善意の毒
学校という場所は、情報の伝達速度において、インターネットにも劣らない速度を誇ることがある。
特にそれが、誰かの不幸や、スキャンダラスな「疑惑」であればなおさらだ。
教室に入ると、いつもよりざわついている気がした。クラス替え直後の落ち着かない空気とは、少し違う。
「おはよ、さくら」
ミキが手を振ってくる。
けれど、その笑顔はどこか探るようで、私は一瞬だけ立ち止まった。
「どうしたの?」
「ううん……なんでもない」
含みを持たせた言い方。それだけで、胸の奥が嫌な音を立てる。
席に着いて、カバンを机の横に掛ける。前の席の子が、ちらっとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
(……気のせい、だよね)
そう思おうとして、思いきれなかった。
私への視線、ひそひそとした声……昼休みになる頃には、確信に変わっていた。
お弁当を広げようとした私のところに、ミキとクラスの女子数人がやってきた。彼女たちの顔には、「心配」という名の、ひどく扱いにくい感情が張り付いていた。
「……どうしたの?」
「さくら、変なこと聞くけどさ」
「なに?」
一拍、間が空く。
「大学生の彼氏さんのこと、なんか言われてない?」
「脅されて付き合ってるとか」
「バイト先で問題起こして警察沙汰になったとか」
「怖かったら、距離置いたほうがいいって」
矢継ぎ早に質問されるが、驚きはなかった。
海斗くんが警察沙汰?彼が、そんなことをするはずがない。
ただ、胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚だけがあった。
一呼吸置いて、私は努めて冷静に、けれどはっきりと否定した。
「違うよ。そんなの、全部デタラメ。……それって、誰が言ってるの?」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「……誰だっけ?」
「……二組の男子?」
「名前は?」
「浅野くん……だったと思う」
浅野――その名前に、聞き覚えがあった。
近所にそんな苗字の男子が居たと思う。
通学路で、何度か視線を感じたことがあるが、話したことは、ほとんどない。
「さくら?」
ミキが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫」
「本当に?」
「ほんとほんと!全然、違うから」
「でも、浅野くんが自分の目で見たって言ってたよ……田辺さんの家の近くを毎朝うろついてる不審者だって。……怖かったら先生に相談しなよ?私たちがついてるから」
……ああ、気持ち悪い。彼女たちは本気で、私を「救おう」としているんだ。浅野が撒いた毒を、本物の薬だと信じ込んで、私の傷口に塗り込もうとしている。
毎朝うろついている?それは、海斗くんが私と一緒に歩いてくれている、あの愛おしい時間のことだ。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に違うから」
それ以上、言葉を重ねる気にはなれなかった。
私が何を感じているかよりも、「正しい行動」を教える方が大事みたいだった。
(そうじゃないのに)
心の中で何度も繰り返す。でも、口には出さなかった。
出したところで、伝わらない気がしたから……
結局、午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
ノートを取るふりをしながら、私は窓の外を見ると、春の空は、何も知らないみたいに青かった。
(海斗くんが、聞いたら……)
そこまで考えて、やめた。
ホームルームが終わり、帰宅しようとカバンを手に取ると、担任に呼び止められた。
「少し、時間あるか?」
職員室の隅へ案内されると、周囲の視線を気にしながら、私は椅子に座る。
「最近、変な話が出ていてな」
「……はい」
先生は、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「何か困っていることはないか?」
「ありません」
即答する。
「本当だな?」
「はい」
嘘ではない。ただ、全部を言っていないだけ。
先生は、しばらく私の顔を見てから、ため息をついた。
「……何かあれば、いつでも来なさい」
「ありがとうございます」
それ以上、踏み込んではこなかった。その「踏み込まなさ」が、少しだけ救いだった。
駅へ向かう途中、私にさらなる追い打ちがかかる。
母からの通知だ。
『さくら。今夜、話があります。早く帰ってきなさい。変な噂を聞きました。あの大学生のことです』
画面を叩きつけたい衝動を、かろうじて抑え込む。学校の中だけならまだしも、もう母の耳にまで届いているんだ。
誰が伝えたのかは、考えるまでもない。私の家の近所に住んでいて、海斗くんを目の敵にしている「善意の第三者」。浅野か、あるいはその親か、真に受けた誰かだろう。
私の胸の奥で、怒りでも、悲しみでもない、ただ、これは私の問題だという感覚が、静かに固まっていった。
玄関の鍵の音は、いつもより大きく聞こえた気がした。
靴を脱いで、鞄を置いて、制服のまま台所を覗く。お味噌汁のいい香りだ。
母は、まな板の上で包丁を止めなかった。
「ただいま」
「おかえり。手洗ってきなさい」
「はーい」
声はいつも通り。いつも通りすぎて、逆に怖い。
手早く済ませて椅子に座るとTVをつける。
「学校は?」
「普通」
包丁が一瞬止まった。
母が、振り返らずに言う。
「……最近、何か言われてない?」
やっぱり、知っている。
噂って、こういうところだけは早い。
「心配されるようなことしてるの?」
口調も語尾も柔らかい。
肯定でも否定でもなく事実の確認。
私は上を向いて、溜息をつきながら、ゆっくり椅子に寄り掛かった。
「してない」
「本当に?」
「本当に」
母はようやくこちらを見た。
目が合った。
「大学生の男の人ってね、高校生から見ると大人に見えるけど、実際はそうでもないのよ」
その言い方に、胸が少しだけざわつく。
「何かあってからじゃ遅いのよ」
「何も起きてない!」
少し強く言ってしまった。
そんなこと分かっている。分かっているから、黙らない。
「海斗くんはそんな人じゃない」
「そういう話じゃないの」
母はため息をつく。
「噂になってるって聞いたわ。……バイトをクビになった、とか。あなたに執着して問題を起こした、とか」
その言葉は冷たかったけれど、どこか試すような響きが含まれていた。
私は逃げずに、母の瞳を見つめ返す。
「それは、事実じゃないよ」
「そうね。でも、事実かどうかより、“そう見られている”ことが問題なの」
母の言うことは正しい。
正しいから、苦しい。
「それでも」
私は視線を逸らさない。
「私が、海斗くんを選んだのよ」
「海斗くんがバイトを辞めた理由も、私は知ってる。噂を流してるのが誰かも、たぶん分かってる」
母は、言葉を探すみたいに口を閉じると、少しだけ目を細めた。
「恋って、そう簡単じゃないわ……今はよくても、あとで、どこかで後悔する」
そう呟いた母はここではない、どこかを見ているようだった。
私は母から視線を逸らさなかった。
「それでも!……それでも、変えない」
「……それなら、どうするかは、あなたの問題よ」
試されている。そう感じた。
「泣いて帰ってきても母さん同じことを言うわよ――自分の居場所くらい、自分で守りなさい」
母は、夕飯の支度に戻ると、もうこちらを見なかった。
その背中は、少しだけ大きく見えた。
夜、部屋に戻って、スマホを見ても、通知は来ていなかった。
彼は、多分、何も知らない。
それでいい。
この決着は私がつける。




