第14話:二重の嘘
砕け散ったグラスの破片が、月光を浴びて無慈悲に輝いている。 倒れ伏したアルトリアスの傍らで、フェリシテは喉を震わせ、慟哭の声を上げた。
「……アルト……! 起きて……嘘でしょう、アルト!」
その悲鳴を聞き届けたかのように、テラスの扉が静かに開いた。現れたのは、勝利の美酒をすでに味わっているかのような、艶やかな笑みを湛えた母イザベラだ。
「……よくやったわ、フェリシテ。ガレリアの毒蛇が、ようやくその牙を正しく使ったわね」
イザベラは倒れた実の息子を見下ろし、慈しむようにその頬を撫でた。だが、その瞳には一滴の涙もなく、あるのは「目障りな鏡」を叩き割った清々しい解放感だけだった。
「お義母様……、約束よ、マルタを……マルタを返して……」
フェリシテは、涙で顔を濡らしながらイザベラのドレスの裾に縋り付いた。 その姿は、かつて老臣たちを恫喝した「魔王の妃」の面影など微塵もない、ただの脆い女そのものだった。
「ええ、返してあげるわ。……ただし、地下牢でね」
イザベラは冷酷にフェリデの衛兵たちを招き入れた。
「この女を連れて行きなさい。夫である公爵を毒殺した反逆者として、明日の晩餐会で裁きにかける。……ジュリアン、行きましょう。新しい公爵の誕生よ」
影に控えていたジュリアンは、青ざめた顔で兄の「遺体」を見つめ、何かに怯えるように母の後に続いた。
地下牢。
湿った石壁に囲まれた独房で、フェリテは床に座り込んでいた。衛兵たちの足音が遠のき、完全な静寂が訪れた瞬間。
「……ふぅ。……少し、泣きすぎたかしら」
彼女の瞳から、瞬時に感情の色が消えた。 震えていた指先は、今は冷徹に牢の鍵の構造を探っている。
彼女は隠し持っていた細い銀の針を鍵穴に差し込みながら、アルトリアスと交わした最後の「計算」を反芻した。
(アルト、アンタの計算通りよ)
あの毒は、フェリシテがガレリアから持ち込んだ「仮死薬」と、アルトリアスが自らの概念視で解析し、心拍を極限まで抑えるよう調整した魔導具の合わせ技だ。外見上は完全に心停止しているが、体内では微弱な魔力が生命活動を「保存」している。
「鏡を割ったつもりが、自分を映す暗黒に閉じ込められたことに……早く気づくといいわ、お義母様」
カチリ、と音がして、牢の扉が開いた。
一方、アルトリアスの遺体が安置された礼拝堂。 そこには、大声を上げて泣き崩れるバド・バルカスの姿があった。
「ああ……なんということだ! 閣下……まだお若いというのに、このような無念な……!」
バドの号泣は、城内に「アルトリアスの死」を確信させるに十分な説得力を持っていた。イザベラが差し向けた検死官たちも、バドのあまりの剣幕と、彼が放つ圧倒的な殺気に気圧され、ろくに遺体に触れることもできずに退出していった。
「私が……、このバドが閣下の最期をお守りする! 誰も……誰もこの部屋に近づけるな!」
バドはそう叫んで礼拝堂の扉を閉ざし、内側から鍵をかけた。 沈黙が訪れる。 バドは床に膝をつき、祭壇に横たわるアルトリアスの冷たい手を取った。
(……閣下。貴方の仰った通りにいたしました。ですが……)
バドの胸には、このまま本当に主君が目覚めなかったらという、本物の恐怖が渦巻いていた。彼はアルトリアスの耳元で、祈るように囁いた。
「……起きてください、閣下。……でないと、この老いぼれが本当に泣き死んでしまいますぞ」
深夜、城の排水路。 泥にまみれながらも、二つの影が合流した。 シオンとレオ。 数日前まで殺し合わんばかりだった二人は、今は一言も交わさず、同じ方向を見据えていた。
「姫様は?」 シオンが短く問う。
「地下牢を出て、今頃は母上の私室へ向かっている。……マルタ殿の居場所は突き止めた」
レオが、魔導銃のボルトを引き、弾丸を装填した。
「……シオン。……主君たちが命を賭けて作ったこの『三時間』。一秒でも無駄にすれば、俺が貴様を殺す」
「言われるまでもないわ、小僧」
シオンの銀の髪が、闇の中で鋭く閃いた。
「マルタ様を救い出し、閣下を蘇生させる。……その後は、盛大な『復讐の晩餐』か」
二人の部下は、互いへの不信感を「共犯」という名の使命で塗りつぶし、闇へと消えていった。
礼拝堂の窓から、夜明け前の最も深い闇が差し込んでいた。 祭壇の上のアルトリアス。その肌は石像のように白く、冷たい。
礼拝堂の影からフェリシテが現れた。彼女はボロボロの服を脱ぎ捨て、隠してあった深紅の戦闘服を羽織る。
「……三時間。……計算通りね」
フェリシテはアルトリアスの胸元に手を置き、自らの魔力を流し込んだ。
「……起きなさい。……アンタの視る未来には、まだ続きがあるのでしょう?」
フェリシテの魔力が、アルトリアス体内の封印された数式に触れる。 その瞬間。
「……コフッ」
アルトリアスの喉が、小さく鳴った。 微かに。 しかし、確かに。 冷たく凍りついていた彼の指先が、フェリシテの手の甲をなぞるように動いた。
ゆっくりと開かれた瞳。 そこには、死の淵を覗いてきた者だけが持つ、深淵のような冷徹な光が宿っていた。
「……おはよう。……フェリ。……母上の、顔は?」
「最高に醜く、歪んでいたわ。……見ものだったわよ」
フェリシテは、彼が目覚めた瞬間の喜びを「毒蛇の笑み」で隠し、彼に手を貸した。
「さあ、始めましょう。……偽りの祝杯を上げる者たちに、真実という名の地獄を見せてあげるのよ」
逆転の舞台は整った。




