第13話:イザベラの毒牙
城下の喧騒が嘘のように、深夜のフェリデ城は冷え切った静寂に包まれていた。
フェリシテは、母イザベラの私室へと続く長い回廊を一人歩いていた。その手には、届けられたばかりのブローチが握りしめられている。
「……お入りなさい、フェリシテ」
扉の向こうから、蛇が絡みつくような声が響いた。
部屋の中は、無数のキャンドルが揺らめき、異様な熱気に満ちていた。その中央、鎖で椅子に拘束されていたのは、乳母のマルタだった。彼女の頬には、抵抗した際についたと思われる鋭い切り傷が赤く浮き出ている。
「マルタ……!」
「来てはダメです、姫様……! この方は、正気じゃない!」
猿ぐつわを外されたマルタが叫ぶが、即座に背後の兵に制された。
イザベラは鏡の前で自分の髪を梳かしながら、鏡越しにフェリシテを見た。
「正気ではない? 無礼ね。私はいたって冷静よ。……ねえ、フェリシテ。あの子……アルトリアスの瞳を見たことがあるかしら?」
イザベラが立ち上がり、テーブルの上に置かれた琥珀色の毒瓶を指し示した。かつて先代公爵を葬った、あの呪われた猛毒だ。
「あの子は赤ん坊の頃から、私を愛さなかった。あの子の瞳は、母親である私の美しさを賞賛する代わりに、私の心の中にある卑しさや虚栄を、ただ無機質に解析していた。あの子は息子ではないわ。私の醜さを映し出し、暴き立てる『鏡』なのよ。……ダメな鏡は、叩き割らなければならないわ」
イザベラは毒瓶を取り、フェリシテの手に無理やり握らせた。
「三日以内に、あの子の食事にこれを混ぜなさい。……そうすれば、この生意気な乳母はガレリアへ返してあげる。……失敗すれば、この女の首をあの子への『贈り物』にしてあげるわ」
自室に戻ったフェリシテを待っていたのは、張り詰めた殺気だった。 毒瓶を見たシオンが、銀の髪を逆立てて短剣を抜いた。
「姫様、マルタ様を救うためなら……私は今ここで、アルトリアス閣下の首を獲りに行きます。あの男が死ねば、イザベラ様は満足するはずだ」
「待て」 暗がりから、魔導銃を構えたレオが現れた。
「……一歩でも閣下の寝室に近づいてみろ。お前の眉間に風穴を開けてやる、ガレリアの刺客め」
「どきなさい。マルタ様は、私にとっては姉も同然。あの男一人と引き換えにするには、あまりに惜しい命よ」
主君二人が築き上げた「共犯関係」など、部下たちにとっては薄氷のようなものに過ぎない。
ガレリアとフェリデの間に横たわる不信感が、最悪の形で火を吹こうとしていた。
「二人とも、やめなさい……!」
フェリシテの叫びが響く。だが、その声は葛藤に震えていた。
マルタは自分を育ててくれた唯一の家族。だが、アルトリアスは!!
政略結婚という冷たい契約から始まったはずのその男は、今や自分の魂の欠落を埋める、かけがえのない半身となっていた。
「騒がしいな。……レオ。銃を下ろせ」
廊下の奥から、アルトリアスが静かに姿を現した。
彼は抜剣寸前のシオンとレオを無視し、真っ直ぐにフェリシテの前に立った。
フェリシテは、隠そうともせず毒瓶を彼に見せた。
「……母上だな。……マルタを人質に、私を殺せと?」
「ええ。お義母さまは本当にいい性格をしているわ」
フェリシテは毒瓶を握りしめ、アルトリアスの胸元に額を預けた。
「アンタを殺せば、マルタは助かる。アンタを助ければ、マルタは死ぬ。……アルト。アンタの得意な数式で、答えを出してよ」
アルトリアスは、フェリシテの肩を力強く抱き寄せた。その手の熱が、彼女の震えを静めていく。
「答えは、一つだ。……母上は、私が死んだという『結果』だけを求めている。ならば、その結果を、与えてやればいい」
フェリシテは、アルトリアスの静かな瞳の中に、絶大な信頼を見出した。
「……そう。アンタ、自分の命を賭けて、お義母様を完全に『詰ませる』つもりね?」
「ああ。お前の、翻訳が必要だ。フェリ」
決行の夜。
城のテラスには、バドとマルタがかつて画策したような、穏やかな晩餐が用意されていた。
イザベラの放った密偵たちが、物陰からじっとその様子を監視している。
「……月が、綺麗ね。……マイ・ロード」
フェリシテは、いつになく艶やかな声で語りかけた。その指先は微かに震え、アルトリアスのワイングラスに琥珀色の液体を滴らせる。
「……ああ。……海も、これくらい静かだろうか」
「きっとそうよ。……アンタと行く海は、きっと、誰にも邪魔されない場所だわ」
二人は、政略結婚という言葉を盾に、本当の感情を覆い隠してきた。 だが、死を演じるこの直前、交わされる言葉の断片には、本物の熱がこもっていた。
アルトリアスは、フェリシテが差し出したグラスを手に取った。 彼は彼女の瞳をじっと見つめ、迷うことなくその液体を口に運んだ。
「……フェリ。……次は、海で」
数秒後。 ガシャン、という音と共にワイングラスが床で砕け散った。 アルトリアスの顔色がみるみるうちに土気色へと変わり、彼は椅子から崩れ落ちる。
「アルト……!? アルトーーーッ!!」
フェリシテの、魂を切り裂くような悲鳴が夜の城に響き渡った。
密偵から報告を受けたイザベラは、狂喜に肩を震わせ、唇を歪めた。
「……勝った。……鏡は、割れたわ……!」
暗闇の中、アルトリアスの鼓動が停止する。 だが、その指先は、倒れ際、フェリシテの手のひらに「ある合図」を刻んでいた。




