第5話:海への誓い
バルカスの私兵五十名が、声もなく演習場の泥に沈んでいた。
「……計算通り。……全数、沈黙」
アルトリアスが短く告げると、レオたち若き騎士衆が、信じられないものを見る目で周囲を見渡した。
わずか十数名。それも、昨日まで「ままごと」のような演習をさせられていた未熟な自分たちが、その数倍の熟練兵を無傷で制圧したのだ。
フェリシテは、戦闘の熱を冷ますように深く息を吐き、足元の凄惨な光景を見つめた。 そこで、彼女は気づく。
(……これは、ただの乱戦じゃないわ)
倒れている兵たちの位置。そしてアルトリアスがレオたちに取らせていた陣形。それらを俯瞰して視たとき、フェリシテの脳裏に鮮やかな幾何学模様が浮かび上がった。
アルトリアスが日々繰り返していた、家臣たちが口にする「理解不能な模擬戦」。
それは、個人の武勇を前提とした既存の戦術ではなく、兵を一つの巨大な『機能』として連結させ、敵を論理的に圧殺するための「演算」の反復だったのだ。
「アルト……アンタ、あの泥遊びでこれを作っていたのね。個の英雄を、組織という機械が粉砕するシステムを」
「……英雄など、不確定要素に過ぎない」
アルトリアスは、返り血一つ浴びていない黒い外套を翻し、彼女の横に立った。
「私が求めているのは、誰が振るっても同じ結果を出す、確実な勝利だ。お前が私の『変数』として機能したことで、その精度はさらに上がった」
「信頼している、とは死んでも言わないのね、アンタは」
フェリシテは苦笑し、彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「でも、わかったわ。アンタの脳内にあるその残酷なまでの合理性、私が世界に正しく伝えてあげる。……あのお義母様や、古臭い重臣たちには、これが『恐怖』にしか見えないでしょうけれど」
捕縛された私兵たちの戦後処理を守役バドに任せ、二人は領地の境界にある断崖へと向かった。
そこは、フェリデ公領の最南端。切り立った崖の下には、夜の帳に包まれた深い森が、暗い海のように広がっている。
「……アンタ、あそこで私が来なかったらどうするつもりだったの? 私のプロデュースを台無しにする気?」
フェリシテが、勝ち気な瞳で彼を射抜く。
「……お前が来ることは、既知の事実だった」
アルトリアスは海を見据えたまま、平然と応えた。
「私の計画には、お前の『執着』が含まれている。お前は私の描く地図を汚させないために、必ず現れる。……そうだろう?」
「……不遜ね。アンタを助けたのは、あくまで私の『投資』を守るためよ。勘違いしないで」
フェリシテは顔を背けた。
言葉の裏にある「信じている」という響きを、彼女はあえて冷たい言葉で上書きする。二人の間には、甘い感情を介在させる余地などない。ただ、互いの魂が同じ目的地を見ているという、強固な事実だけがあった。
「……海。……水平線。……お前が、言った通りだ」
アルトリアスが、珍しく熱を帯びた声で言葉を継ぐ。
「この国は、狭すぎる。伝統という名の壁。血筋という名の柵。それらをすべて取り払い、物理的な『海』へ、そして世界へ繋げる。それが私の、父との約束だ」
「海……。アンタの脳内にあるその蒼を、現実にしてみせるわ。私がアンタの隣にいる限りね」
フェリシテは、崖から身を乗り出すようにして、まだ見ぬ南方を見つめた。 そこには、自分たちを抹殺しようとする旧き権威の残党と、それらを操るさらなる巨大な影が潜んでいる。
夜の冷気が、フェリシテの薄い戦闘服を通り抜けた。彼女が微かに肩を震わせた瞬間。 アルトリアスが、無言で自分の重厚な黒いマントを脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「……っ」
不意の重みと、そこに残る彼の体温。 マントを整えるアルトリアスの指先が、フェリシテの鎖骨のあたりに微かに触れる。 フェリシテは息を止め、アルトリアスもまた、その手を止めた。
「……体温の維持は、思考力を守るために不可欠だ」
「……ええ、合理的ね。感謝するわ」
互いに視線を合わせることはなかった。
「好きだ」とも「愛している」とも言わない。その言葉を口にした瞬間に、この張り詰めた、美しくも鋭利な共犯関係が、平凡な色恋に成り下がってしまうことを二人は本能で理解していた。
マントを通じて伝わる熱。それが、彼らが許した唯一の「肯定」だった。
その沈黙を破り、背後からバドの重々しい足音が近づいてきた。
「若殿、急報にございます。城に……『彼ら』が本日到着いたします」
アルトリアスの瞳が、瞬時に覇王のそれに切り替わる。
「……ソル・ガルドか」
「はい。バルカスの背後で糸を引いていた、隣国の大公領からの使者です。公爵夫人が彼らを、正式な『調停役』として招き入れたようです」
フェリシテは、アルトリアスのマントの襟をギュッと握りしめ、不敵に微笑んだ。
「お義母様も、いよいよ他国の力にまで縋り始めたわね。いいわ、アルト。その厚かましい使者たちの目の前で、この国が誰のものか、はっきり分からせてやりましょう」
「……ああ。……潰すだけだ」
アルトリアスは一歩を踏み出し、城へと続く道を指し示した。 共犯者の夜は終わり、いよいよ大陸の列強を巻き込んだ、本格的な戦記の幕が開こうとしていた。




