その日だけ、笑い声が来なかった
終業式の日の朝は、駅前の空気が少し軽い。
制服の群れが早い時間から流れて、明るい声や笑顔がやけに目についた。
俺は駅へ向かう道を歩きながら、何度も首ごと左右に振った。
角を曲がるたび、マフラーの色を探してしまう。
……いない。
一度、立ち止まりそうになって、歩き直す。
そのまま駅に着くと、改札口へ上がるエスカレーターに乗った。手すりが冷たくて、指が張りつく。
上り切って、人の背中の間から、ちらりとエスカレーターを見下ろした。いつもなら、改札で見送って別れるのに。今日は、その気配がない。
ポケットのスマホを見たが通知はない。時間だけが進んでいく。
「……来てない、か」
口に出してみても、落ち着かない。
春休み前で、予定がずれることなんていくらでもある。そういう理屈を並べても、胸の底のざわつきが消えなかった。
昼前、スマホが一度だけ光った。
短い通知。
『今朝、一緒に行けなくて、ごめん』
スタンプも絵文字もない。
俺は親指を止めたまま、画面を見ていた。
「了解」
送信してからすぐ後悔した。もう一言くらい足してもよかった気がしたのに、今さら追撃したら重い気もして、そっと画面を閉じた。
――午後。
今日はバイトだ。終業式上がりの時間で、店はいつもより埋まっている。
制服の客がドリンクバーへ何度も立って、氷の音が途切れない。
注文の声が重なって、厨房のベルが鳴って、洗い場のグラスだけが増えていく。
俺は皿を下げて、テーブルを拭いて、呼ばれたら返事をした。
身体は勝手に動くのに、頭のどこかはずっと駅に残っているみたいだった。
二十時前に上がって、店を出た。
外の空気が冷たくて、頬の熱が一気に引く。
ポケットが震えた……気がして。足を止めてスマホを出して画面を見る。
通知は何もない。着信もない。履歴も変わってない。
「……はぁ」
自分の息が白い。
帰り道は、街灯が点々と続いていた。駅前はまだ明るいけど、一本外れると急に暗くなる。俺はポケットのスマホを無意味に握ったまま歩いた。
鍵を回して、部屋に入る。静かすぎて耳が痛い。
電気をつけると、コートを椅子にかけて、台所の蛇口をひねる。水の音がやけに大きい。
コップに水を注いで一口飲んだ。冷たい。けれど、喉の奥は乾いたままだ。
そのとき、外で足音がした。
外廊下の向こうから、ドアの前で止まる音。
次の瞬間、チャイムが鳴った。
ピンポーン、って短い音が、やけに部屋に響く。
俺は息を止めて、覗き穴に目を当てた。
さくらがいた。マフラーを巻いて、肩から鞄の紐を掛けて、息が切れている。片手はその紐を握りつぶしていた。
俺はドアノブに手をかけて、開けた。
チェーンが小さく鳴って止まる。
細い隙間の向こうに、さくらがいた。
一瞬だけ、目が大きくなる。言葉が出ないみたいに口が開いて、すぐ閉じた。それだけだった。
声が震えてるかどうかは分からない。廊下の冷気が強くて、息が白いせいかもしれない。
「……ちょっと待って」
いったんドアを引いて、金具に指をかける。外す音が、やけに大きかった。
俺はドアの端を掴んで、もう少しだけ開けた。
言葉を探して、見つからないまま、手で中を示す。
「……中、入って」
それだけ言うと、さくらは小さく頷いた。
靴を揃える手つきが早い。マフラーは外さないまま、首元に残っている。手が忙しすぎて、そこまで回らないみたいだった。
俺は部屋に案内して、椅子を引く。
「……座って。水、いる?」
「……うん」
さくらは椅子の背を指で掴んでから、浅く腰を下ろした。
目が俺を見ない。床と鞄と自分の膝を行ったり来たりしてる。
俺は台所へ戻って、新品のコップを取り出し水を入れる。
「……ごめんなさい。急に」
さくらが小さく呟いた。声は掠れている。
俺は反射で「いい」と言いそうになって、喉の奥で止めた。
代わりにコップを置く音を立てて、コップをさくらの前に寄せた。
水を渡すと、さくらは両手で受け取って、一口飲んだ。
視線だけが、俺の顔に一瞬来て、すぐ下へ落ちる。
「どうしたの」
俺が言ったら、さくらは一回だけ首を振った。否定でも肯定でもない、変な動き。
「……海斗くんのとこ、来ちゃった」
