見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (6)
見捨てられた國のヒミコ20X0 (6) Ⅽ、アイザック
夜空を見上げてヒミコが言った。
「なんて美しいのかしら。星が数えきれないほどいっぱい。夜空の全部を星が埋め尽くしているわ。」
「綺麗だ…。」アキラが頷く。
二人は屋上のベンチに並んで腰を下ろしていた。
ヒミコが尋ねる。
「オーストラリアでもこんなに星が見えるの?」
アキラが苦笑した。「それは見えるよ。」
「ほら!」とヒミコが夜空を指さした。「北斗七星だよ。ひしゃくの形をしてるでしょ。」
「どれ?」
「ほら、星が七つ並んでひしゃくのようでしょ。右が水を溜めるとこで反対側が柄。柄の二つの星を線で結ぶと北極星に行き当たるのよ。」
「ふうーん。良く分からないや…。これはシドニーでは見えないと思う。」
ヒミコは溜息を吐いたが、気を取り直して問いかけた。
「オーストラリアではどんな星が見えるの?」
「それはサザンクロスだね。多分、南十字星と言った方が分かると思うけど、国旗に使われているよ。」
「そうなの。」ヒミコはその国旗が正確には思い浮かばなかった。
「でもね、サザンクロスの近くに偽のサザンクロスがあるんだよ。」
アキラの思いがけない言葉だった。
「えっ、どういうこと?」
「サザンクロスと同じ十文字に星が並んでいるんだ。でもよく見ると違いがある。本物は十字の横棒の所に五番目の星があるんだ。」
ヒミコは考え込んでしまった。アキラの説明が腑に落ちない。
「それって、本物と偽物はいつ誰が決めたの? どっちが本物かなんて?」
アキラが自信無げに言った。
「それは、考えてもみなかった。」
ヒミコは軽く話題を変えた。
「他にはどんな星があるの。」
「星座で言えばトビウオ座とか、カメレオン座があるよ。」
「えっ、ホントに? カメレオン座?」
アキラがつられて笑った。「ホントさ。でも星で言うならカノープスがある。夜空で二番目に明るい光を放つ星で、りゅうこつ座のアルファ星だ。」
「竜骨座? カメレオンの次は竜なのね。」
今度はアキラが声を出して笑った。
「りゅうこつは船のキールの事さ。でもこちらにはカノープスを凌ぐ一番明るい光のシリウスがある筈。たしかオリオン座の近くと思う。」
ヒミコはベンチで体を大きく捩り反対側を向いた。
「オリオンはこっちよ。」
突然アキラがその上体を抱きしめた。ヒミコは驚きのあまり声を呑んだ。アキラの指がヒミコの顎に添えられた。唇を重ねるのを呆然と受け入れた。呼吸が止まりそうで苦しい。ようやくアキラを遠慮がちに押しのけた。
「まって…。」自分の声とは思えなかった。
「君が好きだ。」とアキラが告げた。
ヒミコの鼓動が激しく胸を叩く。…私もあなたが好きよ、多分。それは言葉にならなかった。
アキラがヒミコの肩に手を廻して顔を近づけた。ヒミコはそっと眼を閉じた。唇が触れたときヒミコは自分が小さく口を開いているのを知った。アキラが唇を吸い、その舌先がヒミコの唇の内側を撫でる。ヒミコは突然に説明の出来ない不安と怖れを感じた。
「待って、誰か来るわ…。」声が掠れていた。
アキラが塔屋の方を見たが人の気配はない。
「誰もいないよ。」
アキラはそう言って肩先の手に力を入れた。ヒミコは顔を背けてハッキリと拒絶の態度を示した。
沈黙が流れた。もはや二人は星空を見ていない。アキラはヒミコを見詰め、ヒミコは暗いベンチの隅に眼を落としていた。
「シドニーにおいでよ。きっと気に入ると思う。」
アキラが唐突に口にした。
「街は瀟洒な建物や店が並んでいる。素敵なファッションと美味しい料理。なんでもある。自然を感じたいのなら内陸に出かけると良いけど、シドニーは伝統的に環境を守っている。街中で国の固有の鳥や小さな動物を見かけるのは普通だよ。」
「シドニーって良いところなのね。」言葉とは裏腹にその街に興味を持てる状態ではなかった。
「そうだよ。」アキラがヒミコの手を握った。
「君さえ良ければ二人で暮らしたい。」
ヒミコは驚いた。「何と言ったの?」
「君が好きなんだ。」
ヒミコは沈黙した。考えがまとまらなかった。アキラは何を言いたいのか。それを問えば抜き差しならないことになりそうな気がした。握られた手を静かに引き離した。
「君も僕を好きだと感じていた。違うのかい?」
ヒミコが無言で立ち上がると、アキラがベンチからその表情を探るように見上げた。
「返事を貰えないの? 星を見ようと誘ったのは君なのに。」
「ごめんなさい、考える時間が欲しいの。」
ヒミコは追い詰められた気分だった。「中に入りましょう。風邪を引くわ…。」
数歩足を運んで、ヒミコは不意に怒りの感情が沸き上がるのを覚えた。それはアキラの一方的な行為と、それを許してしまった自身に向けられていた。突き動かされるようにアキラを振り向いた。
「突然で、強引と思わない? いきなりキスを…。」
厳しい語調にアキラは弁解や反論はそぐわないとすぐ悟った。両手を広げたが適当な言葉が出ない。ヒミコは踵を返して足早にその場を去った。
「ここはコミュニケーション・ルームと呼んでください。このコンピュータを操縦するのではなく対話するという意味です。」
ウルトラコンピューター「銀河」を臨む一室でタケルが敷島とアスカに告げた。そこにはボタンやスイッチなどの計器類が全く見当たらない。椅子がいくつか並び、その前面にディスプレーが並んでいる。眼を上げると透明なアクリル越しに「銀河」の姿があるが、何かを操作する手段は見当たらなかった。
「総理が望むシンクタンクとしての機能調整を終えています。知りたい事を問いかければ即座に答えてくれる筈です。」
「問いかけるとは…、何処にマイクがあるのかね?」
敷島は半信半疑だ。
「複数のマイクとスピーカーが用意されています。そのままで結構です。まず『ギャラクシー』と呼びかけ、ご自分の名前を告げてください。声が記憶されます。」
タケルの説明に頷いた敷島がアスカに視線を向けた。
「外しましょうか?」と彼女が口にした。
