“無事です”の一言
「帰るとき……海斗くん、玄関まででいい」
「うん」
俺は玄関の方を一瞬見て、すぐ視線を戻す。それは、さくらの中の怖さの形なんだと思った。俺の部屋から出ることじゃなくて、“見られる”とかそういうやつ。
俺はさくらの気持ちを大事にしたくて、変に肯定もしないで、ただ頷いた。
「でも……もし、外にママが居たら」
さくらがペン先で、メモの端を指す。
「うん」
さくらは一拍、迷ってから書いた。
『海斗くんは出ない』
俺はそれを見て、胸の奥がきゅっと縮んだ。嬉しいじゃなくて、痛いほう。
俺はその下に、少しだけ足す。
『でも近くにいる』
さくらが、初めて小さく頷いた。
「……メッセ、どうするの?」
「うん」
さくらの声は小さい。
俺はノートの余白に、先に四つだけ書いた。箇条書きみたいに、短く。
『①心配かけた、ごめん』
『②いま落ち着いてる』
『③これから帰る(時間)』
『④着いたら話す』
書いてから、ペン先を浮かせたまま止まる。これ以上は、勝手に決める感じになる。
「この四つ。……どれが一番言いにくい?」
「……③と、②」
さくらが言って、すぐ自分で眉を寄せた。
「②は、嘘っぽいよね……少し」
「うん。だから、言い方を変えてみよう。……“落ち着いた”じゃなくて、“大丈夫”とか、“安全”とか」
さくらはノートを見たまま、口の中で何かを並べ直してるみたいだった。ペンを握った手が、ちょっとだけ震えてる。
「でも……“今どこ”って絶対来るよね」
「来ると思う」
俺が言った瞬間、さくらの目が上がって、すぐ落ちた。
「……じゃあ、どう言うの?」
「場所は書かない。……書かないで、帰るって言う」
さくらが口を開きかけて、閉じた。飲み込んだのが見えた。
俺はペンを持ち替えて、③の横に小さく足した。
『③これから帰る(○時くらい)』
「時間は入れた方がマシ。……“いつ帰る”が無いとずっと心配する」
「……帰ったら、怒られる」
「うん。怒られると思う」
それを言ってから、俺は自分の言い方が雑だったと気づいた。
これじゃ慰めにもなってない。
だから、言い直す代わりに、ノートの一番上にもう一行だけ書いた。
『送るのは、短く』
「長いと、言い訳っぽくなる」
「……うん」
さくらが頷いた。頷いたのに、指が止まらない。ペンが紙の上を、触れないまま漂ってる。
「……書いてみる」
さくらがそう言って、自分のスマホを取り出した。画面がついて、ロックを解く指が一瞬もたつく。
メッセージアプリを開いたところで、さくらが止まった。
「……怖い」
「じゃあ、まず下書きしよ。ノートに」
俺はノートに視線を戻した。
「……最初は……謝る」
「うん」
さくらが、ノートに書いた。
『心配かけてごめん』
その文字が出ただけで、肩が少し落ちた。さくらは自分の字を見て、唇を噛んだ。
「……次、②の“いま落ち着いてる”ことを伝える」
「“いま大丈夫”……と」
さくらが書きかけて、止めた。ペン先が浮いたまま、迷ってる。
「……大丈夫って――何が大丈夫なの?って言われそう」
「じゃあ……」
俺はノートの②の横に、小さく書き足した。
『② 無事です』
「これなら短い。で、すぐ③につなげる。……“これから帰る”」
「……無事」
さくらが小さく繰り返して、もう一回だけ頷いた。
「それなら……言える、かな」
さくらが小さく書いた。
『無事です』
字が薄い。力が入ってない。
「次は、帰る」
「うん」
『これから帰る』
そこまで書いて、さくらはペンを置いた。置いたのに、指が離れない。
「……時間」
「大体でいいから」
俺は壁の時計を見る。
さくらもつられるみたいに時計を見上げた。
「えっと……今、8時だから」
「……8時」
さくらがそう言って、ノートの③を指で押さえた。
「……今から出たら、8時半くらい?」
「……たぶん、それくらい」
「じゃあ、10時……かな。遅れる方がやばいし」
