私の選択は、私が守る
朝。
教室の空気は、何も変わっていないようで、少しだけざらついていた。
視線は直接向けられていないのに、囁きがどこかを経由して私に流れてきている。
(……終わらせよう)
私は席に鞄を置き、振り返る。
窓際の後ろから二番目。
スマホをいじっている浅野と、目が合った。
ほんの一瞬、彼の親指が止まる。
私は、迷いのない速度で近づいた。
「おはよう、浅野くん」
周囲の空気がわずかに固まる。
「……なに」
「ちょっと話せる?」
教室を出て廊下の端、自販機の前。
人の気配はあるけれど、会話は聞かれない距離だ。
浅野は壁にもたれ、腰に手を当てた。
「俺、忙しいんだけど?」
「噂のこと」
一瞬の沈黙。
「……知らないけど」
「“聞いた”んでしょ?」
「まぁ……みんな言ってるし?」
私はスマホを出した。
「バイトのこと。バイト先に直接確認したよ」
浅野の眉が動く。
「問題なんて起きてないって。むしろ助かってたって」
事実は、それで十分。
浅野は鼻で笑う。
「……確認までしたわけ?」
軽い笑いに、一瞬、空気が冷える。
「必死すぎだろ。そこまでしないと信じられない男ってことじゃん」
「大学生だろ? どうせ飽きたら捨てられるって」
意図的に汚した言い方に胸の奥が、ぐつぐつと熱を持つ。
「……それって、あなたの願望?」
浅野の表情が止まる。
「……は?」
「私が不幸になってほしい?」
浅野の目が私から逸れる。
「あなたは告白しなかった」
一歩だけ近づく。
「けど、彼はした」
「……それだけよ」
浅野の顔が赤くなる。
握った拳が震えて、今にも飛びかかってきそうだ。
「……調子乗るなよ!」
私は首を傾ける。
「噂、止めて」
「止めなかったら?」
私は淡々と言う。
「そのときは、あなたの名前を出す」
「私は逃げないわ」
浅野の視線が床に落ちる。
沈黙……やがて、小さく息を吐いた。
「分かったよ」
声は低い。
「俺が言ったって言う」
言い訳はない。
私は頷いた。
「ありがとう」
それだけ残して、背を向ける。
勝った感覚はない。
でも、奪われたものもない。
私の選択は、私が守ったのだ。
数日後。
噂は、急速に勢いを失った。
新しい話題が生まれれば、人はそちらへ流れる。
教室のざらつきは、いつの間にか消えていた。
母は何も聞かなかったし、私も何も言わなかった。
けれど、夕食のとんかつはいつもより柔らかい気がした。
日曜の午後。
デート帰り、駅前のベンチ。
海斗くんは、少し疲れた顔で笑う。
「バイト、受かった」
「おめでとう」
「忙しくなるかも」
「うん」
彼は私を見て、少しだけ真顔になる。
「……なんかあった?」
気づこうとしている顔だ。でも遅い。
「ちょっとだけ戦ってきた」
「え?」
本気で分かっていない顔。
「え、誰と? てか何で?」
思わず笑ってしまう。
「もう大丈夫」
「……俺のせい?」
「違うよ」
即答。
「私が選んだことだから」
「……ごめんな」
「俺、気づくの遅くて」
私は首を振る。
「いいの」
「え?」
「それでいいよ」
彼は少しだけ黙る。
夕方の光の中で、何かを考えている顔。
「……でもさ」
小さく続ける。
「次は、もうちょっと早く気づきたい」
私は、少しだけ目を丸くした。
彼は照れたように笑う。
「一緒に居たいから」
夕方の光が、二人の影を長く伸ばす。
私は静かに息を吸う。
誰に言われたからでもなく。
誰に認めて欲しいでもなく。
私は、選んでいる。
ただ、自分で。
春の風が吹く。
もう、簡単には揺れない。