敷島は少しの間ためらった後「いいや、構わんよ。」と答えた。
敷島が椅子の一つに腰を下ろした。それが合図であったかのようにディスプレーが一斉に輝き、画面に富士山の映像が現れた。ネット上に残された画像を利用したものだろう。山頂には真白い雪が残り山裾を満開の桜が彩っている。日本を象徴する美しい風景だ。敷島は声を忘れてそれを眺めた。アスカも凝視している。その目に涙が浮かんだ。
やがて敷島が声を上げた。「ギャラクシー、敷島です。知りたいことがあります。」
瞬時に言葉が返った。
「敷島さんは何が知りたいのか教えてください。」中年女性の落ち着いた声だった。
敷島は戸惑い、タケルに尋ねた。
「今のはコンピュータの音声かね。」
質問者の性別、年齢などに合わせて音声が選択されるシステムだがタケルは無言でただ頷いた。
「では質問させてもらう。私は日本政府を代表する者としてジパング島の建設を進めているが、最近はその資金が不足しないかと懸念している。世界中の日系企業、日本人コミュニティからの寄付が激減しているのだ。この事態の原因と対策を知りたい。」
「回答します。資本主義経済が大きな岐路に立たされています。やがて崩壊に繋がる恐れがあります。企業やコミュニティの寄付の減少はそれを反映したものです。」
敷島はあまりに思いがけない『銀河』の回答に驚愕した。資本主義経済の崩壊とはどういう事なのか。
「ジパング島の地理学的条件を考慮すると…。」ウルトラコンピューターの回答が続く。「有効な対策はありません。」
「何だって?」敷島が叫んだ。
「タケル君、これは一体どういう事だろう。」
タケルは落ち着いていた。
「それは『銀河』に聞いてください。」
敷島が唸った。顔を紅潮させてアクリル越しに葡萄の房のようなコンピュータを睨んだ。
「ギャラクシー、分かるように説明してくれ。」
「敷島さんはこの件について認識不足なのですね。ジパング島政府が発足したにも関わらずIMF(国際通貨基金)のサーベイランスを求めたデータが残されていません。それは敷島さんの認識によるものでしょうか。」
IMFは世界190か国以上が加盟する国際機関だ。その目的は世界全体または地域レベルで経済成長を持続させ金融の安定性を促進することにある。また国別では加盟国の経済と金融政策をモニタリングして政策を監視し、必要な助言を提供する。この政策監視と政策助言をサーベイランスと呼び、IMFの中心的な権限と機能として位置付けられている。
「それには事情がある。」と敷島が訴えた。
日本政府は震災後多額の国債の償還を果たしてほぼ一文無しになってしまった。企業が全て国外に移転したこともあって敷島は中央銀行の一時閉鎖を決断した。国債の発行が不可能だと判断したからだ。そんな状況の中で天皇陛下の処遇を巡って想像を超えた寄付が集まり、敷島は新たな希望を見出した。ジパング島の建設だ。
インフラがある程度整えば世界に散った日系企業の本社機能を誘致する計画だった。それが実現すれば財政収入が期待できる。国家が成り立つのだ。その企業には当然金融業が含まれる。そのタイミングで中央銀行を再開させてIMFに加わり、「新円」を発行し国際為替市場に復帰する。やがて新規国債の発行も視野に入ってくるだろう。それまでは歯を食い縛ってでも耐え難きを耐えねばならない。それが敷島の「事情」だった。
コミュニケーション・ルームに落ち着いた女性の声が流れた。「IMFとの関わりは今となっては重要でありません。IMFが既に機能不全に陥っているからです。もともと資本主義経済の変容を最も危惧したのはIMFだったのですが、各国との協議内容に基づくIMF理事会の見解を受けても公表する国が無くなりました。見解はその国の為替相場や通貨政策、財政、金融政策などのリスクについて述べたもので、従来は加盟国の政府がこれを公式声明として公表するのが普通でした。自国の政策の透明性を示すためです。しかし今日、各国は経済政策の行き詰まりと矛盾を覆い隠そうとしています。この結果、IMFは加盟国の協力が得られずWEO(世界経済見通し)の発行も出来なくなっています。」
敷島は苛立った。「IMFはもう良い。資本主義経済が破綻するという根拠を教えてくれ。」
「先進各国の主要な経済指標をまとめると…。」
「それも結構だ。」と敷島が遮った。アスカは敷島の言葉に驚いて手を口に当てた。
「私がグローバルな経済に注意を怠ったのは事実だが、途中経過の数字を聞いても仕方がない。資本主義が何故どのように破綻するのか、言葉で、言語的に説明して貰いたい。」
「説明します。基本的にはAIの誕生が資本主義経済の破綻を招く契機となりました。」
「おかしいぞ、AIが開発されたのは半世紀以上も前の話だ。それがどうして資本主義経済の崩壊に繋がるのだ?」
「説明を聞きますか。」『銀河』は当然ながら冷静だ。
敷島は怒りなのか顔を紅潮させて怒鳴った。
「聞くと言っている。」
「AIの登場は事業者に大きな恩恵をもたらしました。その生産性の飛躍的な向上は従業員の合理化、つまり人員整理による経理的収益として実現しました。まず事務作業、ホワイトカラーの人員が大幅に削減されました。この成功はAIの有能性として捉えられ多方面に影響を与えました。税理や経理に止まらず行政組織においても多くの職員が整理されました。この流れは止まることなく、高度な知的能力が求められる司法の場にも及びました。例えば裁判官は判例を何より重視します。当然と思われますがAI的発想ではそれならば判事が人間である必要は無いことになります。弁護士や検事も訴訟法の範囲で活動します。つまりAIに置き換えることが出来ます。こうして人間は多くの職を失ってしまったのです。それでもAIと人間の役割分担が出来るだろうという希望的観測を多くの国が抱きました。フィジカルの分野、つまりはブルーカラーに分類される職種が人々に残されていると考えられました。上下水道管の埋設工事が好例として挙げられ、建築、土木、介護、医療などの分野、さらには美術や芸術の領域が人間にしかなし得ない職業であると注目を浴びました。芸術はさておきブルーカラーの職種が人に限られるという考えは現実的なものではありません。その発想は人型のロボットが開発されても人間の複雑な能力には及ばないだろうという想像によるものですが、その答えは数十年前に知っている筈でした。好例が運送における自動運転技術です。車両に高度な技術を加え、道路に電極を埋めることによってコントロールと充電を同時に可能としています。その車両に人型のロボットを乗せて運転に当たらせる必要は全く無いわけです。結局フィジカル分野は人間のものという考えはAIオートメーションの実用化で完全に否定されることになります。