俺は③の横に小さく足した。
『10時くらい』
さくらが追記した。
『10時くらいに帰る』
「最後、“着いたら話す”」
「……“帰ったら話す”でいい?」
「うん」
さくらが書いた。
『帰ったら話す』
一息ついたみたいに見えた。見えたけど、まだ終わってない。
俺はノートの文を指で軽く叩いた。トン、と一回。
「これを、そのまま送る。……短いし、嘘は入ってない」
「……でも」
さくらが顔を上げた。目が潤んでる。泣く前のやつ。
「“どこにいたの”って来たら」
「……帰ったら、ちゃんと話す。そこは逃げれない。だから今は、“帰る”だけ先に送ろ。……帰ってからは、俺も一緒に考える」
さくらはしばらく黙った。唇が、また噛まれる。ほどかれる。噛まれる。
「……“友だちの家”って書けば、楽なのに」
「楽なのは分かる。でも、俺が何て呼ばれるかは置いといて……“友だちの家”って書いたら、あとでさくらが苦しくなる」
言ったあとで、俺は自分の声が強くなりかけたのを感じた。
さくらの目が揺れた。怒りじゃなくて、焦りの方。
でも、さくらは何も言わなかった。
ノートの文字をもう一回見て、息を吸って、吐いて。
それから、スマホを開いた。
画面に指が走る。打つのが早い。早いのに、途中で一回止まる。消して、また打つ。
最後に、さくらの親指が送信の上で止まって、もう一回だけ俺を見る。
「……これで、いい?」
「……うん。最後は、さくらが押して」
さくらは小さく頷いた。
送信ボタンの上で、親指が止まる。止まって、震えて、押し込まれる。
ピロン、と短い音。
送った。
その瞬間、さくらの肩がふっと下がった。崩れる前の、ぎりぎりのとこで持ち直したみたいに。
俺はペンを置きかけて、また握り直す。置いたら、ここで終わりみたいで。
「……帰ったら、聞かれるよね」
「うん。絶対。“どこにいたの”って」
さくらの声は小さいのに、はっきりしてた。さっきまでの“怖い”とは違う種類の固さ。
俺はノートの余白に、三つだけ書いた。囲った。
『①謝る』
『②これから帰る』
『③帰ったら話す』
「これ、もう送った。……だから、次はここ」
俺は『③』を指で叩いて、それから、空白を指さした。
「帰ってから、聞かれたときの返し。……一個だけ決めとこ」
さくらがノートを見る。見るけど、ペン先は動かない。
「……“どこにいたの”って言われたら」
「うん」
さくらが口を開きかけて、閉じた。飲み込むのが見えた。
「……言いたくない」
それだけ言って、さくらは視線を落とす。
机の木目を見てるのに、たぶん別のとこを見てる。
俺は息を吸って、吐いて、ノートに短く書いた。
『どこ:言い方』
「言いたくない、は分かる。……でも、聞かれたら、黙るのもしんどい」
「……うん」
「だから、嘘じゃなくて。言い方で、まず一回だけ止める」
さくらの眉が少し動く。納得じゃなくて、戸惑いのほう。
「言い方って……どうやるの」
「……たとえば」
俺はペン先で、空白に二つ、候補みたいに書いた。
『知り合いのところで休ませてもらった』
『落ち着くまで、少し居させてもらった』
書いてから、自分の字を見て、俺はちょっとだけ顔をしかめる。硬い。硬いけど、いまはそれでいい気もした。
さくらが、ゆっくり口を開く。
「……“知り合い”って言ったら、誰って聞かれる」
「聞かれる。……そこは、さくらが決めるしかない」
さくらの指先が、ノートの端を押した。押して、離して、また押す。
「……海斗くんって言うの、こわい」
「うん」
俺は否定しなかった。否定したら、軽くなる気がした。
「……でも、濁すのも、こわい」
さくらが続けて言う。声が少し弱くなる。
「なんか、変に見える」
俺は一拍だけ迷ってから、ノートの端に小さく足した。
『聞かれたら:名前は言う』
さくらの目が、その行で止まる。止まって、息を吐いた。
「……場所は?」
