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引っ越した先で高校生が家に逃げ込んできたけど、嘘はつけない  作者: 白川


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7/8

それはできない

 朝の光がカーテンの隙間から薄く差していた。部屋の空気は乾いていて、昨夜の湯気と紅茶の匂いだけが、まだ少し残ってる。

 テーブルの上には、飲みかけのマグカップ。充電中のスマホが黒い画面のまま置かれていた。

 椅子に掛けた薄い上着は、昨夜のまま、背もたれから少しずれた位置で止まっている。


 俺は台所で湯を沸かして、インスタントの味噌汁を二つ作った。具が少なくて申し訳ない気がして、乾燥わかめを少しと、冷蔵庫の端に残ってた豆腐をちぎって落とす。お椀の中が豪華になった気がした。


 背中側で、布が擦れる音がした。

 振り返ると、さくらがゆっくり起き上がって、髪を手で押さえていた。

 制服の襟元が少しゆるくて、スカートには座り皺が残っている。マフラーは椅子の背に掛かっていた。


「……おはよ」

「おはよ」


 言葉は出た。けど、続きが出ないまま、そこで止まる。

 俺は味噌汁と箸をテーブルに置いた。湯気が立って、匂いが少しだけ“朝”っぽくなる。


「飲める?」

「……うん」


 さくらは椅子に座るが、指先が落ち着かない。

 俺も向かいに座る。椅子がきしんだ。


「……昨日、ありがと」

「別に」


 味噌汁を一口飲んだ。熱さで舌先が軽く痺れて、目が覚める。

 さくらは飲まない。両手で椀を包んだまま、そこを見ている。


「……今日、どうする。……学校、今日はもう休みだよな。昨日で終業式終わったし」


 俺の言葉に、さくらは視線を上げない。


「……家、戻るの?」

「……」


 一瞬、さくらの口が開いた。出かけた言葉が引っ込むみたいに、唇だけが動く。


「昨日の続き、聞くよ。……話せる範囲で」

「うん」


 うなずくのは早いのに、その先が出てこない。


 さくらは椀をそっと置いて、テーブルの縁を指でなぞった。爪が軽く当たる音がする。


「……あのさ」

「ん」

「……ママに、言わなきゃじゃん」


 その一言で、現実が一段近づいた気がした。胃のあたりがきゅっと縮む。


「うん」

「で……」


 さくらはそこで止まった。息を吸って、吐いて、もう一回吸う。

 俺は黙ったまま、続きを待つ。


「……昨日、家に帰ってないってバレたら、絶対めんどい」

「……うん」

「だから……」


 さくらの手がテーブルを越えてきた。俺の袖を、指先で掴む。きゅっと。乱暴じゃないのに、逃げられない強さ。


「海斗くんが……言って」


 息が詰まった。何を、って聞く前に、口が勝手に動きそうになる。


「……言って、って?」

「昨日さ、私……」


 さくらは一瞬だけ目を逸らした。すぐ戻す。


「……“泊めた”とか、そういうのは……言わないで」

「……」


 事情より先に、俺を頼ってくるのが分かって――胸の奥が、少しだけ熱くなった。でも怖かった。


「ママに聞かれたら……駅前で会って、少し話して、帰したって」

「それだと……家に帰ってないの、どうするの?」

「……っ」


 さくらの指が袖を掴んだまま止まる。爪先だけが白い。


「……分かんない。でも、私が言うと……絶対、変なふうにされる」


 言い切ったあと、さくらは口元だけ笑おうとして、やめた。


「……昨日、家出たのは私だし」

「……」

「でも、私が言うと……たぶん、また」


 最後まで言わない。言わないまま、袖を掴む力がもう少しだけ増えた。


 俺は、さくらの手を見た。細い指が、俺の袖を掴んでいる。

 それから、自分の袖。布が少し引っ張られてる。

 俺は一回だけ瞬きをして、掴まれた袖を、乱暴じゃない力で“ほどいた”。指を一本ずつ外していくみたいに。手は離すが、背は向けない。

 さくらの手が宙に残って、すぐ膝の上に落ちた。


「……ごめん」

「謝らなくていい」


 言った声が、思ったより硬かった。

 さくらは俺を見た。見て、すぐ目を落とす。椅子の座面を指で押す。


「じゃあ、どうすればいいの」

「……分かんない」


 本当に分かんなかった。

 あるのは、嫌な想像ばっかりだった。

 さくらが小さく息を吸った。


「海斗くんが言ってくれたら、早いじゃん」

「……」

「ママ、そういうの信じるし」


“信じる”……か。良い方じゃないと思う。


「……さくら」

「なに」


 声が少しだけ尖ってしまう。

 俺はテーブルの上を見た。味噌汁の椀と箸。

 視線を上げると、さくらがこっちを見ていた。


「昨日のこと、さくらのママに聞かれたら……俺が説明する、っていうのは、できる」

「……うん」

「でも」


 一度、喉が詰まる。ここで止まったら、押し返される気がして、口を動かす。


「……嘘で丸めるのは、無理」


 さくらの眉がほんの少し動いた。


「え」

「たとえば、“会って少し話して帰した”って……それ、違うだろ」

「でも……」

「昨日、ここにいた。それは誤魔化せない」


 言ってから、俺は息を吸った。言い方が強かったのは分かる。


 さくらは口を閉じた。閉じたまま、顎に力が入る。椅子の脚が、床をわずかに鳴らした。


「……助けてくれるんじゃないの?」

「助ける、って……」

「だって、海斗くん、いつも」


 続きは言わない。言わないのに、胸が苦しい。

 俺は机の上の手のひらを握った。指先が冷たい。


「……できることはする」

「じゃあ」

「でも、嘘は……」


 さくらが急に立ち上がった。椅子が鳴る。椀の中の湯気が揺れた。


「……じゃあ、私、どうすんの」


 言い方が子どもっぽい。だけど、責めてるのか、震えてるのか、俺には判断がつかない。

 俺は立ち上がらなかった。立ち上がったら、近すぎる気がした。


「……一緒に考えよう」

「考えるって、今すぐ?」

「うん」

「じゃあ、さ」


 さくらは一歩だけ近づいて、また俺の袖を掴みかけた。途中で止まる。指が宙で迷って、手が下がる。

 その動きが見えて、胸が痛くなった。


「……電話、して」

「え」

「今、ここで。ママに。海斗くんから」


 さくらの声が、急に早くなる。音は小さいのに、目が、逃がしてくれない。


「……それは」


 喉の奥で言葉が止まった。

 言ってしまったら、戻れない気がした。

 でも、言わないと、さくらはもっと縮こまってしまう。


 俺は顔を上げて、さくらを見る。

 さくらもこっちを見ている。泣いてない……でも、目の奥がぎりぎりに見えた。


「……それはできない」――口に出した瞬間、空気が変わった。

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