第2話:毒酒の儀
婚礼の夜、嵐のような静寂が寝室を支配していた。床に転がった銀の短刀が、月光を浴びて冷たく光っている。 フェリシテの指先は、まだアルトリアスの胸元に触れていた。そこから伝わる鼓動は驚くほど静かで、力強い。
「……信じられない。アンタの頭の中、どうなっているのよ」
フェリシテは、吐息を漏らすように呟いた。彼女の「魂の翻訳」が捉えたのは、単なる野心ではなかった。それは、既存の国境、利権、そして「血筋」という名の呪縛をすべて焼き払い、その灰の上に構築される全く新しい世界の青写真だった。
「驚いたか。私の視界には、常に数手先の未来が数式のように流れている。他人の言葉は、その流れを堰き止める淀みのように遅すぎて、付き合っていられなかっただけだ」
アルトリアスが、それまでの沈黙を嘘のように、淀みない口調で応えた。フェリシテは目を丸くする。
「あら、普通に喋れるじゃない。あんなに頑なに黙っていたから、てっきり口の利き方も知らない愚者かと思っていたわ」
「普通の相手なら、これで十分だ」
アルトリアスは短く断じると、不敵に口角を上げた。
「だが、お前は私の脳内にある『未完成の地図』に触れた。私の思考速度に追いつき、その意味を解釈できる人間に出会ったのは……生まれて初めてだ」
「光栄ね。アンタの高すぎる山頂に、ようやく客人が届いたってわけかしら」
フェリシテは、彼を突き放すように、しかし慈しむように微笑んだ。
「いいわ。アンタが見ているその『海』、私にも見せてちょうだい。その代わり、世界にアンタの声を届けるための『舌』は、私が引き受ける。――私たちは今日から、世界を騙す共犯者よ」
夜明け前、フェリシテは控室にいた従者シオンと乳母マルタを呼び寄せた。
「シオン、マルタ。暗殺の計画は破棄します。私は、この男に賭けることに決めたわ」
二人が息を呑む。
「姫様、正気ですか? あの男は『愚者』と……」
「世間が勝手にそう呼んでいるだけよ。あの人はあまりに巨大な真実を視すぎて、凡人と話すのをやめただけ。あの方は、いずれこの大陸の常識を塗り替える『覇王』になる。だから――」
フェリシテは深紅の唇を吊り上げ、不敵に笑った。
「私はあの方を支え、導き、そしてこの腐りきったフェリデを、あの方にふさわしい器に作り変える。ガレリアの影、銀鱗衆としての力、これからはアルトリアスのために使いなさい」
翌朝、母イザベラが主催する、新婦歓迎の朝食会が開かれた。 重厚なテーブルを囲むのは、イザベラ、アルトリアス、フェリシテ、そして青ざめた顔の弟ジュリアンだ。
「昨夜はよく眠れましたか、フェリシテ? 北の毒蛇王の愛娘を、この古臭い城でもてなすのは骨が折れますけれど」
イザベラが、優雅にナプキンを広げながら棘のある言葉を放つ。 アルトリアスは無言でスープを口に運んでいる。その様子は、毒蛇の娘に完全に骨抜きにされた、操り人形の夫にしか見えないだろう。
「ええ、お義母様。旦那様がとても『情熱的』な方でしたので」
フェリシテは、アルトリアスの腕にしなだれかかりながら艶やかに微笑んだ。
(……アルト、視える? 給仕の指、震えてるわよ)
フェリシテは魔法の糸を介して、アルトリアスの精神に直接語りかけた。
(ああ、わかっている。グラスの影に隠された魔力反応……。母上は焦っているな。北の毒草に干渉する遅効性の猛毒だ)
アルトリアスの脳内では、すでに解決策が数通り編み出されていた。
「最後の一仕上げに、これを受け取ってちょうだい」 イザベラの合図で、金細工の施されたグラスに、深紅のワインが注がれた。
「……っ」 アルトリアスはわざとらしく、自分のグラスを肘で薙いだ。 ガチャン、という派手な音と共に、無毒のワインがテーブルに広がり、フェリシテのドレスの裾を汚す。
「あら、旦那様! なんて不器用な……」
フェリシテが困惑したフリをして立ち上がる。その瞬間、アルトリアスは彼女のグラスの中に、倒れたワインの飛沫を執拗なまでに混入させた。 無毒の成分が、毒の分子構造に干渉し、その性質を一変させる。
(……今だ。お前の糸で結晶化した毒を底に沈めろ)
(合点承知。……愛の証にしては、少し刺激が強すぎるわね)
フェリシテは、毒が完全に無力化されたワインを、一気に飲み干した。 イザベラが、思わず身を乗り出す。即死はせずとも、喉を焼く劇痛が走るはずの量だ。 しかし、フェリシテは何事もなかったかのように、頬を朱に染めて微笑んだ。
「素晴らしい芳醇。お義母様、こんなに歓迎していただけるなんて、私、この家に来て本当に良かったですわ」
イザベラの顔から、血の気が引いていく。 何が起きたのか分からない。だが、目の前の二人の間に流れる、密やかで濃密な空気。それは、自分の支配が及ばない、異質な「共犯」の気配だった。
「……兄上、大丈夫ですか?」
ジュリアンが震える声で尋ねる。 アルトリアスは、倒れたグラスをレオに片付けさせながら、フェリシテの腰を力強く抱き寄せた。
「……少し酔ったようだ。フェリ、部屋で休む。……来い」
公の場では、依然として短い言葉。だがフェリシテを呼ぶ声には、誰にも踏み込ませない独占欲が混じっていた。
自室に戻り、防音の結界が張られるやいなや、アルトリアスは大きく息を吐いた。
「……やれやれ、退屈な小細工だ。あんな安物の毒を判別するのに、私の脳の資源を数パーセントも割かされるとは」
「あら、不遜ね。でも、あのドレスは新作だったのよ? 弁償してもらうわよ、マイ・ロード」
「フン。海を獲れば、大陸中の絹を手に入れさせてやる。今はそれで我慢しろ」
二人は不敵な笑みを共有した。
イザベラの権威を根底から突き崩す、最初の「一手」が、この不気味な祝杯と共に放たれたのである。