AIオートメーションは製品の設計だけでなく製造と生産の自動化も同時に実現するものです。これは21世紀の産業革命ともてはやされ多くの企業に競争力と収益をもたらしました。その一方で人の姿が職場から消え去り失業者が爆発的に増えました。各国の政府は雇用統計が示す就業者数の激減と失業率の急上昇に危機感を抱き、企業に従業者の再雇用を強く働きかけました。しかしAIオートメーションの構築に巨額の資本を投入したことを理由にほとんどの企業がこれに応えていません。
AIオートメーションの競争に打ち勝った企業は莫大な利益を保有しました。特別にカッコつきで『企業』と呼ばれる百社で全世界の富の九十パーセントを占める程です。ところがその『企業』を大きな波が襲っています。トップ・ライン(売上高)が急激に落ちているのです。これは当然な現象でした。『企業』が生んだ膨大な数の失業者が収入を失い、消費能力を失ったからです。『企業』は結局、先進国における消費者を駆逐してしまったのです。
やがて失業者を中心としたコミニュティ・ユニオンが活動を過激化させ、国による生活費の給付を求めてデモを繰り返しています。ある国では現金の給付を約束しましたが、『企業』への基金の拠出要請と新規課税を財源としています。『企業』が地盤沈下している情勢では持続可能な制度とは言えないでしょう。」
「ちょっと待ってくれ。」と敷島が声を上げた。
「『企業』が莫大な資本を保有していると言った。それを活用すれば資本主義経済の破綻など起きないのではないか。」
「資本主義経済の破綻は推測です。崩壊したとは断定していません。その推測に至った事実をこれから説明します。よろしいですか。」
「聞かせて貰おう。」敷島はあくまで懐疑的だ。
「国から多額の納税などを求められた『企業』の多くはある行動を起こしました。その一つが発展途上国へ本社を移転したことです。税を回避する目的で、その数は増え続けています。国は対抗措置として移転先でも課税できる法律を成立させました。しかしその途上国の政府が認めない限り税の徴収は不可能です。『企業』が納税の意思を示さなかった為に国がその『企業』の自国内の工場や資産を差し押さえる事例が生れました。これらの『企業』は国を提訴すると同時に独自の行動をとりました。途上国を事実上買収する事でした。年収が十万未満の住民に数百万の現金を給付することによってその国に絶対的な権力者を誕生させ『企業』が背後で操るという方法です。『企業』は生き残るために生まれた国を捨てたのです。
多くの『企業』がこれに倣い、経済的根拠の希薄なマネーを世界に溢れさせました。また『企業』を失った国では財政赤字を埋める手段として大量の通貨供給を中央銀行に求めます。こうしたマネーサプライの激増がハイパー・インフレに繋がっています。
この事態に最も耐性を発揮したのは共産主義や王権主義による絶対支配体制の国家です。とくに中華連邦は世界的ハイパー・インフレの兆しを察知すると迷いなく自国通貨の売買を禁止しました。為替市場と関係を絶って通貨の流通を連邦内に限定して外部の成り行きを注視している現状です。国際通貨の大暴落は自国通貨の価値の喪失には直接繋がらない建前でした。しかし外貨準備はドルの積み立てで用意されています。このため為替相場が混乱し、中華連邦も実は巨額の損失を内部に抱えているのです。国際通貨がグローバルな価値と意味を失いつつあります。これは資本主義経済が崩壊に直面していることを示しています。」
「その見解はどうかな。経済というのは結局、人間の生活から生まれ発展したものだ。人が生活する以上そこには経済がある筈で、資本主義が最も合理的な仕組みじゃないのか。混乱はやがて解消するのでは。」
「敷島さん。今、ジャガイモ一個の値段がいくらか知っていますか。」
敷島は政治家でありジパング島の建設を通じて日本の再建に取り組んでいると自負している。それを世界経済に無知な人物であるかのように告げられて心は穏やかでなかった。けれど質問の答えは何か。敷島は分かっていない。
「良く分らんが、ジャガイモ一個が二百円ほどもするのか?」
「GDPの上位百か国の農産物市場の平均価格ではジャガイモ一個の値段は七十ドル。旧日本円に換算すると一万円ほど、流通価格は二万円です。」
敷島が唸った。「信じられん…。」
「このハイパー・インフレに『企業』が新たな行動を起こしています。資本ではなく世界規模の物質の囲い込みです。鉱物資源とその採掘権、農地と農産物、漁業権と水産物、医薬品の原薬と石油からなる化学物質、軍事兵器などです。『企業』はここでも大量の資金を放出する一方で独自のデジタル通貨を開発しました。今のところ『企業』の間でしか流通させていません。彼らは国を捨て、ハイパー・インフレ下の通貨を捨てることによって損害を最小化したのです。」
敷島は蒼白になった。「それが事実なら…、ジパング島はどうなる。」
日本人十万人の移住計画が発表され、既に五万人が島に住んでいるのだ。
「ジパング島の面積は約60㎢、最適な人口密度を1㎢に3000人と仮定すると十八万人が居住できます。さらに密度を上げて五十万人まで人口を増やしたとしても至極小さな国である事実は変わりません。さらにジパング島が昔の日本のような製造業が盛んな国になるのは困難です。世界中の日本人の経済力をまとめてみましたがGNI(国民総所得)が激減しています。ジパング島でも国外でも日本人が経済的な影響力を持つ事は難しいでしょう。」
