第4話:月下の毒婦、あるいは恋する乙女?
深夜。バルカスから奪取した証拠を検分し終え、アルトリアスは「少し、風に当たってくる」と言い残して部屋を出た。向かった先は城外の演習場だろう。彼は考えが行き詰まると、泥にまみれて兵の配置を練り直す悪癖がある。
主人のいなくなった私室で、フェリシテは重い公妃のドレスを脱ぎ捨て、薄絹の寝衣に身を包んでいた。
「お嬢様、お疲れでございます。今夜は特製のローズヒップティーを淹れましたわ」
乳母のマルタが、使い慣れた手つきで茶を注ぐ。立ち上る湯気と共に、華やかな香りが部屋を満たした。
護衛として壁際に佇んでいたシオンも、マルタの強引な手招きによって、渋々ながら円卓の端に腰を下ろしている。
「ふぅ……。ようやく一息つけるわ」
フェリシテはソファに深く沈み込み、行儀悪く足を組んだ。ガレリアの「刺客」としての緊張感から解き放たれ、今はただの二十歳の娘に戻っている。
「それにしても、バルカス様のあの狼狽えよう。明日には、アルトリアス様の剣が奴の喉元に届くでしょうね。お嬢様の『翻訳』のおかげで、家臣たちもようやくあの方の言葉の重さに気づき始めましたわ」
マルタがニヤニヤと意味深な笑みを浮かべながら、フェリシテの顔を覗き込む。
「何よ、マルタ。その顔は」
「いえ、お嬢様があまりに楽しそうで。ガレリアの要塞にいた頃は、あんなに生き生きと毒を撒き散ら……失礼、知略を巡らせることはございませんでしたもの。あの『愚者』殿、なかなかどうして、お嬢様の心に深く入り込んでいらっしゃるようで」
「入り込んでなんていないわよ。あいつは私の……そう、最高に使い勝手のいい『駒』なの。放置しておけば勝手に自壊するような不器用な駒。私がいないと世界と対話もできないなんて、放っておけるわけないじゃない」
フェリシテは茶杯に視線を落とし、早口でまくし立てた。だが、その頬はローズヒップの赤色よりも濃く染まっている。
「あら、それを世間では『運命』とか『愛』とか呼ぶんですのよ。お嬢様、あの方が毒を中和するためにグラスを倒した時、その手を握られて……どう思われました?」
マルタの追撃に、フェリシテは言葉を詰まらせた。 あの時の、無骨で、熱くて、ひどく震えていた指先。 あいつは無表情を装っていたが、本当は彼女を死なせるかもしれない恐怖に、誰よりも怯えていたのだ。そのことが、後からじんわりと胸の奥を締め付けてくる。
「……手が、大きかったわ。不器用で、傷だらけで……。あんな無口な男のどこがいいのかしら」
「そこが宜しいのでしょう? 言葉にできない想いが、その手に詰まっている。あの方の瞳には、一切の嘘がございませんもの」
隅で黙っていたシオンが、ぽつりと呟いた。
「シオンまで……。アンタたち、あいつに買収されたの?」
「いいえ。ただ、我ら銀鱗衆も『影』ゆえ、光の純粋さには敏感なだけでございます」
シオンの真っ直ぐな言葉に、フェリシテは降参したようにふいっと顔を背けた。
「……もう、うるさいわね。あいつは覇王になる男よ。私がプロデュースして、世界で一番高い場所まで引きずり上げてやるんだから。恋だの愛だの、そんな安い言葉で片付けないで」
「はいはい、左様でございますね。お嬢様の『野心』という名の恋心、しかと見届けさせていただきますわ」
マルタの軽快な笑い声が、深夜の私室に響いた。
その穏やかな空気を切り裂いたのは、開け放たれた窓から飛び込んできた黒い影だった。
「報告ッ!」
カイである。その呼吸は乱れ、額には汗が滲んでいた。
「どうしたの、カイ。こんな時間に」
フェリシテの表情から「娘」の甘さが一瞬で消え、冷徹な「妃」のそれへと変貌した。
「バルカスの私兵部隊、約五十名が動きました! 城外の演習場へ向かっています。奴ら、証拠を突きつけられる前にアルトリアス様を『事故』に見せかけて始末するつもだ!」
「事故?」
「演習中の暴発、あるいは落馬を装って圧殺する計画です。今、演習場にいるのはアルトリアス様と、数名の若手騎士だけ。バド様の主力はまだ城下です!」
フェリシテは立ち上がり、テーブルの上に置かれたハーブティーの杯を、音を立てて置いた。
「……せっかくいい気分で、美味しいお茶を飲んでいたのに。私の大切な、世界にたった一つの『駒』に触れようとするなんて」
彼女の魔力が膨れ上がり、寝衣の裾が風もないのに波打つ。
「お嬢様、お召し替えを!」
「そんな暇はないわ。マルタ、シオン。戦装束を持ってきなさい。このまま行くわよ」
フェリシテは寝衣の上に深紅の戦闘用外套を羽織ると、銀鱗衆の短剣を腰に差し込んだ。
「バルカス、覚悟なさい。毒蛇の眠りを妨げた代償は、高くつくわよ」
城外、月明かりに照らされた演習場。
「……十一人。……配置、五歩前」
アルトリアスは、迫りくる「死の気配」を概念視で捉えながら、冷静にレオたちに指示を出していた。彼の視界では、暗闇に紛れて接近するバルカスの私兵たちの魔力反応が、赤黒いノイズとして浮かび上がっている。
「若殿! 敵の数、想定を上回っています! これでは……!」
レオが剣を抜き、震える声で叫ぶ。
「……黙れ。……止まるな。……三、二、一」
アルトリアスが指先を振り下ろそうとした、その時。
「――そこまでよ、下衆共!」
夜の帳を切り裂くような、鋭く、そして凛とした声が響き渡った。 演習場の入り口、丘の上に立つのは、月光を背負った深紅の妃。 その指先からは、無数の銀の糸が、獲物を狙う蜘蛛の網のように広がっていた。
「私のマイ・ロードに指一本でも触れたら……アンタたちの血で、この演習場を真っ赤に染め上げてあげるわ」
アルトリアスは、その声を聞いて、微かに口角を上げた。
「……遅いぞ。……フェリ」
「黙ってなさい、アンタは! 後でたっぷり説教してあげるから!」
二人の「共犯者」が戦場に揃った。 それは、フェリデ公領を支配する旧き秩序が、音を立てて崩壊し始める、最初の夜の始まりだった。