“来ちゃった”って言い方が、軽いみたいで、全然軽くない。
さくらはコップを抱えたまま、息を吐いた。
白い息はもう出ないはずなのに、出そうな顔をしていた。
「……家、なんかあった?」
俺はそれだけ聞いた。
さくらは頷く。でも、すぐに首を振る。どっちなのか分からない動きだった。
「うち……その、ママと……」
言いかけて、止まる。
言葉の続きを待ったが、さくらはそこで止まった。
唇を噛んで、飲み込んで、また息を吐く。
「怒ったの?」
「……怒った。……うん、そう。私も、怒った」
さくらは笑わない。けど泣きもしない。泣いたら戻れなくなるみたいに、目だけを忙しく動かして、部屋の床を見ている。
さくらが小さく言った。
「……ここ、来るの、まずかった?」
俺はすぐ答えられなかった。
駅前のテラス席。
先輩の笑い声。
スマホの写真。
そういうのが、勝手に頭の端をかすめる。
でも、それより先に――さくらの肩が少しだけすぼんでいるのが目に入った。
俺は立って、近くの椅子に掛けてあった薄い上着を取る。迷って……半ば押し付けるような形でさくらの肩に掛けた。
「まずいとか、そういう話じゃなくて。……来てくれたのに、追い返せるかよ」
さくらの視線が、ほんの一瞬だけ上がる。すぐ落ちる。
でも、さっきより呼吸が浅くなくなった気がした。
俺は椅子を引いて対面に座った。
「いまは、落ち着け。……話すのは、そのあとでいいから」
声が優しいかどうかは分からない。
ただ、俺は深く椅子に座り直した。逃げ道みたいにドアのほうを見たりはしなかった。
さくらはコップを両手で包んだまま、一口だけ飲んで、また置いた。
置くときの指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「……今朝さ」
声が小さかった。
さくらは自分の膝に目を落として、言い直すみたいに息を吸う。
「一緒に行けなくて、ごめん。……朝、送ったやつ」
俺は「うん」とだけ返した。
あの短い文面が、今さら重さを増して戻ってくる。
さくらはコップの縁を指でなぞって、途中で止めた。
「終業式、だったじゃん。今日……帰り、ちょっとだけ友だちと話してて。遅くなって」
“ちょっとだけ”が、さくらの中で伸び縮みしてるみたいだった。
俺は黙って待った。
「そしたら、家で……ママに言われた」
さくらが顔を上げかけて、また下げる。
上着の端を、指でつまんで握り直した。
「……“また男の子といたんじゃないの”って」
俺の喉が、一回だけ鳴った。
何も言わないまま、コップの水を少しだけ前に寄せる。
さくらは、笑おうとした。
口元だけが動いて、すぐ止まる。
「違うって言っても、なんか……向こうはもう、そう決めつけてるっていうか」
そう言って、さくらは肩をすぼめた。
その動きだけで、こっちまで息が浅くなる。
「私も、言い返して。……で、止まんなくなって」
言葉が途切れた。
さくらは一回だけ瞬きをして、続ける。
「高校も……最近、しんどいし」
ぽつり、と。
それ以上、大げさな言い方はしない。ただ、声が少し掠れてた。
「朝起きるのも、駅まで歩くのも、教室の空気も。……全部、なんか、重い」
さくらはそこまで言って、コップを持ち上げた。
飲むふりをして、少しだけ口をつける。ほんとに一口。
「今日は、終業式だし。軽い日になるはずだったのに」
言ってから、さくらは唇を噛んだ。
噛んだまま、ほどけない。
「……ごめん。こんなこと言いに来たわけじゃなくて!」
さくらは首を振った。
その動きが速くて、逆に止まって見えた。
「……でも、どこにも行けなくて。家も、帰りたくなくて」
俺は返事を探して、見つからないまま背もたれに手を置いた。
さくらが、ようやく俺を見る。ほんの一瞬。すぐ外れる。
「……海斗くんなら、変なふうに言わないかなって」
それだけ言って、さくらは視線を落とした。
肩の上着を、ぎゅっと押さえる。
「……ここ、いていい?」
その声は、泣いていないのに泣きそうだった。
「いいよ」
それしか言えなかった。肩の力が少しだけ抜ける。
夜の冷気ごと、さくらが俺の生活圏に逃げ込んできた。