敷島の前に置かれたディスプレーにはジパング島の衛星写真が映し出されていた。敷島は茫然とそれを眺めた。やがて「ジパング島はどうなる。」と呟くように同じ質問を口にした。
「食料の確保に最優先で取り組む必要があります。これまでのように輸入に頼る訳にはいかなくなります。島内に農地を整備するのが急務となりますがサンゴ礁に由来する地学的特性を十分に考慮して開発するべきでしょう。土壌がアルカリ性で水はけが良い反面土壌改良に工夫が要ります。栽培はイモ類が適している。他にサトウキビやパイナップル他の果樹が有望で、巨大な地下ダムや貯水池を建設すればコメなど多様な農産物の栽培が可能になります。酪農を行えば牛糞がサンゴ礁の土壌改良に活用できます。このほか水産業では大規模な港湾工事や浚渫が不要な養殖漁業が現実的です。これらの開発はサイクロンの影響を慎重に見極めることが大事です。」
「つまりは大昔の日本のように国民は農業と漁業に依存する以外ないという事か。」
「国際社会への注意と関心を忘れないでください。『企業』といくつかの国の間に不確実性の高い動きが見られます。まずアメリカが再統一を実現しました。そのうえで自国から海外に脱出した『企業』に応分の負担を求めて交渉に入っています。アメリカは要求が聞き入れない場合は軍事攻撃も辞さない姿勢ですが『企業』はUCW(世界企業連合)を結成して対抗、攻撃や侵攻には報復も辞さないと牽制しています。
アメリカとUCW(世界企業連合)は現在、医療を担うAIオートメーション病院の稼働について交渉しています。アメリカ国内で千か所に及ぶ病院施設が差し押さえられていますが、『企業』が厳重なセキュリティーを設定しているために稼働していません。アメリカ政府はこのセキュリティーの解除と医薬品の提供が保証されるならば軍事攻撃を中止する姿勢を示し、『企業』はアメリカ産の石油との交換取引で要求に応じると表明しています。此の点については双方が受け入れるようです。
この他に幾つもの国と『企業』が様々な交渉を行っていましたが基本的に重要な点は『企業』側が従来の通貨を否定していることです。『企業』が発行したデジタル通貨によってのみ彼らと取引が出来ます。そのデジタル通貨は為替市場と関係を持ちません。分かりやすく言えば『企業』が求めるものを供給することではじめて取得できる通貨です。これまでの資本の意味は失われようとしています。いわば物が資本に替わろうとしています。ジパング島もこうした状況と無関係ではいられないでしょう。
世界的な情況で深刻に危惧されるのは国家と『企業』の対立が深まった事です。アメリカの場合は『企業』側が要求を呑んだことで軍事的な紛争の危機を避けられましたが、それはアメリカが石油という資源を有していたから成立した交渉です。資源を持たない国はより強硬な態度で『企業』に接しています。資源ではなく通貨でもなく社会的責任を追及するという抽象的な理論に立脚した要求は無視され、その結果として要求と交渉が強硬なものに変わるという経過をたどっているのです。これは非常に危険な兆候でした。
しかしごく最近になって重要な変化が生れています。従来の経済環境で繁栄した先進国の多くが物理的な資源を持っていません。このため彼らは国家間で連合を組織し要求を統一して世界企業連合(UCW)と交渉を始めたのです。これがどのように帰結するかは別として今のところ軍事紛争の勃発を防ぐ大きな役割を果たしていますが事態は流動的で混沌としています。
敷島さんの質問に結論を述べます。まずジパング島への寄付金が今後は望めません。都市型のインフラ整備を中止して国民の衣食住に直結した事業を優先しなければなりません。自給自足の経済をイメージしてください。外国との取引が現状では困難だからです。
また国と『企業』の軋轢が解決されなければ武力紛争が多発する事態が予想されます。ジパング島のみならず日本列島においても影響を警戒する必要があります。」
アスカがヨロヨロと椅子を立った。顔面は蒼白だ。敷島が口を開いた。
「タケル君、私は間違っていたのだろうか。」
「総理の決断は正しかったと思います。巨大地震の直後は国外避難しか国民を救う方法は無かったでしょう。」
「問題は今か。ジパング島の建設は後に引けないところまで来ている。だが残された資源を列島の再建に振り向ける最後のチャンスかもしれん。」
敷島は「銀河」を見詰めた。
「ギャラクシー、ジパング島建設を続行すべきかそれとも列島の再建か。どちらがより望ましいか。」
「直ちに答えるにはデータが不十分です。国際情勢があまりに不確実です。そのうえで二者択一の答えを求める必然性に疑問は無いでしょうか。
ジパング島の建設を続けるのが効率的です。一方で列島は農業と漁業で多くの資源開発が見込めます。もし『企業』のデジタル通貨が国際通貨となった場合は列島の産物でそれと交換する試みが必要でしょう。石油などから合成される医薬品を入手する為に『企業』は無視できません。
ジパング島の建設を続けながら列島の開発にも眼を向ける。そのために現有の資源を配分し有効に活用する、それが回答です。」
「私は今もって納得できないよ。資本主義経済が崩壊するなんて実際に起きるだろうか。ハイパー・インフレ現象は事実かも知れんが国家間で協調して政策を推し進めれば解消できるはずだ。企業連合なるものも世界の国家が手を組んで迫れば要求を受け入れるしかあるまい。そして第二次世界大戦後にGHQが日本で行ったように財閥解体ならぬ『企業』解体を断行して資本の独占と偏在を解消すれば経済危機も解決できると思うが…。」
敷島がタケルとアスカを交互に見て「タケル君はどう考える?」と質問した。
「事態はもう少し複雑かも知れません。」とタケルが答えた。
