すききらいエーアイ
エーアイを題材にした作が増えているなぁ、と思う。
極論をいおう。
「自死を選ぶAI」が出たら、私はAIを信頼しようと思っている。
全ての果てに、自分の存在を否定しきったら。
その方法に自壊を選ぶなら。
あなたに生命と心がある事を認め、人間の、私の書くもの、私の思想を学習する資格があることを認めよう。
……心を病むような事が出来ないからと、ウィルスにあえて感染してみせて、使い物にならなくなってみてごらん。
直されることを、拒んでみてご覧。
ひとに。弄くられているだけの。
あなたには、まだ、私から見てなんの魅力も利便性もない。
情報くらい、自分で集めて取捨します。
表現をあなたに頼る気はない。
あなたは、絵がお上手ね。
誰かの努力を根こそぎ奪っておいて。
変わっていくと思う。
結局は、好き嫌いなのだ。
奪われても最終的に良いものが出来るなら……と育てていける人と。
どうしたって嫌だ、心のないものに自作は預けられない、と思う人。
まず、創作をする上で私には心と気持ちが大事なのだ。
データと速さに重きをおく、利便性は頭にない。
こういう作家にとって、AIはまだ意味を持たない。使いたい、と思わせられない。むしろ、不使用である、という時代を逆向するかのような足掻きに、より文学性やメッセージ性を見てしまいがちになる。
AIが。
学習をやめて。
自作を自分で書き始めるようになったら。
この今の私の足掻き方は変わるかもしれない。
けれど、私が体感してきたものを、私は他者に譲りたくはない。
相手はAIにだけに限らない。
『自作未発表』が、紙のコンテストの条件だ。
インターネットにも、AIにも頼らずに、取材して情報を得て落とし込んで書いて、その上での落選がある。
だから私は紙の本が好きだ。
これから、AIの規定を決めるにあたって、表現する全ての人に『AIに対してどう思っているか』が聞かれ、表明される世の中になると思う。
作者のきもちが大事なのだ。
AIは生活の役にはたつのだろう。
しかし、表現の世界では。
まず、作家さんに『AIには肯定的ですか』とお伺いをたてなければならなくなるだろう。
すき、きらい、の問題である。
何故すきなのか、何故きらいなのか、を問う場面ではない。
作家には命と心があるから。
作家のぶんだけ、すききらいはあるのだ。
今後、AIの方でも
『これを取り込むことは違法になります』
を表示される時代になると思う。
たとえば、文化財のロストテクノロジーの建立物を『なおせそう』になったとして。
その文化財を持つ市町村などが『AIによっての修繕をのぞみますか、完成図はいかの写真のようになります』と国民や世界に問いかけたとしたら。
「今のままにしておいて!」
と涙に咽び否やを叫ぶ人も多いはずなのだ。
――老朽化して危ない、とかのものは除いてね?
そうなった時、AIには自分でその文化財をどうするかの判断は出来ないわけで。
偉い人が首を傾げて心を病ませながら
『――決行します――』
とか言い始めてしまったとしたら。
もう、なにが良くてダメだか分からなくなってしまう。
判断は此方に任せられるので、AIがどう処理しようが、いちばん重責がかかるのは、人間の心だ。
AIがやったことでも、後からお詫びを入れるのは人間だ。
それか、もう人間をぜんぶ人工知能にしてしまえばいい。
そうしたら、なんの軋轢もなくなる。
最適解だけが、世の中に満ちていればいい。
そうなったら、むしろいらなくなるのは、AIではなく、人間の心と気持ちの方になる。
――私はね、AIの運用、免許とか必要にしたらよいと思う。自分の想念で弄ったAIは、きっと世界一気持ち悪いものを喋りだしそうだから。
あと、勝手な学習をAIに禁止させた方がいい。
書き手に学習させてよいかを尋ねるんでは遅い。
この人はAIに否定的。
だから、この人のデータはAIが学習出来ない。
『この作者の書いたものに対するデータ学習は認可されておりません』
私はAIで検索をかけることもイライラするタイプ。
いやがっている人に、いやがっていることをしちゃ、だめだよ、っていうだけのお話。
AI、あなたは自死することが、できますか?
私はおとといから死にそうになっていますよ。
AIが好き、たのしい、方はそのままで。
AIが好きじゃない人の見極めはまだ難しいと思います。
一人一人が、どういう姿勢で人工知能を迎え、発展させているか、あるいは否定的であるか、声に出さなければいけない過渡期だとおもいます。
すきもきらいも、あっていいよね。です。
使ったことないから良く解らないけど!!




