それはできない
朝の光がカーテンの隙間から薄く差していた。部屋の空気は乾いていて、昨夜の湯気と紅茶の匂いだけが、まだ少し残ってる。
テーブルの上には、飲みかけのマグカップ。充電中のスマホが黒い画面のまま置かれていた。
椅子に掛けた薄い上着は、昨夜のまま、背もたれから少しずれた位置で止まっている。
俺は台所で湯を沸かして、インスタントの味噌汁を二つ作った。具が少なくて申し訳ない気がして、乾燥わかめを少しと、冷蔵庫の端に残ってた豆腐をちぎって落とす。お椀の中が豪華になった気がした。
背中側で、布が擦れる音がした。
振り返ると、さくらがゆっくり起き上がって、髪を手で押さえていた。
制服の襟元が少しゆるくて、スカートには座り皺が残っている。マフラーは椅子の背に掛かっていた。
「……おはよ」
「おはよ」
言葉は出た。けど、続きが出ないまま、そこで止まる。
俺は味噌汁と箸をテーブルに置いた。湯気が立って、匂いが少しだけ“朝”っぽくなる。
「飲める?」
「……うん」
さくらは椅子に座るが、指先が落ち着かない。
俺も向かいに座る。椅子がきしんだ。
「……昨日、ありがと」
「別に」
味噌汁を一口飲んだ。熱さで舌先が軽く痺れて、目が覚める。
さくらは飲まない。両手で椀を包んだまま、そこを見ている。
「……今日、どうする。……学校、今日はもう休みだよな。昨日で終業式終わったし」
俺の言葉に、さくらは視線を上げない。
「……家、戻るの?」
「……」
一瞬、さくらの口が開いた。出かけた言葉が引っ込むみたいに、唇だけが動く。
「昨日の続き、聞くよ。……話せる範囲で」
「うん」
うなずくのは早いのに、その先が出てこない。
さくらは椀をそっと置いて、テーブルの縁を指でなぞった。爪が軽く当たる音がする。
「……あのさ」
「ん」
「……ママに、言わなきゃじゃん」
その一言で、現実が一段近づいた気がした。胃のあたりがきゅっと縮む。
「うん」
「で……」
さくらはそこで止まった。息を吸って、吐いて、もう一回吸う。
俺は黙ったまま、続きを待つ。
「……昨日、家に帰ってないってバレたら、絶対めんどい」
「……うん」
「だから……」
さくらの手がテーブルを越えてきた。俺の袖を、指先で掴む。きゅっと。乱暴じゃないのに、逃げられない強さ。
「海斗くんが……言って」
息が詰まった。何を、って聞く前に、口が勝手に動きそうになる。
「……言って、って?」
「昨日さ、私……」
さくらは一瞬だけ目を逸らした。すぐ戻す。
「……“泊めた”とか、そういうのは……言わないで」
「……」
事情より先に、俺を頼ってくるのが分かって――胸の奥が、少しだけ熱くなった。でも怖かった。
「ママに聞かれたら……駅前で会って、少し話して、帰したって」
「それだと……家に帰ってないの、どうするの?」
「……っ」
さくらの指が袖を掴んだまま止まる。爪先だけが白い。
「……分かんない。でも、私が言うと……絶対、変なふうにされる」
言い切ったあと、さくらは口元だけ笑おうとして、やめた。
「……昨日、家出たのは私だし」
「……」
「でも、私が言うと……たぶん、また」
最後まで言わない。言わないまま、袖を掴む力がもう少しだけ増えた。
俺は、さくらの手を見た。細い指が、俺の袖を掴んでいる。
それから、自分の袖。布が少し引っ張られてる。
俺は一回だけ瞬きをして、掴まれた袖を、乱暴じゃない力で“ほどいた”。指を一本ずつ外していくみたいに。手は離すが、背は向けない。
さくらの手が宙に残って、すぐ膝の上に落ちた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
言った声が、思ったより硬かった。
さくらは俺を見た。見て、すぐ目を落とす。椅子の座面を指で押す。
「じゃあ、どうすればいいの」
「……分かんない」
本当に分かんなかった。
あるのは、嫌な想像ばっかりだった。
さくらが小さく息を吸った。
「海斗くんが言ってくれたら、早いじゃん」
「……」
「ママ、そういうの信じるし」
“信じる”……か。良い方じゃないと思う。
「……さくら」
「なに」
声が少しだけ尖ってしまう。
俺はテーブルの上を見た。味噌汁の椀と箸。
視線を上げると、さくらがこっちを見ていた。
「昨日のこと、さくらのママに聞かれたら……俺が説明する、っていうのは、できる」
「……うん」
「でも」
一度、喉が詰まる。ここで止まったら、押し返される気がして、口を動かす。
「……嘘で丸めるのは、無理」
さくらの眉がほんの少し動いた。
「え」
「たとえば、“会って少し話して帰した”って……それ、違うだろ」
「でも……」
「昨日、ここにいた。それは誤魔化せない」
言ってから、俺は息を吸った。言い方が強かったのは分かる。
さくらは口を閉じた。閉じたまま、顎に力が入る。椅子の脚が、床をわずかに鳴らした。
「……助けてくれるんじゃないの?」
「助ける、って……」
「だって、海斗くん、いつも」
続きは言わない。言わないのに、胸が苦しい。
俺は机の上の手のひらを握った。指先が冷たい。
「……できることはする」
「じゃあ」
「でも、嘘は……」
さくらが急に立ち上がった。椅子が鳴る。椀の中の湯気が揺れた。
「……じゃあ、私、どうすんの」
言い方が子どもっぽい。だけど、責めてるのか、震えてるのか、俺には判断がつかない。
俺は立ち上がらなかった。立ち上がったら、近すぎる気がした。
「……一緒に考えよう」
「考えるって、今すぐ?」
「うん」
「じゃあ、さ」
さくらは一歩だけ近づいて、また俺の袖を掴みかけた。途中で止まる。指が宙で迷って、手が下がる。
その動きが見えて、胸が痛くなった。
「……電話、して」
「え」
「今、ここで。ママに。海斗くんから」
さくらの声が、急に早くなる。音は小さいのに、目が、逃がしてくれない。
「……それは」
喉の奥で言葉が止まった。
言ってしまったら、戻れない気がした。
でも、言わないと、さくらはもっと縮こまってしまう。
俺は顔を上げて、さくらを見る。
さくらもこっちを見ている。泣いてない……でも、目の奥がぎりぎりに見えた。
「……それはできない」――口に出した瞬間、空気が変わった。




