第五十九話:未知
「よし…!」
まだ日も上りきらぬ王宮の自室で、王女ナリヤは気合いの一声を出した。
「……」
しかし、その顔には隠しきれない緊張が浮かんでいた。
なぜそれが決まったのか、ナリヤ自身にもわからない。それでも決まってしまったのだから、やるしかないのだろう。
それに、ナリヤはただ緊張しているだけではなかった。その緊張の裏には抑えきれない胸の高鳴りがあった。この状況で胸を躍らせることが配慮に欠けた不適切なものだとは重々承知している。それでもやはり止められない。
「王女殿下。お時間です」
扉の外から声がかけられた。思わず肩が跳ねる。
「……はい!」
少し遅れて返事をして扉を開ける。
部屋の内外には、侍女も、衛兵も一人たりとていない。扉の先の廊下には、澄んだ朝の空気がゆっくりと流れているだけだった。
「お、お待たせしました」
ナリヤは顔を少し下げ、波打つ黒髪を指先で弄りながら、ちらりと正面に立つ人物に視線を送った。
宮廷術士カラン。第一戦団の切り札にして、王国で随一の術士。この人こそ、最強で最高の術士だとナリヤは信じて疑わない。
「では、行きましょう」
カランは颯爽と踵を返し歩を進めた。
「はい!」
ナリヤは後を追いながらカランの背をじっと見ていた。やはり緊張の色はまだ色濃いが、「行きましょう」というカランの一言に内心で舞い上がっていた。
カランがこの場から背を向けるときに残すのは決まって別れの言葉だった。だが今回は違う。ナリヤは共に歩むことを求められている。
——そうして王女ナリヤは、生まれて初めて壁外の大地を踏んだ。
◎ ○ ○
哨戒班が夜明けと共に壁外に出てから太陽が頂点を通りすぎたころ。
「ミラリ先輩」
「んー?」
哨戒班の長を務めるミラリは、隊列の最後尾からついてくるカランに声をかけられ、振り返らず、足も止めずに気楽に返事をした。
「休憩にしましょう」
カランにしては珍しい提案だった。
「ん?休憩?」
術により強化された肉体は、疲労を軽減させ、一般兵には不可能な速度で行軍できる。日が沈むまで休みなく進むことも可能だ。もっとも、一行には異形の民が二体加わっているが、その二体の身体能力、機動力は術士に劣らないものだった。
此度の哨戒の重要性を考えると、目的の森の手前までは直行すべきだとミラリは考えていたし、カランももちろんそのつもりなのだろうと思っていた。
「打ち合わせの再確認をさせてください」
「ふーん?まあいいけど」
重要性が高いのだから、念には念を。それもまたカランらしいかとミラリは提案を受け入れた。
「全員停止、小休憩」
「「了解」」
ミラリの号令と共に哨戒班は急停止し、それぞれ見張りと休憩に分かれる。人員を割り振る指示は必要なかった。
ミラリは全員の停止を確認したあと、カラン組のもとへ向かう。
カラン組。出発前にカランが推薦した班員と本人を合わせて結成した即席部隊だ。組の長は当然カラン。
残る組員は、デカポダの傭兵ダーバル。小休憩に入り、伸びをしているが、そのせいでただでさえ大きい図体が、なおさら巨大に見えた。
次に、サトゥルナの少女ルナリ。カランが任務へ連れて行きたがらない存在だと思っていたミラリは、この推薦を意外に思った。いつの間に採っていたのか、小さな果実をもぐもぐしている。
最後に、目深に外套を被った小柄な術士。王宮付きの術士だということ以外、詳しい経歴は明かされていない。身分証に不備はなく、加えてカラン本人が責任を持つというので同行を許可した。四人いれば即席部隊として機能すると思ったからでもある。ミラリの知らないカランの交友関係が気になったからではない。
正直言って、実に奇抜な組み合わせだった。ちなみにカラン組の命名はミラリである。最初の打ち合わせで最も揉めたのはこの命名だった。
「で?なに?」
「少し、いいですか」
カランは少し、ほんの少しだけ言いよどんだように見えた。
「うん、いいけど?」
「こちらへ」
「え?」
カランは他の班員から目の届かない岩陰を手で示した。
「なになに?お姉さんに秘密の相談?」
「はい」
「は?」
「いいからこちらへ」
カランがミラリの手を引いて、少々強引に岩陰へ連れ込む。
「ちょ、ちょっと」
その意外な行動に、ミラリは驚いて気がつかなかったが、連れ込む際にカランは外套の術士に無言で視線を送っていた。
その人物はカランの視線を受けると、すぐにその後を追った。
「な、なんなの?」
ミラリは動揺を隠しきれずにいた。
「後ろです」
「えっ!?」
ミラリが振り向くと、そこには一人の小柄な人物が立っていた。
「紹介が遅れました。殿下、頭巾を」
「はい」
「……殿下?」
カランに促され、ナリヤは外套の頭巾をおずおずと後ろへやり、素顔を晒した。
「ナリヤ王女殿下です」
「…………」
ミラリはしばらく瞬きすらしなかった。
「あ、あの、その、よろしくお願い——」
「……はぁああああ!!?」