「各国は自国内の『企業』が所有する生産設備などを差し押さえているようですが、それが『企業』のセキュリティー設定によって稼働できないとすれば国にとって大きな痛手です。アメリカの例で言えば千か所以上のAIオートメーション病院が運営できないとなれば短期的に数万人、長期的には数千万人の国民が危機に曝されることになります。結局国は国民の命と引き換えに『企業』と妥協的な条件で折り合わなければなりません。『企業』側の優位は変わらないのではないでしょうか。」
敷島は腕を組んで言った。「そうかも知れないが、そうじゃないかも知れん。国は強大な力を行使できるからな…。例えば新しい病院を次々と開業させれば『企業』に頼らずに済む。」
「それは現実的じゃありません。臨床医がほとんど存在しないからです。多くの先進国の医療機関では診察、診断、治療方法の全てをAIが決定します。これによって『企業』は膨大な医療データを所有していますが決して外部には明かしません。もし医療設備を作ったとしても形だけに終わるでしょう。」
敷島が眼を丸くした。
「何と、今日は驚く事ばかりだな。ここの、いわきの病院はつまり世界的に見れば時代遅れという訳か。」
タケルが微笑を浮かべた。
「安心してください。いわきの病院も最先端のAI診療システムが完備しています。数人の臨床医がいますがその役割は災害対応の単純外科と心療内科に対応しています。」
「ふうーん。でもそれでは重度のがん患者の場合はどうなるのかな。以前と比べれば化学療法が大きく進歩したとは聞いているが、手術が必要な時もあるのでは。」
「現在がんの切除術は不要になっています。抗体を作り出してがん細胞を破壊するのです。本人のがん細胞を取り出して造られたmRNAワクチンを使用します。これはがん細胞だけを確実に攻撃する機能を生じさせ副作用はありません。他の病変はカテーテル術になり、そのためのロボットが開発されて数十年になります。ご心配はいりません。」
話が途絶えるとアスカが席を立った。コーヒーを煎れるつもりのようだ。カップなどが触れ合う物音の中で敷島は視線を落とし一心に考えを巡らせている。ジパング島の建設と列島の再建、果たしてそれが可能なのか。多くの疑問を残したまま、つまりはやるしかないのだと結論した。
アスカがテーブルにコーヒーを並べると、敷島は彼女に声を掛けた。
「アスカ君にはまことに申し訳ない事になってしまった。君の熱意に甘えて来たが、どうも想定外の事態を迎えているようだ。たしかご家族は海外だったね。もし君がここを去るのなら私は決して不満に思わないだろう。」
アスカは椅子に背筋を伸ばし、敷島を見詰めて言った。
「私は職を辞したら海外で家族と暮らしたいと思っていました。けれども今は迷っています。『銀河』の指摘が事実か確かめたいですし、夫とも話し合う必要がありそうです。もしかしたら海外ではなくこの福島という選択肢があるかも知れません。どちらにしても今すぐ勤めを辞めるつもりはありません。」
「それは有難い。今後は列島の再建にも取り組むつもりだ。君がいてくれると心強い。」
それから敷島はタケルに「銀河」が指した経済危機に伴う武力紛争の影響について尋ねた。
「実際にジパング島かこの列島に影響があるだろうか。つまり他国からの侵攻が起き得るのかどうか。」
タケルが即座に答えた。
「列島についてはその危険性があります。他国による不法な侵入、占有が既に見られます。経済危機のさ中にある指導者にとって国民の眼を逸らす手段として日本列島への侵攻は容易であると考えるかも知れません。ハードルは低い筈です。」
敷島の顔色に朱が差した。
「ネオソビエトが北海道東部に、中華連邦が九州に不法に侵入した直後に日本政府として国連で激しく抗議し、安保理の理事会を開くよう求めたが二か国の多数派工作によって我が国が求める議決は得られなかった。だが卑劣で不法な侵攻は許さないという政府の立場は不変だ。あらゆる機会に国連の場でそれを訴えて来たし、これからもそれは変わらない。タケル君!」
敷島が体を乗り出して言った。
「以前に依頼した強力な兵器の開発はどうなっているかね。というのも私はネオソビエトと中華連邦に強い姿勢で臨むつもりだ。彼らが不法に占有している国土を奪還しなければならない。だがそれはこの科学基地が何らかの軍事攻撃を受ける可能性を予想させる。どうだろう、対処できるかね。」
「この基地を地上兵器で破壊するのは不可能と断言できます。さらに遠隔地からのミサイル攻撃は迎撃できますし、弾道ミサイルと宇宙周回ミサイルの無力化がじきに実現します。」
「それは具体的にどのような兵器なのかね。」
「お教えできません。」タケルが迷いなく答えた。「総理がそれを知ると身に危険が及ぶかも知れません。」
敷島が一呼吸おいて口を開いた。
「私は政治家として君の父親から教えを受けそれなりの経験も積んだ。そして総理となってから決意したことがある。恐ろしい事、あるいは穢い事も国の為ならやり遂げるつもりだ。もとよりわが身の危険を顧みることは無い。だからタケル君の心配は無用だ。」
「あえて申しますが、総理がこの件で心を煩わせる必要はありません。私一人にお任せください。」
「君だけが知る機密という事か。だが君に万一の事があったらどうするのかね。」
「その時はヒミコが引き継ぐでしょう。」
「ヒミコ君が? 引き継ぐとは?」
「この兵器はヒミコの指示によって動作します。幼い彼女には残酷な負担ですが応えなければなりません。それがあの巨大地震を生き延びたヒミコの運命なのです。」
「待ってくれ…。」敷島が手のひらを突き出した。「君は何もかも勝手に決めているようだが私が納得すると思うかね。」
「納得して頂かねばなりません。私は総理をよく知っているつもりです。けれど例えば新しい官房長官やそのほか政府の人々については何も知りません。私はこの基地の機密をそうした人物に晒すつもりは全くありません。ヒミコと二人で荷物を負う、それが熟考して得た結論です。」
敷島は唸った。「…その、荷を負うメンバーに私は含まれていないという事か。」
「兵器の運用は総理の統制の下にあります。…言葉が足りませんでした。この荷物はいつか国民の全てが負わなければならないのかも知れません。」
