ。それに」
「それに?」
ダーバルは長角をどうも持つか決めかね、持て余しながら続きを促す。
「北西には当てがある」
「……当て?」
ナリヤは小首を傾げた。
北西は荒野と森が広がる地だ。そんな場所に、人であるカランが頼れる何かがあるとは思えなかった。
「ええ、まあ。詳しくは着いてから説明します」
「ここでは話せないことなのですか?」
「説明している時間が惜しいだけです」
相変わらず、必要最低限の答えしか返ってこない。
ナリヤはさらに問いかけようとしたが、言葉を呑み込んだ。カランは何も教えてくれないわけではない。今はそのときではないと判断しているだけだ。ナリヤはそう信じることにした。
「どのくらいかかるのでしょうか?」
「順調に進んでも、今日中には着きません」
「食料は足りるのか?」
ダーバルがすかさず尋ねた。
「お前は今食べたばかりだろう」
「え、果実だけだぞ?」
数粒の小さな果実だった。
「携行食にはまだ余裕がある。お前が人と同じ量で満足できるならだが」
「足りないな」
足りるわけがない。
「なら現地調達だ」
荒野や森には様々な動植物が生息している。食料の調達自体は不可能ではない。
「オレ、狩り苦手」
この深青の巨体が近づいて逃げない動物はいないだろう。かといって脚力に任せて突撃したら、そのまま粉砕してしまいそうだ。
「なら我慢しろ」
「……頑張ります」
ダーバルは露骨に肩を落とした。
緊迫した状況であることに変わりはない。それでも、平然とした二人のやり取りに、ナリヤの強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。
「殿下は歩けますか?」
「はい。問題ありません」
身体には疲労が溜まっている。抱きかかえられて移動したとはいえ、初めての壁外で何度も死地を潜り抜けたのだ。足は重く、今にも座り込みたいほどだった。
それでもナリヤは背筋を伸ばした。
自分一人のために進行を遅らせるわけにはいかない。これ以上、守られるだけの存在にはなりたくなかった。
「無理になったら言ってください」
「はい」
ナリヤはしっかりと頷いた。もっとも、カランに抱きかかえられての移動は、別の意味で心臓に悪かったが。
「ルナリ。先導を頼む」
「うん」
ルナリは果実を頬張りながら頷いた。
「敵を見つけても近づくな。進路を変えて避けろ」
「わかった」
ルナリは両櫛状の触覚を大きく広げ、北西へ顔を向けた。
「ダーバルは殿下の左辺後方につけ。俺が右に回る」
「おう」
ダーバルは折れた長角を副腕へ抱え直す。しかし、彼の身体に比べれば小さいとはいえ、長大な角であることに変わりはない。抱え方が定まらないのか、脇に挟み、肩へ載せ、最後には背負うようにして二本の副腕で固定した。
「持ちにくいな、これ」
「墓標にでもしろ」
「でも、持っていけって言われたし」
カランは何も言わず、膝をつく薄青へ目を向ける。
薄青はまだ生きていた。弱々しく上下していた甲の継ぎ目は、先ほどよりも長い間隔で、かすかに動いている。その複眼が何を映しているのか、カランには分からない。
ただ、長角を背負ったダーバルへ顔を向けているように見えた。
「じゃあな」
ダーバルは短く別れを告げた。
返事はない。薄青は膝をついたまま、動かなかった。
「行くぞ」
カランの言葉に従い、ルナリが北西へ歩き出す。
その後ろをナリヤが追い、ダーバルが続く。カランはしばらく南東を見つめてから、三人のあとを追った。
王都の方角は深い霧に閉ざされ、燃え続ける森の赤い光だけが、白い世界の向こうでぼんやりと滲んでいる。
ミラリたちの姿は見えない。
敵の影もない。
聞こえるのは、遠ざかりつつある雨音だけだった。
「カラン」
先頭からルナリが呼びかけた。
「なんだ」
「帰らないの?」
ナリヤとダーバルがカランへ振り返る。
カランは足を止めなかった。
「今は北西へ向かう」
帰るとも、帰らないとも答えていない。
ルナリは桃色の偽瞳孔でしばらくカランを見つめたあと、再び前を向いた。
「そう」
それ以上、誰も何も聞かなかった。
四つの影は次第に濃くなる霧の中を北西へ進み、やがて白い幕の向こうへ溶けるように消えていった。
降り続いた雨が足跡を崩し、その上を流れる霧が、彼らの進んだ方角さえ覆い隠していく。
ほどなくして雨は止んだ。
雲間の碧空から差し込んだ一筋の光が片膝をついた薄青の甲を静かに照らした。
白霧へ消えた四つの影の行方は誰も知らない。
芥川龍之介といえば羅生門か蜘蛛の糸かと思いますが、他の作品も短編で読みやすいものが多いのでおすすめです。