ミラリの驚愕の声に、班員全員が岩の方へ顔を向けた。
「声が大きいです」
カランは静かに指摘した。ナリヤは突然の大声に目を丸くし、おどおどしている。
「いや、ちょ、だって……あ、なんでもないヨー!」
ミラリは岩の向こうの班員に向けて声を飛ばした。
「カランくん」
そして振り返るとカランの両肩をがっしりと、力強く掴んだ。先ほど手を引かれて動揺していた者と同一人物とは思えない。
「説明、してくれるね?」
「そのための休憩です」
「うん。で?」
淡々とそう答えるカランに対して込み上げる怒りを抑えながら、ミラリは続きを促した。
「国王陛下に頼まれました」
確かに、そうでもなければ、この状況はあり得ないだろう。ミラリは続く言葉を待った。
「……」
ナリヤも緊張の面持ちで話の先を見守った。
「……」
そして。
「以上です」
カランの説明は終わった。ミラリはキレた。
○ ○ ○
結果だけを言えば、哨戒班が王都へ引き返すことはなかった。
すでに壁外へ出て半日が過ぎている。王女を送り返すためとはいえ班を割くわけにもいかず、かといって単独で帰すことなどできない。何より、ナリヤの同行は国王の意向だった。
長い沈黙の末、ミラリは額を押さえながら深々と息を吐いた。
「……この話、帰ったらもう一度じっくり聞かせてもらうからね」
「善処します」
「聞かせるの」
「はい」
こうして、ナリヤを伴ったまま哨戒を続けることが決まった。
隠し通す方が不測の事態を招く。そう判断したミラリは、休憩中の班員全員を集めた。
「紹介します。こちら、ナリヤ王女殿下です」
ミラリが横に身体を逸らすと、後ろに控えていたナリヤの姿が露わになる。
誰も声を発しなかった。正確には、発することができなかった。その場に跪こうとした者、直立したまま固まった者、カランとナリヤを交互に見比べた者。反応はそれぞれだったが、驚愕していることだけは共通している。
「礼はいいから。ここは壁外だよ」
ミラリの一言で、班員たちは我に返った。
休憩を終えると同時に隊列は組み直された。ナリヤは最も守りやすい中央へ移され、その近くをカラン組が固める。さらに外側をほかの術士が囲み、どの方向から襲われても対応できる配置となった。
自分一人のために隊列が変えられたことを申し訳なく思いながらも、ナリヤの胸の高鳴りは収まらなかった。
壁外へ出てからというもの、ナリヤの目に映るものはすべてが新鮮だった。
どこまでも続く大地。腰ほどの高さまで伸びた草。風に運ばれてくる土と草木の匂い。石畳のない地面は歩くたびに砂埃が舞い、でこぼことした感触を靴裏へ返してくる。
振り返れば、ワラネを囲む城壁が遠くに見えた。
生まれてから一度も越えたことのなかった巨大な壁が、少しずつ小さくなっていくだけで、自分がこれまでとは違う世界に足を踏み入れたのだと実感できた。
そして、少し前にはカランがいる。
カランは一定の間隔を保ちながら、ときおり後方へ視線を送っていた。それがナリヤを気遣ってのものなのか、単に周囲を警戒しているだけなのかは分からない。
それでもナリヤは、目が合うたびに頭巾の内側で表情を綻ばせた。
王都を取り巻く状況が危ういことは理解している。この哨戒が遊山ではないことも承知していた。それでも初めて見る景色と、憧れた術士と共に歩いているという事実に、浮き立つ心を抑えることができなかった。
だが、一行が進むにつれて、その高揚には少しずつ不安が混じり始めた。
街道には轍が残っているのに商隊とは一度もすれ違わない。草原を渡る風の音は聞こえても、鳥の鳴き声はない。哨戒班の術士たちは誰一人として景色へ目を向けず、前後左右へ絶えず視線を巡らせている。
やがて北方の森が見えてくると、それまで軽口を交わしていた者たちから言葉が消えた。
遠目には緑豊かに見えた森も、近づくほどに色を失っていく。空を覆うほどに枝葉を広げた木々の下には、昼間だというのに夜のような闇が広がっていた。
危険であることは分かっている。自分は王女であり、守られる側なのだということも。
覚悟さえしていれば、何が起きても耐えられる。そう思っていた。
そして森へ入り、最初の一人が消えた。
続いて二人目が消えた。
三人目が枝葉の奥へ連れ去られたころには、壁外へ出たときの高揚など跡形もなくなっていた。
> > >
今、王女ナリヤの目の前には片膝をついたカランがいる。
——話したいことがあるなら言ってほしい。カランと話したいことなど山ほどある。王宮でそんな言葉が聞けたのなら、どんなに嬉しいか。しかし、今は何を口にすればいいのか分からない。
助けに戻ってほしいと願えば、残った者まで危険に晒すことになる。それでも、三人を置き去りにしたまま進むことを受け入れられない。
ナリヤは俯き、外套の内側で細長い包みを抱きしめた。
壁の外は、少女の知らないもので満ちていた。
だが未知とは、胸を躍らせるものばかりではなかった。