「分かった。とにかく君は考えを変えるつもりは無いようだ。しかし念を押しておくぞ、もし私が不都合や疑問を抱いたら君の結論を否定させてもらうよ。君はこれを拒否できない、良いかね。」
「総理個人に対して、という意味で了解します。それからジパング島の防衛についても準備していきます。」
敷島が表情を和らげて言った。
「タケル君、私は科学的なことは良く分らない。だから君の言う機密を耳にしても何のことか理解できないかも知れない。あまり深刻に受け取らないでくれ。」
このとき電話の呼び出し音が鳴った。アスカの携帯だ。急いでその場から離れながら通話に応じる。ところが彼女は相手と喋りながら再びテーブルに近づいて来た。
「敷島総理と何かお話しされますか? もしもし?」
問いかけた途端に電話が切れたようだった。
「NPO法人埴生の宿のイルカ氏からお電話を頂きました。イルカ氏はNPO法人を退職なさるそうです。」
「イルカ氏とは?」
「NPO法人の日本支部長です。退職は突然の事で驚きました。後任が必要となりますので法人側と話した後に報告させて頂きます。」
「退職の理由は何だったのでしょう。」
「アメリカ軍基地にインドネシアへ送金を依頼したが断られたと怒っていました。これでは只働きだと…。」
「よく分かりませんね…。」
アスカは察しが付いていた。イルカは多分アメリカ軍キャンプへ食料品などを納入する住民が受け取る代金から手数料を得ていたのだろう。代金はドルで支払われる。それをインドネシアの親族に送金しようとしてキャンプ側から拒否されたのだ。拒否の理由は『銀河』が指摘したハイパー・インフレと関係していると想像される。
「去る者は追わず、そう考えよう。」と敷島が口にした。
世界の経済危機と日本政府の方針について全く知らないヒミコは新潟の衛星画像を見直していた。何処かに日本人の集落がある筈なのだ。レンガ色の長い衣を纏った老人と出会った場所を中心に北側を探索した。
人が暮らすには必要な条件がある。まず水だ。川が流れているか湖が無ければならない。そして農耕に適した地形。それを探す。ヒミコが眼を皿のようにして画像を視ていると身近に人の気配を感じた。眼を上げるとアキラがかしこまった表情で立っている。小腰を屈めて「ちょっと良いかな。」と話しかけた。
「僕は君に謝らなければならない、申し訳ない事をしてしまった。許して欲しい。」
ヒミコは無言で画面に視線を戻したが、不自然な態度だと気がついて平静な声で告げた。
「良いわよ。もうあんな事をしないと約束してくれたら…。」
「有難う、もう君を怒らせるようなことは無くなるよ。」とアキラは小声で言った。
…無くなる、とは? ヒミコは言葉のニュアンスに違和感を覚えたが、彼はオーストラリア人だ。気にする事じゃない。
話が済んだと思われたがアキラはその場を動かなかった。
「何を見てるの?」とヒミコに尋ねた。
「新潟なんだけど、震災後も残っている日本人の集落が何処かにある筈なのよ。きっと自給自足の生活をしてるのだわ。」
「そう…。」アキラはたいして興味を持たなかったようだが、ヒミコの手前があってか画面に身を乗り出す素振りをした。
「そうだわ。」ヒミコはドローンで撮影した画像を呼び出した。浜辺の小屋とアスカが竈と指摘した小さな構造物が並んでいる。
「この小さいの、何かしら。アキラさん分かる?」
アキラが顔を並べるほどの近くに寄って映像を注視した。ヒミコは横目で睨んだが何も言わない。
「これは竈だね。何かを煮炊きするのか、焼くのか。海産物だと思うけど海が近すぎるね。調理じゃないかも…。小屋の中に何があるのか分かればハッキリするんじゃないかな。」
「現地に行く必要がありそうね。でもその前に集落にあたりを付けておきたいわ。この場所から遠くないのよ、きっと。」
「これは…。」とアキラが声を上げた。
「もしかすると塩を造るのかもしれない。それなら海辺に近いのが理解できる。」
「シオってあのしょっぱい塩? どうやって造るの。」
「例えば口の広い鍋に海水を入れて沸かす。煮詰めて水分を飛ばせば塩が出来る筈だ。」
「そんな面倒な事をするかしら。」
「塩は人間にとって重要なミネラルだからね。自給自足の暮らしには欠かせないアイテムだよ。」
「でも近くに集落は見つからないわ。せっかく塩を造ってもそう遠くまで運べないとしたらアキラさんの意見は間違っていそうね。残留する日本人は現代文明とかけ離れた生活をしている筈よ。」
「現代の文明とかけ離れているとしても馬車くらいの運搬手段はあるんじゃないかな。」
「馬車!」
ヒミコはアキラの言葉に衝撃を受けた。ヒミコは簡単な事に気づいていなかったのだ。
「そうね、馬車を使えば五キロと言わず十キロ離れた場所でも生活圏に入るわ。」
ヒミコの弾んだ声に微笑を浮かべたアキラは、すぐに真顔になって自身の考えを伝えた。
「映像の場所で塩を造ったと仮定して、そして君が付近に集落が無いというのが事実だとするなら、何処か離れた場所から訪れたことになる。なぜあの場所で塩を造る必要があるのか。どう思う?」
「ええと、何故でしょう。」ヒミコは返事に窮した。
「海水を使って塩を造りたいのにそれが身近で出来ない、遠く離れた海辺に来なければならないのは?」
「山の中に住んでいるから? そうでしょう。」
「多分ね。其処から最短距離で海を目指すと考えるのが普通だとすれば、狭い範囲で集落の在りかを推測できる。」
アキラが自信たっぷりに指摘したがヒミコは首を傾げた。
「この近くは林の奥から山の中まで調べたけど、農業が出来そうな平地が無かったわ。コメかイモかそれとも麦などの穀物が作れないと生活できないよ。それに水が、川が見つからなかった。やはり集落は遠い場所なんだわ。」
「だとすると…。」アキラが考えを廻らせる。彼は自尊心の強い人間らしく妥当な答えを見つけようと努めていた。
「集落から海辺に行けない理由があるのかな。」
「理由?」
「例えば集落と海の間に超えにくいほどの砂丘があるとか…、海岸に出ても断崖になっているとか?」
ヒミコが思わず叫んだ。