「場所は……家、って言うしかないと思う」
俺が言うと、さくらの肩が小さく跳ねた。
俺はすぐ言い直す。
「でも、“友だちの家”じゃなくて。……“知り合いの家”。それなら、嘘じゃない」
さくらの口元が、ほんの少しだけ歪む。笑いじゃない。嫌そうでもない。困ってる顔。
「……“知り合いの家”って言ったら、余計に突っ込まれる」
「突っ込まれる。……でも、突っ込まれたら、そこで初めて答える」
俺はノートに線を引いて、順番を短く書いた。
『謝る』
『帰ってきた』
『聞かれたら:知り合いの家』
『さらに聞かれたら:海斗くん』
さくらが、唇を噛んで、ほどいた。
それから、ペンを持ち上げて、俺の字の横に小さく書いた。
『いきなり全部言わない』
「うん」
俺は頷いて、さくらの字の下にもう一行だけ足す。
『でも、嘘は書かない』
さくらがノートを見たまま、短く息を吐いた。
「……これなら、いける?」
「いけるかどうかは……分かんない」
正直に言ったら、さくらが一瞬固まる。
俺はすぐ続けた。強くならないように、でも止まらないように。
「でも、“いま帰る”は送った。……帰ったら、ちゃんと話すって言った。……だから、ここから逃げるほうが、もっときつい」
さくらが小さく頷いた。
頷いた勢いで、涙が落ちることはない。でも、目の縁が危ない。
「……じゃあ」
やっと出た声は小さかった。
「……帰る」
その言葉が、ノートの上で一回、形になった気がした。
俺はペンケースを開けて、もう一本ペンを出した。
ノートの上に置く。今度は俺のほうにも一本。
それから、さくらがさっき書いた行の下に、二人で追記できる余白を残す。
「玄関で、また詰まったら。ここに足していい」
「……うん」
さくらがノートを両手で押さえた。大事なものっていうより、落としたら崩れそうなものを押さえるみたいに。
「帰るとき……海斗くん、玄関まででいい」
「うん」
「……もし、ママが居たら」
「うん」
俺はノートの下に短く書く。短くしないと、またズレる気がした。
『玄関:さくらだけ』
『俺:中(近く)』
ノートを見ていたさくらが、指先でその行をなぞって止まった。
「……でもさ」
「ん」
「ママが……“海斗くんと話したい”って言ったら……」
その言い方だけで、胃のあたりがひゅっと縮む。
俺は一回だけ息を吸って、ノートの下に短く書いた。
『連絡先:出す』
『話す:電話なら』
さくらが目を丸くする。
「……いいの?」
「うん」
言ってから、俺は自分の言い方が少し硬かったかなと思い、視線を落とした。
「番号、書くから。……必要になったら、さくらが見せて」
「……私が?」
「うん。……もし、“話したい”って言われたら、渡していい」
さくらが小さく頷いた。頷いたのに、まだ不安そうに眉が寄ってる。
「……怒られたら……」
「怒られる、と思う」
俺は正直に言って、続けた。
「でも、それを全部さくらに押しつけるのは嫌だ。……俺も一緒にいたから」
さくらの目が揺れて、泣きそうな顔になる。
俺は慌てて優しい言葉を足す代わりに、ノートの端にもう一行だけ書いた。
『困ったら:俺に連絡』
ペンを置いたあと、さくらのほうへもう一本転がす。
「……出る前に、これも足しとこ。さくらの言葉で」
さくらがその字を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
俺は最後に、さくらのほうへ破りやすいメモ帳を引き寄せた。
一枚、ビリッと破る。
音が思ったより大きい。
破いたメモを、さくらの前に滑らせる。ペンを二本並べて、一本を“さくら側”に寄せて置く。
さくらがそれを見て、ほんの一瞬だけ目を上げた。
「……出る前に、これも」
俺はそう言って、メモの一番上に小さく書いた。
『忘れたら:メモを見る』
さくらが、メモの下に小さく足した。
『ひとりにならない』
俺はそれを見て、胸の奥が熱くなった。




