チャイムのあとで
事情を聞く前に、俺は“助ける側”に座らされている気がした。
「……うん」
さくらから、その一言が落ちてから、部屋が静かになった。
俺はクローゼットから薄いひざ掛けを引っ張り出すと、さくらに渡して、ソファのほうへ手で示した。
さくらは「ありがとう」って言いながら腰掛ける。
しばらくして、さくらのスマホが小さく震えた。
画面が一瞬だけ光って、すぐ消える。
さくらは見ない。
俺はコップを持って立ち上がった。
台所へ行って棚からティーバッグの箱を開ける。どれがいいとか考える余裕もなくて、いちばん無難そうなやつを取った。
電気ケトルのスイッチを入れると「カチッ」という音がする。
沸くまでの数十秒が長い。
その間に、マグカップを二つ出す。片方は、さくらの前に置くやつだ。
湯気が立ったカップにティーバッグを沈めると、色がゆっくり広がっていく。紅茶の香りが、さっきまでの冷たい空気を少しだけ押し返した。
俺は言葉を探す代わりに、カップをソファ前のローテーブルまで運んだ。
コトン、と置く音がまた大きい。
「……熱いから気をつけて」
それだけ言って、台所に戻ると、自分の分をかき混ぜる。
「……ねえ」
呼ばれてさくらの方に顔を向けると、さくらはソファの端で膝を抱えていた。制服のスカートが少しだけ皺になっているが、気にしていないみたいだった。
「ママに……」
それだけ言うと、唇を噛んで、ほどいて、また噛む。
「……なんて言えばいい?」
その言い方が、今すぐ答えを出せって意味じゃないのは分かる。
俺は返事を急がなかった。急いで言葉を選ぶと、変な形になる気がした。
「……うん」
そう言いながら、自分のマグカップを持ってさくらの隣に座る。
さくらは湯気の立つマグカップを、膝のあたりに寄せる。両手で包んで、熱を確かめるみたいに指先を動かした。
「……今すぐ、返さなきゃいけない?」
「……わかんない。でも、たぶん……連絡来てる」
さくらのスマホが、ソファの横でじっとしている。画面は暗いまま。
さくらの袖口を見ると、握りしめたみたいに跡がついていて、指は白くなってる。
「……今日は、休も」
「え」
「ちゃんと考えるの……今は、無理じゃないかな」
言い切ったあとで、自分の声が少しだけ強かったことに気づいて、俺は視線を外した。誤魔化すように、テーブルの上のマグカップを触ると、カチャっと鳴った。
「連絡するなら……明日でいい。朝、起きてからで。……どう?」
そう言うと、さくらはゆっくり顔を上げた。
すぐに返事は出ない。喉の奥で何かを飲み込むみたいに、口が一度だけ動く。
「……うん。……明日」
その一言で、肩の位置がほんの少し下がった気がした。
俺は立って、押し入れを開ける。出てきた毛布を、ソファの背に掛けた。
「ここ、使って」
「……ありがとう」
さくらは毛布を引き寄せる。でも、まだちゃんと掛けない。指先で端をいじってる。
「スマホ、充電しとく?」
「……うん」
俺は延長コードを引っ張って、ローテーブルの横に置いた。
さくらのスマホは震えない。震えないのに、さくらの視線だけが一度そこに落ちる。
「……お風呂は」
俺が言いかけたら、さくらが先に首を振った。
「いい。今日は……無理」
「……じゃあ、顔だけでも洗う? タオルあるから、新品。」
言いながら、俺は洗面所のほうを指した。
さくらは小さく頷いて、ソファからゆっくり立ち上がる。
毛布を一回だけ握って、離して。
洗面所のほうへ案内する。
リビングに戻ると、洗面所からすぐ水の音がした。
蛇口をひねる音。紙を引き出す音。鼻をかむみたいな、短い音。
俺はその間に、ローテーブルの上を片づけた。
紅茶のカップを流しに運んで、スプーンを洗って、布巾で拭く。
手を動かしてないと、変に落ち着かない。
ドアが開く。
さくらが出てきた。頬が少しだけ赤い。
タオルを手に持ったまま、所在なさげに立っている。
「……ありがと」
「うん」
俺はそれだけ返して、タオルを受け取って、ハンガーに掛けた。
さくらはソファに戻って、毛布を肩まで引き上げる。今度はちゃんと掛けた。
「……海斗くん」
「ん」
「……ありがと」
俺は頷くだけにした。返事を足すと、変に重くなる気がしたから。
俺はローテーブルの端に置いてあったリモコンを二つ掴んだ。照明と、テレビ。
「これ、ここ置いとく」
さくらの視線が一度だけ動く。
「寝れなかったら……テレビつけて。音、気になるなら小さくして」
「……うん」
「俺、隣行くね、寝室。……さくらは、そのまま。ここ使って」
さくらは一瞬だけ口を開いた。でも、すぐ閉じて、毛布を胸のほうに寄せた。
小さく頷く。
「……うん」
俺は立ち上がって、隣の寝室の引き戸の前まで歩く。
取っ手に指をかけて、止まる。
振り返るのは一瞬だけにした。目を合わせたら、余計なものが増えそうだったから。
「おやすみ」
「……おやすみ」
引き戸を静かに閉める。
薄い板一枚なのに、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
寝室の暗さの中で、俺はベッドの端に腰を下ろす。
向こうの部屋は、まだ音がしない――と思った次の瞬間、かすかにテレビの音がした。
ニュースかバラエティか……内容の分からない声。
気をつけてるのが分かるくらい、音量は小さい。
俺は息を吐いた。
眠れるかどうか分からないまま、それでも目を閉じた。