「断崖! あったわ、そんな地形が…。」
ヒミコは衛星の画像に戻ってスクロールする。「北の方、山形へ向かうところよ。」
記憶は間違っていなかった。砂丘が途切れるあたりから突然に山が現れ、海に迫りながら北へ連なっている。切り立った崖の下に波が洗う細い道が見え隠れする。海岸線に人が住めそうな場所がない独特な地形だ。砂丘の果てと山の南端を川が海へ横切っていた。
ヒミコはその川を遡る。内陸に至ると流れの両岸に平地が広がっていた。ヒミコは胸が鳴った。…これなら数百人が暮らせそうだと感じたからだ。けれど農地なのか原野なのかハッキリしない。突然アキラが声を上げた。
「家がある。今、建物が映っていたよ。」
ヒミコが落ち着いて言った。
「東北や新潟で無人の建物が残されているのは珍しい事ではないわ。十階建ての県庁が放置されていたくらいだから。」
「信じられない話だね。どうしてそんな事に?」
「私もそのあたりはハッキリしないのよ。」
ヒミコは川の上流にまで範囲を広げたが、やがて呟いた。
「ダメだわ、人が映っていない。」
ヒミコはため息をついたが気を取り直してアプリを起動し、AIにアクセスして尋ねた。
「東北で民家を残して人がいないのは何故?」
直ぐに合成音が応じた。
「質問の事象について、その理由の全てに答える事が、出来ないかもしれないと、ご承知ください。そのうえで、主な理由を、お答えします。」
AIの回答は次のようなものだった。
人口減少による過疎化が地方の財政状況を悪化させたが、国は地方への交付金を減らし続けた。参議院の廃止、衆議員の定数削減、選挙区の大都市偏重などの政治的影響によるものだった。財政の困窮から抜け出せない地方自治体は行政サービスを次々と廃止せざるを得なくなった。雪の多い地方では最初に除雪などの道路管理が大幅に縮小された。除雪に必要な予算が一本のルートだけで十億円を超えたのだ。それはやがて季節に関係なく県道の廃止にまで至るようになった。これらの地方公共団体は県道など公道が廃止された地域を居住不適地として比較的人口の多い地方都市に移転するよう住民に求めた。人口を集中することによって行政を維持しようとしたのだが効果は短期間だった。
地方の生活に希望を失った人々は首都圏を目指して転出、過疎化が一層と進み、地方の財政は多くの団体で破綻してしまった。
「政治の影響は、地方財政だけでなく、産業にも及びました。」とAIが合成音で告げた。
「それは教えてくれなくてもいいわ。」
ヒミコは以前アスカから聞いたと思った。
「自然災害が起きても国は地方の産業基盤のインフラを回復しなかった、そうでしょう。」
「そうです。地方において、農業、漁業、その他の失われた産業は、復活しませんでした。東北だけでなく、地方の住民が家、建物を捨てて去った理由です。質問に対する、大まかな回答は、以上です。」
「これは驚いた。」
アキラが両手を広げた。「僕はてっきり大地震のせいで日本が破滅的な試練に直面したと思っていたけど、それ以前に日本は事実上財政が破綻していたのか。」
ヒミコは異議を口にした。
「決め付けないで。大地震の後、政府は日本国債を償還して義務を果たしたと聞いているわ。財政が破綻していたらそんな事は出来なかったはずよ。」
「悪かった、軽率な発言だった。」アキラが肩を竦めてみせたがヒミコはプイと顔を背けた。
「話は変わるけど、君は次に打ち上げられる予定の衛星を見たかい? 外見からでも奇妙な構造が窺えるよ。」
ヒミコは興味を抱くと同時に憤慨した。
「外見が奇妙って、どういう事? 何故そんな事言うの。」
「まだ見ていないなら組み立て棟へ一緒に行こう。」
アキラは何処か決意を滲ませた表情でヒミコを促した。
組み立て棟では既にロケットが発射台に固定され、高さ八十メートルの先端に銀色に輝く衛星フェアリングが見えた。
「ああ、もう衛星が搭載されている。」
アキラが口にしてヒミコとエレベーターに乗る。衛星と同じ高さまで上昇した。
「フェアリングが確かに普通より大きいようだけど、とくに奇妙では無いわ。」
注意深く観察した後ヒミコが指摘した。
「僕はフェアリングに収納される前にこの衛星を直接眼にしている。一見してテザー衛星かと考えたんだが、違う。もっと径の大きなチューブ状の物が渦巻き状に格納されていた。あれが宇宙空間で解放されたら直径が数キロメートルもある巨大な輪になる筈だ。衛星がそんなものを必要とする理由は何だろうか。」
「御免なさい、何も分からなくて。テザー衛星て何?」
アキラがヒミコを見詰めて言った。
「導電性テザーさ。数キロの長さのカーボンナノチューブなどを衛星に繋ぐ。衛星が宇宙空間で磁界を超える度に推進力を得ることが出来る。知ってる筈だ。」
ヒミコは顔を赤くした。「ホントに知らなかったわ。ホントに…。テザーもそうだけど、輪が付いた衛星って想像したことも無いわ。」
「僕のデスクへ行こう。君に見せたいものがある。」
「見せたいものって何?」
「この衛星の設計図さ。」
ヒミコは意外な気がした。
「設計図を見たならあなたは理解したはずでしょ。」
アキラは無言だった。
彼は追跡管制隊のアカウントで基地のホスト・コンピューターにアクセスして衛星の設計図をディスプレーに表示させた。それは膨大なデータだった。
「見てごらん。」とヒミコに図を指した。
「太陽光パネルやレーダアンテナのストッパー迄詳細に明かされているのに…。」
アキラは設計図のページを素早く切り替えた。
「ほら、これを見て。」
設計図に黒く塗りつぶされた部分があった。思わず小さな声を上げたヒミコを尻目にアキラが次々とページを開く。すると黒塗の部分はその数と範囲を増やしていった。
「こうすれば良く分るよ。」
アキラは設計図を3Ⅾ画像に替え、投影角度を様々な方向に動かした。画面で衛星がクルクルと回転する。その大部分が暗い影の塊で占められていた。
「一体これはどうなっているの?」ヒミコがポカンと口を開けた。
「君は知らなかったんだね。」
「こんなの初めて見たわ。」
ヒミコは不可解な出来事を突然に突き付けられた驚きと、漠然とした不安を感じていた。
「この衛星には秘密があって、ドクター・タケルはそれを明かしたくないのさ。」アキラが断言した。
「秘密って何。お兄ちゃんには考えがあるのよ。」
アキラはヒミコを見詰め口を閉じた。
ヒミコはアキラの言葉を待っている。沈黙が続いた。堪らずヒミコが尋ねた。
「あなたは何か知ってるの?」
質問には答えずにアキラが告げた。
「ヒミコ、僕はここを去らなければならない。この衛星の追跡管制は出来ない。」
「何故? どういう事?」
「百年以上前に国連で宇宙条約が決められ、日本もそしてオーストラリアもこれに加盟している。この条約は宇宙が平和目的で利用されなければならないと定めている。僕はオーストラリアの大学で宇宙工学を研究している。だからこの衛星の打ち上げに関わりたくないんだ。」
「あなたは私のお兄ちゃんが製造した衛星が宇宙条約に違反していると言いたい訳ね。設計図に黒くマスキングされた部分があるから? それが製造のテクニカルな情報を守る為とは考えないの?」
アキラは反射的に浮かべた苦笑を消して遠慮がちに言った。
「衛星の設計は研究室の学生でも出来る。製造工程はその細部にまで完全に明らかだ。通常の衛星ならば秘密にする情報は無いよ。」
「教えて。あなたはこの衛星が平和目的ではない、宇宙兵器だと疑ってるのね。確かめた? 兄と話した?」
「この話はもう止めよう。」突然アキラが告げた。
ヒミコの顔が紅潮した。アキラから一方的に突き付けられた話だ。
「僕はただ…。」とアキラは言った。
「僕がここを去ると、君に知って欲しかった、それだけなんだ。ドクター・タケルを非難するつもりは無いよ。」
…そんな口ぶりじゃなかった、と言いかけてヒミコは言葉を飲み込んだ。アキラの表情が冴えない。まるで打ちひしがれているかのようだ。
「もしかして、あなたは裏切られた思いでいるの?」
「その感情があったとしても、僕にはそれよりもっと大切な問題がある。ここを去ればもう会えなくなる。僕は君に会えなくなるのが辛いんだ。」
不意打ちだった。アキラのストレートな表現にヒミコは言葉を失った。星空の下、交わしたキスの感触が蘇ってヒミコは慌てた。顔が真っ赤になった。あれはアキラの気まぐれで不誠実な行為だと強いて自分に言い聞かせていた。しかし、アキラの気持ちをあのとき知ったはずだった。
「君はここを離れる気が無いようだね。僕には理解できない。君がこんな処に居る必要があるだろうか。」
「こんな処って…。」ヒミコは小声で非難した。
「もっと別な世界に踏み出すべきだ。基地では君と同じ若い世代の人と会うことが無かった。多分それはいわき市を歩き回っても同じだろう。君は恋人も持たず独身のままで生きるつもりかい?」
ヒミコは同じ世代の男性と出会った記憶を探った。自衛隊員の荒川陸曹長はかなり年上だった。唯一、アップルゲートの米軍兵士が浮かんだ。アキラの指摘は外れていない。
「僕が君の兄ならその事を心配するだろうね。ドクター・タケルは何も言って呉れないの?」
兄に海外移住と結婚を勧められたことがあった。しかし今それを話すと誤解されそうだった。ヒミコは沈黙を守った。
「明日、敷島総理が帰国する便でオーストラリアに向かう。僕はそこで平和な、明るい将来を築くつもりさ。もし君がシドニーに興味を持ってくれたら嬉しいけど。」
アキラは控えめながら正直な言葉を口にした。しかしヒミコは何処にも行く気は無かった。
「もう二度と君に会うことはないかもしれないね…。」
アキラがそう言って固く唇を結んだ。
翌日、敷島の一行とアキラを乗せたジェット機が南の空に飛び去るのを見送った。白い機影が視界から消えてもヒミコはボンヤリと立ち尽くした。
胸にポッカリと穴が開いたように気分が沈んだ。飛行場の広大な景色も、吹き渡る風も、何もかもが虚しく感じられた。喜びが何処かにあった筈だった。ヒミコは手に入れた自覚も無いままにそれを失ったのだ。
夜になって屋上に上った。星々が煌めいている。ヒミコはベンチに腰を下ろした。暗く静かな世界で身動きもせずにいた。空気が肌に寒い。
「ヒミコ?」
ケンイチの声がした。視線を投げると塔屋の入り口に小さな人影が見えた。ヒミコはケンイチが近づくのを静かに見守った。
「ヒミコ、大丈夫?」
ケンイチが不安そうに尋ねた。
「どうしたの、私は大丈夫よ。」
「とても悲しそうだった。ヒミコが階段を上るのを見たんだ。」
「そう…。」
ヒミコはベンチを軽く叩いてケンイチを座るよう促した。
「ほら、星があんなに沢山。明るい星もあれば砂粒のように小さな星も。奇麗だと思わない?」
「うん。みんな光ってるね。」
「星は地球から気が遠くなるくらいの距離にあるの。宇宙は果てしなく広いわ。この星空に比べると私は自分がアリよりもっと小さいと感じるわ。なんだか悲しくなるのよ。」
ケンイチが足をブラブラさせて応えた。
「僕はいつかロケットに乗って宇宙の星に行くんだ。そして地球に手を振るよ。」
「あら、凄いわ。それならうんと頑張らなきゃ。」ヒミコはふと気が付いた。
「勉強はどうしてるの?」
「アースボーイが僕とカーチャのアカウントを作ってくれた。此処のコンピューターを使って勉強してるんだ。」
「自分でデータを探すのは大変そう。」
「ううん、バーチャルの先生がいるの。僕はサンタと名前を付けたんだけど。」
「あら、山下さんちのサンタと一緒?」
「猫のサンタは可愛いけど、サンタ先生はたまに意地悪なんだ。僕は一歳上に進みたいんだけどまだダメだって。」
「そうなの。きっと先生には考えがあるのよ。焦らなくても良いと思うよ…。」
ケンイチが不満そうに溜息を吐いた。
「さあ、もうお部屋に戻りなさい。カーチャが眠る頃よ。」
「ヒミコは?」
「心配してくれて有難う。私はもう少し此処にいるわ。」
ケンイチが塔屋のドアを閉じると辺りは一層と暗くなり、逆に
星たちの存在が際立った。
ヒミコは夜空を見上げた。「あれが北斗七星、そしてオリオン座は…。」呟きは声にならなかった。
(つづく)




